CubとSRと

ただの日記

「併合」とは「(対等)合併」、ということではない。けど、「植民地」とは違う。

2021年08月31日 | 心の持ち様
 私が中高生の頃に住んでいた町はIHIの造船部門が中心となった企業城下町みたいなところでした。
 合併によってIHIができたのですが、勿論対等合併ではない。それが証拠に重役のほとんどが元石川島の社員によって占められている、と中学生の時に学校で習いました。
 I(石川島)H(播磨)ではなく、I(石川島播磨)H(重)I(工業)。
 そして、日本に追い付け追い越せ、と格安の船を造り続けた隣国に受注競争で敗れ続け、遂に元播磨造船所は全盛期の三分の一程度に縮小されました。

 「併合」という言葉は「吸収合併」に近い意味合いで使われますが、でも「合併」であって、「植民地」とは全く違います。

 宗主国は植民地の文化に、能く言えば「介入しない」。事務的に言えば「無視する」。つまり、植民地の文化の存在を「認めない」。
 対して「併合」は出来るだけ「(対等)合併」に見えるように併合される側の顔を立てる。相手に一目置いている、という姿勢を取る。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「併合と習ったはずなんですが」 2010.10/24 (Sun)

 先日の菅(かん)談話。返す返すも残念ではあります。
 概容は総理でなく、官房長官が作ったものと確信していますが、いずれにせよ、民主党に問題があり、もっと言えばそれを選んだ日本国民が、もっと反省すべきこと、です。

 にもかかわらず、内閣の支持率は60%もあり、尖閣諸島に関する一連の事件応対の不手際があっても、まだ、45%近くある。
 反省は全く為されていない。
 気になるのは、NHKをはじめ、大半のメディアはこの談話に関して、すぐ「朝鮮の植民地化」というような表現をすることです。
 はて?いつ、日本は朝鮮を植民地にしたろう?

 学校では「日韓併合」、「韓国併合」と習ったはずです。
 それどころか、この日記の初めの方で、韓国が独立国になったのは、日清戦争の講和条約(下関条約)第一条で、日本が清国に、朝鮮を独立国として認めさせた時が初めて、と書きました。「棚からぼた餅」の独立だった、と書いた覚えもあります。

 植民地というのは、そこに宗主国の人間が住み、現地にある資源、産物等を、入手、或いは収奪することで、利を得るためのものではなかったですか。
 何ら手を加えることなく、雨が降れば氾濫を繰り返すだけの川原に、「河原もの」として名字を持たない「○○」が住む。
 両班層は生産をしない。だからといって、いざという時に我が土地と領民を守るために武器を持って戦うわけでもない。
 商人は居ても、とにかく生産業、工業、といったものが家内制手工業から、先へ進まない。
 植民地にする旨みのかけらもないところに、河川整備、学校建設、戸籍作り等、国家予算の相当額をつぎ込んで生活を安定させようとした。
 これのどこが「植民地化」なんでしょう。

 「国家百年の計、と言うんだから、先の旨味をつくるためじゃないか?」と思った人は、現実の日本を見ればいい。
 そう簡単にはできないからこそ、「国家百年の計」なんて理想に近い目標をあらわす言葉が使われるんです。国内でさえできず、予算まで削って朝鮮のために、ですよ?

 これはやっぱり、身近な感覚で言えば、新興アジアの優等生として、西欧列強に評価してほしい、という自意識の問題でしょう。司馬遼太郎は、そのようなことを書いています。

 「併合だったら、何で創氏改名、皇民化教育なんてやるんだ!日本人が土地を買い漁って、地主になっているじゃないか!」と言う人々がいて、実際それは大きな問題みたいですが、「日本人が知ってはならない歴史」の著者、若狭和朋氏は、そのトリックを実に鮮やかに説かれています。

 先に述べた河川敷。洪水時に冠水を繰り返す、河原ものである○○が居住するところ。そこを整備したのは日本です。住んでいたのは○○。

 戸籍をつくる時、族譜を持たない奴婢は、「創氏」するしかありません。  住所は、「元、河原」。日本によって整備された元河原は、元からの居住者である○○の土地になります。
 朝鮮名をつけようとすると、族譜がどうこうという問題が出てくる。
 ならば、日本風の名字をつければ良い。これが「創氏」の実態です。
 「日本名の方が都合が良い、便利だ」、というのは、「日本での生活が」というより、元々、貴族層でも平民でもなかった者が朝鮮の身分制から解放されるということなのです。

 名字のなかった○○が、日本風の名字をつけ、日本に整備してもらった、洪水の心配のなくなった河川敷に住み、そこを田畑にして住所もそこにする。朝鮮人であるよりも、日本人になった方が良い。
 ・・・・・つまり、創氏した「日本人」が河辺の田畑を持った地主になる。

 実情は、だから、「日本人が土地を買い漁って」ではなく、日本によって名前と土地を同時に手に入れた元○○が「日本人になった」ということだ、と。

 さらに、つい思い違いをしてしまうこと。
 「併合」、「合併」というと、「一緒になる」という意味だから、「対等だ」、と無意識に思っていませんか?
 「しかし」と若狭氏は言います。「会社が対等合併ということはほとんどない」
 国もそうですね。国力が同じ国同士、合併なんてしますか?会社も。
 対等だと思うから「同じでないとおかしい」、となる。
 けれど、合併後、軍人、政治家等、元々の両班層から出た人は、そのままの姓を名乗って軍、国会で活動しています。
 対等ではなくとも、合併したら同じ国民だから、別に朝鮮人であることをやめる必要はない。
 本来、それまでの国力に差があるのだから、その差は受け入れ、中で力をつけ、同じにする。それは併合された方の努力すべきことで、実力のあるほうはそれを阻止するものではない。
 そんなことをすれば、周辺国に与し易しと思われ、ちょっかいを出されるだけです。(実際、この時は、ロシアも手を出しかねています)
 
 元○○だった、「創氏」して、日本風の名前を持った地主は、朝鮮人として生きるより、日本人として生きた方が良い。そりゃそうでしょう。初めて身分差別から解放されるのですから。

 朝鮮を保護国にし、実力がつくまで見守り、勿論援助して実力がついたら同盟国となって、「①属国に戻そうとするシナ」「②領土化を謀るロシア」に対抗すれば良かったのですが、ずっと属国として長年月日を重ねてきた朝鮮と、蛮族の地としてうち捨てられていた台湾とは、その歴史が全く異なっているが故に、その後の在り方は全く違ってしまいました。
 「ハイハイ」も満足にできない赤ん坊を、日本は無理矢理立たせ、手をつないで歩こうとしたのではないでしょうか。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能力(能くする力)ということ

2021年08月30日 | 日々の暮らし
 2013.02/06 (Wed)

 父の付き添いで診療所に行った時のことです。
 どうせしばらく待たねばならないだろうから、と「日本人が知ってはならない歴史 戦後編(若狭和朋 著)」という本を持って行きました。
 十数名の患者が診察を待っている中で、その本を取りだし、読み始めたんですが、「殉国七士の墓」の記述のところで、不覚にも涙が出そうになり、少々慌てました。

 他人のいる中で、マンガを読んで笑っている人のそばに居るのは些か以上に居心地の悪い、時には気持ちが悪いものですが、本を読みながら泣いているおっさんは気持ち悪い上に、みっともないでしょう?

 東条英機を始めとするA級戦犯の処刑前後から、昭和天皇の採られた行動について、書かれた文でした。
 この本の中にある、東条英機の遺言を読むと、行間から、彼が決して戦争を望んでいたのではない、彼は却って何とかして戦争を避けようとしていた、などの気持が伝わってきます。

 この本を読む数年前、昭和天皇の御発言のメモ、というのが見つかり、新聞でも書き立てられ、大きな話題になったことがありました。
 「A級戦犯が合祀されることになったから、私は靖国へ行くのをやめたのだ」
 、と昭和天皇が仰った、というメモです。
 それによって
 「先帝陛下は彼らを嫌っておられた、だから、靖国神社へ行かれなくなったのだ」
 というような捉え方の記事が新聞に載りました。
 その時はショックでした。
 「昭和天皇がこんなことを仰ったのは事実らしい。ということは、陛下は彼らを許しておられなかったのか。」
 そう思いました。
 これまでA級戦犯とされた人々のことを、事実無根の罪、と頭では、納得していました。
 が、恥ずかしいことに、このような新聞記事を見ると、そのメモがあるという事実から、 やっぱり学校で教えられたことが元にあって、陛下は彼らを嫌われていた、という意見が頭の中を席捲してしまうのです。

 しかしこの本で、東条英機という人物の心根、陛下の後に採られた行動を知り、先のメモが真実の物ならば、その解釈は180度変ってしまう、嫌っておられたのではない、許しておられなかったのではない、と気付いた時、自分の浅はかさを痛感しました。

 昭和天皇は靖国親拝をされなくなったけれども、偶々の行幸先の宿泊所で、この殉国七士の墓の方に向かわれ、唯御一人で、二十分佇立されていた。
 そうなると、
 「先帝陛下は彼らを嫌っておられた、だから、靖国神社へ行かれなくなったのだ」
 のではなく、
 「合祀を望まぬ国民もいると聞いている。靖国には行けない」
 となるではないか。彼ら国難に殉じた者を悼む以上に、合祀を望まぬ国民の気持ちを思い遣られたのだ、と。七士の祀りは、それらの国民に不快な思いをさせぬよう、人目に振れぬところで、ひそやかにしよう、と。


 「人は自分の能力の範囲内でしか、物事を把握できない」と言います。
 それを私は一国の総理大臣であった人物の心は勿論、先帝陛下の心、大御心までも、現在の大して努力もしないで生きている自分の心のレベルで判断してしまった。

 この恥ずかしさ。
 いや、それよりも陛下のなされようを、そんな風に軽々に思い込んでいた申しわけなさ。
 それにつくづく思わされた有難さ。

 そんな気持ちがないまぜになったんでしょうか。

 この程度の心根で、周囲の諸事を見、時には見下し、些かのためらいもなく切り捨てる。自分の把握能力、理解能力の低さを振り返ることもせず、当然、能力の低劣さを恬として恥ずることもなく、です。


 能力というのは「能くする力」と書くように、何か一つのことに関して他人より(少しは)「できる」力のことです。
 これは「性能」とは違って、生来のものではない。それなりの取り組みの結果、身に備わってくるものです。
 理解力にせよ、把握力にせよ、本当なら「理解能力」であり、「把握能力」です。

 「そんなこと、言われなくたって知ってるよ」
 と言われそうですが、この「能」一文字を考えることなしに遣っている場合が多いんじゃないでしょうか。
 そしてその「能力」。「考える」ことに関しては比較的意識することが多いように思いますが、「感じる」ことに関してはどうでしょう。

 「感じとる」ことだって大事な能力です。
 そして、「能力」なんですから、それなりの取り組みが為されていなければ、身につくことではありません。


 指導者には指導能力が問われます。当たり前のことです。
 でも、指導される方はどうなんでしょう。指導される能力ってあるんでしょうか?
 ありますよね。指導者に応えようとする意気込み、です。それがなくって指導される資格はない。

 けれど、指導能力ってのは「能力」である限り、つくらねばならない。
 同じく、指導される側も。日本の場合は「謙虚さ」、でしょうか。
 勢いの盛んな者には「発心」「発願」という形もあります。
 
 いずれにせよ、そこに、指導者の「思い遣り」、教わる方の「謙虚さ」、というものが常に見られるのが日本のごく普通の風景でした。
 そこには決して
 「教えて見ろよ、習ってやるから」
 とか
 「君のやりたいようにやったら良いんだ。主役は君だ。勝てなきゃやめてもらうだけだ」
 みたいな形はありませんでした。


 「感じ取る」。「謙虚になる」
 そんな能力、どこでつくってるんでしょうか。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そして今。コロナ禍に対する国民の思い。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽善宗教を日本は受け入れない (後半)

2021年08月29日 | 心の持ち様
 マッカーサーには靖国神社も目障りな存在だった。
 ここでは終戦の年の十一月二十日、対戦で散華した将兵の霊を慰める大招魂祭が執り行われた。天皇陛下も臨席され三万人が参拝した。
 彼はそれを知って靖国神社の焼き払いを思いつく。イスラエル人がカナンのバール神殿をやったようにローマ法王庁にやらせるのも一興だ。跡地はドッグレース場にする気だった。
 それで法王庁日本代表の上智大学教授ブルーノ・ビターにそれを命じた。
 ビターはまだまともなドイツ人で、馬鹿な役回りを拒否し、靖国神社は残った。
 キリスト教布教もうまくいかなかった。大量の宣教師投入でマッカーサーは「二千万人を信徒にする」(同)つもりだったが、日本人はキリスト教の偽善を出島の昔から知っていた。
 それに宣教師の中にサレジオ修道会のベルメルシュ神父もいた。彼は日本で女遊びにふけり、挙句に英国海外航空の日本人スチュワーデスと情交したあと首を絞めて殺し、善福寺川に捨てた。
 何人も目撃者がいて、さあ逮捕というときに修道会はバチカンに頼んで彼を国外に脱出させた。キリスト教の本性を晒した事件だった。
 皇室に入り込んだバイニング夫人もまた何の成果も挙げられなかった。
 ミッション系出身の妃殿下が一度キリスト教の教えに言及されたとき、昭和天皇が厳しくたしなめられたという話が伝わる。
 陛下は日本の根幹である神道を邪教扱いした米国もマッカーサーも、そしてキリスト教も決して好まれなかったように思われる。
 その証拠になるか。日経がスクープした「富田メモ」がある。昭和天皇はA級戦犯の靖国神社合祀に触れて「松岡、白鳥までも」と不快感を示されたという。
 なぜ二人は実名だったのか。一般には危うい三国同盟の推進者として不快がられたと言われるが、実は二人には二人だけの共通点があった。
 松岡洋祐は米留学時代にキリスト教に入信し、信仰心は篤かった。国粋主義の白鳥敏夫も巣鴨に入った後、洗礼を受け「天皇ご一家も洗礼を受け、国教にすべきだ」とまで言っている。
 陛下はだから二人は靖国には似合わない、と思われたのではないか。
      (2012年5月3・10日号)

  高山正之著 

  変見自在
 「マッカーサーは慰安婦がお好き」より
 
  新潮文庫  
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 >中島飛行機の跡地に「国際基督教大を建てさせ、宣教師二千五百名と聖書一万冊を空輸させて」(袖井林二郎『マッカーサーの二千日』)布教を図った。
 >大量の宣教師投入でマッカーサーは「二千万人を信徒にする」(同)つもりだった。

 「靖国神社を焼き払い、ドッグレース場に」というのは何度も目にした話ですが、「宣教師二千五百名と聖書一万冊を空輸させて」「 二千万人を信徒にする」って・・・・。

 それでやっと気が付いた富田メモの話。
 確かに、何故「松岡・白鳥(白取)」、と二人だけが実名だったのか。
 次回はそれについての日記を再掲します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽善宗教を日本は受け入れない

2021年08月28日 | 心の持ち様
 彼らは貧しいが、それも気にしない。穏やかで礼儀正しく好奇心に富む。ただ彼らの名誉にかかわるときは命も惜しまないと訪日した異人は語ってきた。
 それに「正義心も強い」とスウェーデン人ツユンベリーは記録する。「だから奴隷を酷使するオランダ人を心から憎んだ」と。
 出島のオランダ人が江戸城に参内する様子を詠んだ川柳が残る。
 紅毛の/登城に蠅の/ついてきて
 よほど彼らを嫌っていたことが分かる。
 米国人はそんな日本人に喧嘩を売り、無差別爆撃をやり、原爆まで落として三百万人を殺した。
 米国の悪い癖は、自分はいつも正義で、悪いのは相手だと言い張ることだ。
 円が安いからとプラザ合意で円を大幅に切り上げた。それでも日本製品は強いまま。
 それは日本の構造に欠陥があるからだと日米構造協議で日本解体をやらせた。
 終戦時もそう。残忍なのは米国なのに「日本が残忍な侵略国家」で、「その狂気は危険なカルト神道に根差している」(米国務省)と規定した。
 それに沿ってマッカーサーは「神道は邪教として迫害する」旨の総司令官命令を出した。命令は彼が創った憲法に「政教分離」の名で記された。ここでいう「教」は神道だけで、キリスト教や仏教は入らない。
  現に長崎市は二十六聖人顕彰碑を市の公園に祀らせ、維持管理費を出している。
 マッカーサーもキリスト教普及を職権で遂行した。中島飛行機の跡地に「国際基督教大を建てさせ、宣教師二千五百名と聖書一万冊を空輸させて」(袖井林二郎『マッカーサーの二千日』)布教を図った。
 天皇家にも神道からの改宗を迫り、皇太子の家庭教師にクエーカー教徒のバイニング夫人を押し付けた。「王様と私」のアンナのつもりなのか。日本人はその非礼に言葉を失った。

 (続く)


  高山正之著 

  変見自在
 「マッカーサーは慰安婦がお好き」より
 
  新潮文庫  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんな記事を目にした。

2021年08月27日 | 心の持ち様
 いつものことながら、つい「木を見て森を見ず」になってしまう。
 「遠山の目付(めつけ)」の大切さを実感します。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

◎8月24日にはパラリンピックの開会式よりもPrime Newsを優先した:前田正晶

 理由は「どうなる“菅降ろし”徹底論戦」との題名と、御厨貴氏、田崎史郎、久江雅彦氏というゲストに惹かれたからだった。私の関心事は23日の両橋下氏の論戦と同様な「菅義偉氏の危機」となるのかにあった。開会式はCMの間か、番組終了後でも間に合うだろうと決めていた。

 久江雅彦氏(元毎日新聞社で共同通信社の編集委員)は「岸田文雄氏は例 によって『26日に総裁選の告示があったら出馬するか否かを決める』というようなことを言ってはいるもの、安倍晋三氏と麻生太郎氏の言うなれば長老と二階幹事長が菅首相支持を表明してはいるが、イザとなったときに案外に議員票が岸田氏に流れるかも知れないし、地方では『菅でなければ誰でも』の雰囲気が濃厚なので過半数を獲ってしまうかも知れない」と指摘していたのが、何となく結論のように思えた。

 24日
 夜もテレビ的というかマスコミ的な専門家(御厨貴元東大教授が専門家か どうか知らないが)たちの発言では「菅義偉首相はチャンとやると言った事と、やるべき事をやっておられるのにも拘わらず人気が上がってこないし、一部の世論調査では支持率が25%などとなっているのは云々」だったのは、「矢張り論議はそっちに行くのか」と納得して聞いていた。
 田崎氏と久江氏の指摘では「自民党内には横浜市長選の敗北があってかな り動揺しており、特に安倍前首相の下で当選してきた二回と三回生には不安感が増幅している」となっていた。

 これにも新鮮味はないと思うが、二階幹事長が無礼だと指摘した「菅義偉 首相の下では選挙に勝てない」という声があるので、二長老と幹事長の菅支持の声明があっても、多くの党員がそれに従うのかとの疑問を呈していたと聞こえた。
 彼らは結局は「下村政調会長のように菅氏に任命された現職の党幹部が出 馬を表明するのは如何なものかと思うが、高市前総務相と共にやらせてみれば良いのだ。だが、矢張り鍵となるのは岸田文雄氏の動静だ」と言っていたのと同じだったと思わせられた解説だった。

 私は政治というか政界のことなど何も知らない一超後期高齢者だが、菅義 偉内閣総理大臣が誕生した直後に「菅義偉氏が二階幹事長を交替させられなかった一事を以て、この内閣の命運が決まってしまった」と得意の「閃 き」を語った。
 ここには何の理論も理屈もなく、二階幹事長のような高齢者が支配するの は好ましくないと思っているだけのこと。後には、故中曽根康弘が総理大臣になられた際に「田中曽根内閣」と揶揄されたように「二菅内閣」の様相を感じさせたところに、問題の芽を見出したのだった。私は何をさて措いても「時代感覚」に重きを置いている

 私は今日までの1年足らずの菅首相の政治手法を見ていると、首相自身の問題よりも、西村、田村、加藤等の股肱の臣(なのかな)に信ずるに足る人材を得ていないところが、最大の問題ではないのかと思っている。
 ではあっても、誰でもが全く過去に経験したことがない中国が振りまいた 疫病に挑戦しているのだから、世論調査を素直に満足させられないのも止むを得ないかとも見ている。

 菅首相の股肱の臣たちが初期の成果を挙げられないのは「未曾有の難局 (即ち「怖いこと」)に真っ向からぶつかっていかなければ、長いトンネルの向こうに灯火が見えてこない」という困難に対処する際の心構えが出 来ていないので、西村康稔大臣のように責任逃ればかりで、今日のように菅内閣が一般大衆受けがしない原因があると見ている。怖い相手から逃げれば、敵はどこまででも追いかけてくるものだ。
 自慢話をするのではないが、私はW社に移ってから、それこそ連日連夜のように襲ってくる品質問題(クレーム)から逃げたら負けだと悟って「当たっても砕けてはならない」ようにして苦境から脱出出来たのだ。

 西村康稔大臣が何百回「尾身副座長(現分科会長)のご意見を聞いて」と 言ったか。ペラペラと喋るだけの田村憲久厚労大臣は「知事会の求める都 市封鎖の内容を聞いていないので」とほざいた。彼はそういう事を決める国務大臣だという自覚がないのが情けないのだ。

 政治家というか現在の閣僚たちと某東京都知事は実務を知らないようだから、我が友YM氏がアメリカのIvy Leagueのビジネススクールで担当していたマーケティングの講座で指摘していたことを引用してみよう。
 それは「目標を大きな範囲に定めてから出発し、状況に従って範囲を狭めて究極的に目標に到達するようにせよ」だったそうだ。その要点は「我が国の政治のように継ぎ足し、継ぎ足しで後手を踏んだモグラ叩き的な手法は通用しない」と言っている点だ。

 私には総理大臣を変えれば問題が解決できるか否かの問題かどうかは解らないが、菅首相以下が先手から先手という手法に変えていけるかどうかだと思う。
 後手を踏むとは如何なる事かと言えば、東京都は今頃になって「新型コロナウイルスの感染者を受け入れない病院を告発し病院名を告知する」と言い出した。
 “Better late than never”ではある。だが、感染が始まってからどれほどの日時が経ったか。このような事例を「後手」というのだ。この後手を踏んだ知事さんが国政復帰の観測があるのだが・・・。


 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 5876号
    2021(令和3年)年 8月26日(木)
                                                               より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする