それは恐怖の夜でした。爺が小学4年生の時でした。
爺が育った所は、名鉄碧南駅まで300m程の距離で、旧地名を「海老取」と言い、また、駅のある地名は「塩取場」だったと記憶している。そんなもともと海抜0m地帯といえるような地区であった。台風が来るたびに床下浸水を被っていた。それ以前にも大きな台風が来た時は、床上浸水も幾度となく経験していた。
大型台風が来ると言うので、10坪にも満たない売り場ではあったが、爺の母は生地や商品をショウケースの上に積み上げた。また、奥が製綿工場であったので、200kg前後あったろう原綿や40kg程度のスカッチ綿などを少しでも高い位置にと、爺の父は移動させていた。畳もすべて上げた。
当時の家は二階建てとはいえ、以前、地震で倒壊した経緯から、天井の低いとても大人が立って歩けるような代物ではなかった。屋根裏といったほうが正しいだろう。普段、そんな屋根裏部屋は一旦外にでるように、二階の物干し場を通って行き来していた。もう、外からは行けない。屋内からは窓(巾150㎝・高さ90㎝ぐらい)が一つ、唯一の出入り口だった。普段は製綿した綿の倉庫である。
夕刻からすごい風雨であった。直に床下浸水となった。たぶん9時10時ごろからだろう。床上浸水のになった。思った以上に水の入る勢いが凄かったようだ。ショーケースの下段の商品はケースの上に置いたが、中段の商品もこのままでは水没しそうだった。さらに高い所へ商品を避難させなければならなかった。
爺の父は、爺を肩車し、屋内から行ける唯一の窓からその屋根裏部屋に上がるように言った。父が投げる商品を二階で受け取るのだ。次から次と投げられる商品を必死に受け取った。家は倒れんばかりに揺れた。懐中電灯だけの明かりであった。その時の恐怖感は今でも鮮明に覚えている。(後日、母が流石にお兄ちゃんやと誉めてくれた。嬉しかった)
綿ぼこりを抜く開閉できる1.8m角ほどの天窓もあった。強風で飛びそうだった。父はロープに摑まりながら、母から受け取ったロープでさらにしっかりと結わえていた。二階にいたはずの1年生の弟が、恐怖で母を求めて泣きながら降りてきた。すでに床上浸水。何度も床下浸水を経験しているから、床下を早く乾かすために床板が簡単に取れるようになっていた。弟は流れた床板のところで「ドボン!」。溺れた。
父は母と僕らにもういいから、(唯一両親の新婚時代に増築した一間)二階に上がれと言った。
翌朝見ると、綿入れ作業場は床上1m以上。売り場は1.5mは完全に水没していただろう。ショーケースの上の商品はショーケースごと浮き、倒れていた。当然商品は水の中。水没した商品を1週間ほど両親と従業員とで洗った。タダ同然で売った。当時はまだ、物の無い時代、許されたのだろう。
実はこの伊勢湾台風は、綿桂に幸運をもたらしてくれた。多額の保険金が下りた訳ではない。金銭的には大被害だ。
この後、市(県)から、被災者に配るふとんの発注があった。市(県)内の全ふとん屋にだ。予算は決められていた。その範囲内で納品することになった。爺の父はもちろん喜んで納品した。ただ、商売人ではなかった。大災害の後は往々に商品の相場は上がるものだ。次に仕入れる価格は当然高くなる。だが、過去に仕入れた値段に一定の利益を乗せただけだ。今(次回入荷)の価格でなく、過去(入荷済み)の価格で計算した。結果、綿桂のふとんが品質で一番良くなった。嘘だと思うが、ある被災者の方が市役所に行って「俺には綿桂の作ったふとんをくれ(欲しい)」と言ったとか。
この話は母から数回聞いた。市内でも最も小さなふとん屋であったが、お陰でその後は商いも順調に発展し、二年後には工場を新築移転し、また、店舗も台風から8年後に新築できた。両親は戦後すぐ結婚したが、借地からのスタートであった。貧乏を絵にかいたようであった。祖母の葬式も借金をして出したと聞いている。そんな状態を伊勢湾台風は吹き飛ばしてくれたのかもしれない。
石油ショックの時、ある石油販売会社の社長が「千歳一隅のチャンス」とばかりに(相場に従って)値上げをして一時的に儲けた。後日消費者や系列のガソリンスタンドの反発を買い、会社もおかしくなり退陣したニュースを見た。
伊勢湾台風の事件は、我が家の「家訓」である。