CubとSRと

ただの日記

また、か。

2022年09月30日 | 日々の暮らし
 6時半頃、朝食。9時頃、コペンで出る。
 遠回りはするが、基本、先日と同じく道の駅でベリーAを、と思っていた。

 10時過ぎに着く。今日はベリーAとピオーネが置かれてあった。
 値段は去年と同じ1000円(ベリーA)と、1500円(ピオーネ)。
 
 買うわけでもなさそうな似たような年恰好の男性が二人、地元の人なんだろう、椅子に座って売り子の姐さん達と喋っている。
 そこへバンが一台やって来て「来ましたよ」と姐さん達。
 彼らは客だった。
 待っていたらしい今日二回目のシャインマスカットの到着だ。

 こっちはシャインマスカットには用がない。いや、金がない。
 ベリーA1000円を買って用は済んだけど、ついでだから道の駅まで行ってみることにした。
 行ってみたら、休みだった。明日からまた6日間、店開きらしい。さっき買っておかねば無駄足になるところだった。
 また来るとしたら22日(木)辺りが最後か。翌23日は車の6ヶ月点検の日。

 さて。
 折角、点検日を23日に変更してもらったのに、予報では23日は降水確率90%らしい。前後も雨天らしいけど、確率は23日が一番高い。
 ただ、台風の過ぎるのは21日。

 雨雲を全部引き連れていくことが多いのが台風だから、意外と23日は「台風一過」の晴天になっているかもしれない。

 明日、台風が来る前にパンを買いに行こうか。
 それとも、暑いから台風襲来に備えて体力温存?
 何といっても、夜中、雨漏りの心配をしなきゃならないという仕事がある。
 
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暑さが違って来た

2022年09月29日 | 日々の暮らし
 9月14日(水)

 暑かった。夜から朝にかけては、どうということもなかったけど、昼の暑さときたら!
 数十年前に一度だけ経験したことのあるサウナみたいだ。
 先日の朝の散歩の時のような、湿気が身体にまとわりつくような気持ち悪さはない。ただただ暑い、ばかり。

 大体が11時半頃寝たのだから弁解はできないのだが。
 今朝、まだ目覚ましが点かないうちに起きられたらしい、と安心して台所に降り、マウスピースを外してうがいをしたら時計が視界に入った。
 「4時20分」。

 え?目覚まし、点いてないぞ?と慌てて時計を見直す。
 台所のだけ、電池が切れた?いやいや。
 電池が切れて、時計が一時間も進むか??そんなの聞いたことない。

 ということはやっぱり目覚ましが点いても(CDが掛かっても)全く気が付かず、再生が終了する1時間後まで眠っていたということだ。
 それなりの音量なのに、1時間も気づかず、よくもまあ眠っていたもんだ。我ながら感心する(呆れる?)。

 4時45分に散歩に出て、帰ってきたのは5時半。
 当然のことながら、辺りはすっかり明るくなっていて、いくら自分の家の庭だって、流石に木刀振り回している姿を見られるのはうまくないな、と思い、素振りは中止した。
 
 まあ、そういうこともあるさ。
 「失敗」をなかったことにしちゃいけないけど、「後悔し続け」たって失敗は消えない。
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「追悼の辞に拍手、だなんて」、と思ったけど。

2022年09月28日 | 日々の暮らし
 菅前総理が読み上げられた追悼文の最後部です。


 衆議院第1会館1212号室の、あなたの机には読みかけの本が1冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。
 ここまで読んだという最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページにはマーカーペンで、線を引いたところがありました。
 しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ歌でありました。

 総理、今、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」
深い悲しみと寂しさを覚えます。総理、本当にありがとうございました。どうか安らかに、お休みください。
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街宣車

2022年09月27日 | 日々の暮らし
 9月11日続き

 マンガの「スーパーカブ」、7巻目が出ていると昨日知ったので、今日はそれを買いに出た。
 9月9日発売ということだったのに、近所の書店にはなかった。もう既に売り切れたのか、それともまだ入荷していないのか。

 とにかくしょうがない。諦めて次の目的地である珈琲店に向かう。
 いつもの丁(てい)字路近くの電光掲示板には「所要時間10分」とあったが、意外に込んでいた。

 やっとのこと「平野」まで出て、南下。楠町の交差点で左折。
 何だか妙に物々しい感じがする。
 「何で?」と思う間もなく理由に気づく。警官の姿がそこら中にある。

 県庁近くになると警官の姿のみならず警察の車両も何台も停まっている。警官の姿は更に増えている。
 いつの間にか道路は通行止め状態かと思うほど流れが悪くなる。
 そして、遂にマジックハンドみたいな通行止めの柵が道路の両側から延ばされ、本当に進行方向を通行止めにしてしまった。

 Uターンして引き返すこともできない。事情が分からない。
 目に角立てて「警察には説明責任がある!」と叫ぶ気はないが、このままでは困ってしまう。

 そばにいた警察官に「何があるんですか」と聞く。
 するとどうも街宣車がここを通るから警戒態勢を取っているということらしい。街宣活動をするために通行経路の届けがあったから、予め経路を外れぬよう警官を配置している。それで車列を分断して置いたので、今、ここを通るのはあの一台だけにできた、と。

 なるほど、黒いミニバンが何か音楽を流しながら前を横切り右折していった。音量も小さいし軍歌じゃないし、で、一体何をしたかったのか能く分からない。車には何も書かれていなかったから、どういう団体なのかも分からない。街宣右翼じゃないのかもしれない。それ以前に、右翼じゃなくてもしかして左翼?

 その車一台通り過ぎたら、正面の通行止めの柵はさっと開かれた。
 「ふざけるな」って話ですよ、国葬の前に何やってんだ。
 国葬に関する街宣なら「ふざけるな。葬儀が終わるまで黙ってろ」だけど、国葬とは関係のない街宣なら、もっと「ふざけるな」。

 凶弾に倒れた元首相の一生を頭から否定するのか。


 
 
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あんまり変わってない

2022年09月26日 | 日々の暮らし
 明日、安倍元総理の国葬。
 正確には国葬儀。今は流石にみんな知ってる。
 先日、アナウンサーの安住氏が「(この言葉)初めて聞きました」と発言してツイッターで散々に叩かれていたけど、彼のことだから意外に計算づくだったのかも。
 辛坊治郎氏が国葬の招待状、「俺のとこには来てない!」と激怒していたというのも、半分は話のネタ、半分は本気。真正面から捉えての批判は違うだろう。
 何しろ「やしきたかじんのそこまで言って委員会」の委員長として、難病を抱え辞任したことを「ぽんぽん痛いから辞める」と散々に揶揄された安倍総理の捲土重来のために一緒に風呂まで入った、文字通りの「裸の付き合い」をしたという自負がある。
 
 あれ、また脱線した。
 「国葬儀」、だった。確かに耳慣れない言葉だ。「国葬」ならわかる。けど「国葬儀」、ってのは何だか収まりが悪い。語感が良くない。
 でも、これ「葬式」って意味だから。葬式の「式」は形「式」や型「式」と同じ意味だろう。決まりとか決め事の意味で使う。
 「葬儀」の「儀」も同じ。やっぱり決まり・決め事。だから「儀式」なんて言葉もある。

 ということで「国葬儀」って収まりは悪いけど、本来は「国」の(行う)「葬儀(葬式)」という言葉だとみたら、略して「国葬」という方がおかしいんじゃないかという気がする。

 さて。
 今、「ミヤネ屋」という番組を見てたんだけど、バックで「国葬反対!」というデモの声が入っていた。太鼓叩いて。流石に「国葬上めろ」という手書きのプラカードも簡体字のも、ない。日本人だけで構成されているんだろう。

 で、思い出した。「金官デモ」ってのがあったなあ。あの時と同じ雰囲気。
 日記を見直してみた。
 もう、十年も経っている・・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                 2012.07/12 (Thu)

      (略)
 さて、毎週金曜日に官邸前で行われているデモ。「金」曜日の「官」邸前の「デモ」、ということで、これを「金官デモ」と言うんだそうですね。いかにも、の略し方で、「ははあ、大体、主唱者が見えるなあ」と思う方もあるかも、なんて思ったりしますが。

 首相官邸前のデモ、結構報道していました。
 例によって、公称20万人(!)、警察発表1万7千人。「一桁違う!」どころじゃないけれど、実数1万7千人というのは大変なものです。撮りようもあるだろうけれど、交差点の一区画は人、人、人ですっかり埋め尽くされていました。
 「大事件だ!ジャスミン革命だ!」「いやアジサイ革命だ!」
 マスコミは大騒ぎ。
 それに対して、
 「漁船体当たり事件やフジテレビ前デモはちっとも報道しなかったじゃないか!マスコミはおかしい!」
 とお怒りの方もあるか、と思いますが、それはまあ、ひとまず置いときましょう。

 前回の日記にも少し書きましたけど、あの鳥越氏の、いたく感激して口にしていたという、
「今回のデモは、組合の旗や学生の旗がないからこれはまったく生粋の市民のデモだ。1960年安保デモの時以来だ。52年来絶えてなかった市民デモの復活だ。凄く感慨深い」
「これは世界的傾向で日本は遅かった。ようやく原発という危機が目の前にドーンと来た時に、日本の市民は初めてこれはいかんぞ、自分たちが立ち上がらないとダメだと思った。日本に新しい波が来たなと言う感じがしている。今後もっと増えて行くという感じがする。利権に反対する人たちに僕も共感する」
などという
「これは生粋の普通の人のデモなんだ」
といったような科白や、その考え方の周辺について思ったことです。

 まあ最初に書いておきますと、確かに、これ、色々なところで報道されているように、これまでのデモとは違う。
 組織的に行われていたこれまでの一般的な「デモ」というのは、それぞれの参加者が、仕事を休んだりサボったり、休日出勤で穴埋めをしたりと、諸事繰り合わせ、準備万端整えて同じ日に、例えば今回のように官邸前に集まる。これ、そう簡単にできることではありません。
 更に、実は「止むに已まれず」、ではない、他の事情によって参加している場合が多い。それを鳥越氏などの年齢の人は能く知っている。

 この「そう簡単にできることではありません」ことを、敢えてやっている。連絡取りあって、「何月何日○○でデモ、やるんだけど来ない?」なんてのは表向きだけです。
 本当は
 「動員かかってるんだ。今度は君の番だ。」とか「組合員は全員参加!」
 みたいなのが普通です。決して「喜んで」、あるいは「止むに已まれず」行ってるわけじゃない。
 だからと言って、野次馬根性もあまりない。それどころかすっぽかしてやろうという気満々。
 召集掛ける方も心得たもので、
 「これ。場所と時間、書いてあるから。『当日病気になったり、緊急事態が起こった場合は連絡して(当時はケータイはなかったので、実質、不可能)』。じゃ、よろしく!」
 、なんてことで「人員を確保」していく。

 ・・・・分かりますよね、その先。
 当日「あ!急に体の具合が悪くなった。こんなんでデモに行ったりしたら死ぬかもしれない!今日は家で静養だ。いや、釣り堀に行った方が却っていいかもしれない」。
 色々考える。
 「だって、デモ行って、仲間見殺しになんかできないでしょ!」「でも、それゲームの話でしょ?」「まあ、そうですけど・・・」、なんてのはなかったと思いますが。

 というわけで、デモには推定参加者数を発表するものだから、警備側(警察ですね。暴動にならないように、という理由からです)が調べた人数は(推定)参加者数より、ひとケタ少ないのが普通です。

 今度のはどうでしょう。「動員はかかってない」?。そりゃそうです。
 職場の労組は「そんなこと」に組合員を動かしたりなんかはしない。「反原発」が職場の、また、その延長線上にある労組の益には全くなりませんから。

 「これは生粋の市民のデモなんだ!」
 組織が係わっていないという観点から言えば、そうです。
 でも、こういうことって誰かが声を掛けなきゃ、起こるものではない。
 つまり、自然発生的に起こるものではない。
 ツイッターとか、ネットの力だ、とか言うけれど、それだからこそ、誰かが火をつけなきゃ燃え上がる筈がない。自然発火するデモなんてないんです。自然発火するのは「暴動」です。その暴動だって必ず仕掛け人がいる。
デモには必ず複数の仕掛け人と、綿密な計画がある。

 「これは生粋の市民のデモなんだ!」
 或る意味では正しい。しかし、何者かが目論み、それに呼応した結果のデモであることに変わりはない。いや、デモというより「大人しい暴動」と言うべきかもしれません。
 証拠は参加者数の推移です。
 ここ毎週行われていたデモ、初めは数百人だったそうですね。それが二か月ほど経って、口コミ(と言ってもネット、ツイッターですから全国規模ですが)で広がり、それでもずっと数百人規模だった。
 それが6月末、数千人となり、今回は1万7千人、と急激に膨れ上がった。
 
 毎週やっている、ということが国会で採り上げられた途端に倍増した。それをマスコミが採り上げ、全国に流す。
 総理の、国会での答弁も流されて、一気に爆発的に増えて、1万7千人。
 河野太郎議員も来ていた。古賀氏も来ていた。二人とも参加しているような報道だったけど、実際は、初めて来た中の一人であり、参加というより見物だったし、河野議員に至っては、「子供に見せるために連れて来た」、と。

 或る人からこんなコメントをいただきました。
 「あのデモは、プロ市民が煽ってお花畑が乗せられただけのもんだ」
 そんなこと聞いたら怒り狂う人、結構いるんでしょうね。「将来のこと、『この国』の未来のこと、子供の将来のこと、考えてどこが悪いんだ!」って。

 え?と思います。将来のこと、国の未来、そこで子供が安心して暮らせるように?
 そのために今できることは「再稼働反対!原発反対!」と叫ぶことか?
       (略)

 親が全ての御膳立てをしてやって、子供らが安心して何不自由なく暮らす、なんて、それ、人間の生き方じゃないでしょう。
 西郷隆盛が「児孫のために美田を買わず」と言ったことだって、あれは「甘やかしたら駄目になる」等という後ろ向きの考え方ではない。「自分で苦労し、努力しなければ、立派な大人にはなれない」ということです。「若いうちの苦労は買ってでもせよ」「可愛い子には旅をさせよ」も同じです。

 親は、大人は、汗水垂らして働いている懸命な姿を、また、そういう生き方を見せることが大事なんじゃないですか。

       (以下略) 
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