おばんです。皆様、お達者でしょうか。
(序
ある種、どうでもいいような記事ですので、余裕のない方、またお時間の無い方はどうぞ通り過ぎてくださってけっこうです。ただの駄文ゆえ、お許しを)
さて、うまく言えないくせに、平易なことばにしようとするため、さらにわかりづらいかもしれませんが・・・キャベツの苦手な言葉の一つに
「信じなさい」
という言葉があります。いや、これは使い方と言いますか、その言葉が使われる時と場面
・・・一体どういうときに、どういう相手に、この言葉が使われるか・・・
が苦手と思われるのですが。
具体的に、「神の救いを信じなさい」と、誰かが誰かに言うとします。
大抵、こんなセリフを言うのは、クリスチャン・・・など。
そして、こんなセリフを言われるのは、クリスチャン以外の方と相場が決まっているようなもの。これには、クリスチャンホームのお子さん 2)なども含まれます。
が、ここで少々疑問が発生。
「・・・『信じろ』って誰かに言われたから、信じるのか?」
「逆に『信じるな』って言われたら、信じないのか?」
(バプテスマを受けるか受けないかで迷っている人に対しては、いいだろうけどサ)
なんともわかりません。
参考になるかどうかはわかりませんが、一事例。
たとえば、キャベツが自分で集会に通うようになった頃、
・・・当時、キャベツの親は集会に来るような様子も聖書を開く様子もありませんでしたから、ある意味当たり前かもしれませんが・・・
どちらかと言うと、集会に行ったりするのは反対されていました。(ええ、そうですとも。ごくごく一部では有名な方も身近にいるため、クリスチャンホーム育ちだと勘違いされやすいですが、多分、我が両親に連れられて集会に行っていたとしたら、クリスチャンになることさえなかったかもしれません。ちなみに今、父は集会に戻ってきていますがね。)
バプテスマを受けるぞ、と決心したとき、一応親の承諾を得ようかと思って、
意を決して親父殿に聞いたところ、逆に、こう聞かれました。
「おまえ、親が反対したら、バプテスマを受けるのをやめるのか?」
・・・・・・・・否(いな)。
ごめん、反対されようがどうしようが、オレ、バプテスマ受けるわ。
昔の東北だと、「クリスチャンになる」ていうことで勘当(かんどう)された方々もいたようだけど、周りのクリスチャンの方々が助けてくれていたようだし、ま、なんとかなるだろう。
という感じでした。
つまり、反対されても『信じている』ことを手放すつもりは、毛頭なかったらしい。これは、キャベツが信心深いとか、頑固だとかいう性質があるから、というわけではないですよん。そうなるように、神さまがなさってくださったんだ、としか言えない。
事実、人が『神の救いを信じる』こと自体、奇跡(きせき)だ。イエス様ご自身が、こう言っておられるように。
すると彼らはイエスに言った。
「私たちは、神のわざ(=奇跡)を行うために、何をすべきでしょうか」
イエスは答えて言われた。
「あなたがたが、神が遣(つか)わした者を信じること、
それが神のわざです。」
(新約聖書・ヨハネの福音書6章28節~29節)
イエス様は、当時、色んな奇跡をなさっていた。
死人を甦(よみがえ)らせたり、
病人をいやしたり、
足が動かない人の足が動くようにさせたり、
目が見えない人の目がみえるようになったり。
この質問をした人々は、
5つのパンと2匹の魚が、どういうわけかわからないが、
男だけでも5千人いる群衆(ぐんしゅう)がおなかいっぱいに食べ、
その上で、
12個のかごが、その余ったものでいっぱいになったのを、
まざまざと見、その奇跡を味わった。
そして、同じようなことをできるようになりたいと思ったのだ。
が、そもそも、
人が、神様の存在を信じ、そのことばを受け入れることそれ自体、
神様のなさる奇跡だ。
どんなに聖書の(表面的な)知識が豊富にあったとしても、
たとえ、親がクリスチャンだから子供も・・・などと周りが期待したとしても、
人の熱意や意欲で、
クリスチャンとして生まれるわけではない。
人間的な熱心さのゆえに、
神の御霊(みたま)が与えられるわけではない。
ただし、その奇跡が起こったとき、
『神の御使いたちに喜びがわき起こる』(ルカの福音書15:10)ように、
人々の間にも喜びや感謝の声が起こっていた。
【注】
1)集会:キリスト集会。一般的には「教会」になってしまうけれど、もともとの原語の意味から、私たちの間では「集会」という言葉を用いる。
エホバの証人、モルモン教などなどとは関係ございません。
2)クリスチャンホームのお子さんというのは、親御(おやご)さんがクリスチャンであるため、小さい頃から毎週集会 1)に通ってきているような方々を指す。
【念のため】
一応、まとめらしきものを言うならば、
1.「信じろ」と強要されて、信じるもんじゃない
2.「信じる」ということ、それ自体が、神様のなさる奇跡やろ?
という小さな声でしょうか。
神様のみことばを信じるという大事なことを、軽々しく扱って欲しくないと言いますか・・・ね。難しい。
(序
ある種、どうでもいいような記事ですので、余裕のない方、またお時間の無い方はどうぞ通り過ぎてくださってけっこうです。ただの駄文ゆえ、お許しを)
さて、うまく言えないくせに、平易なことばにしようとするため、さらにわかりづらいかもしれませんが・・・キャベツの苦手な言葉の一つに
「信じなさい」
という言葉があります。いや、これは使い方と言いますか、その言葉が使われる時と場面
・・・一体どういうときに、どういう相手に、この言葉が使われるか・・・
が苦手と思われるのですが。
具体的に、「神の救いを信じなさい」と、誰かが誰かに言うとします。
大抵、こんなセリフを言うのは、クリスチャン・・・など。
そして、こんなセリフを言われるのは、クリスチャン以外の方と相場が決まっているようなもの。これには、クリスチャンホームのお子さん 2)なども含まれます。
が、ここで少々疑問が発生。
「・・・『信じろ』って誰かに言われたから、信じるのか?」
「逆に『信じるな』って言われたら、信じないのか?」
(バプテスマを受けるか受けないかで迷っている人に対しては、いいだろうけどサ)
なんともわかりません。
参考になるかどうかはわかりませんが、一事例。
たとえば、キャベツが自分で集会に通うようになった頃、
・・・当時、キャベツの親は集会に来るような様子も聖書を開く様子もありませんでしたから、ある意味当たり前かもしれませんが・・・
どちらかと言うと、集会に行ったりするのは反対されていました。(ええ、そうですとも。ごくごく一部では有名な方も身近にいるため、クリスチャンホーム育ちだと勘違いされやすいですが、多分、我が両親に連れられて集会に行っていたとしたら、クリスチャンになることさえなかったかもしれません。ちなみに今、父は集会に戻ってきていますがね。)
バプテスマを受けるぞ、と決心したとき、一応親の承諾を得ようかと思って、
意を決して親父殿に聞いたところ、逆に、こう聞かれました。
「おまえ、親が反対したら、バプテスマを受けるのをやめるのか?」
・・・・・・・・否(いな)。
ごめん、反対されようがどうしようが、オレ、バプテスマ受けるわ。
昔の東北だと、「クリスチャンになる」ていうことで勘当(かんどう)された方々もいたようだけど、周りのクリスチャンの方々が助けてくれていたようだし、ま、なんとかなるだろう。
という感じでした。
つまり、反対されても『信じている』ことを手放すつもりは、毛頭なかったらしい。これは、キャベツが信心深いとか、頑固だとかいう性質があるから、というわけではないですよん。そうなるように、神さまがなさってくださったんだ、としか言えない。
事実、人が『神の救いを信じる』こと自体、奇跡(きせき)だ。イエス様ご自身が、こう言っておられるように。
すると彼らはイエスに言った。
「私たちは、神のわざ(=奇跡)を行うために、何をすべきでしょうか」
イエスは答えて言われた。
「あなたがたが、神が遣(つか)わした者を信じること、
それが神のわざです。」
(新約聖書・ヨハネの福音書6章28節~29節)
イエス様は、当時、色んな奇跡をなさっていた。
死人を甦(よみがえ)らせたり、
病人をいやしたり、
足が動かない人の足が動くようにさせたり、
目が見えない人の目がみえるようになったり。
この質問をした人々は、
5つのパンと2匹の魚が、どういうわけかわからないが、
男だけでも5千人いる群衆(ぐんしゅう)がおなかいっぱいに食べ、
その上で、
12個のかごが、その余ったものでいっぱいになったのを、
まざまざと見、その奇跡を味わった。
そして、同じようなことをできるようになりたいと思ったのだ。
が、そもそも、
人が、神様の存在を信じ、そのことばを受け入れることそれ自体、
神様のなさる奇跡だ。
どんなに聖書の(表面的な)知識が豊富にあったとしても、
たとえ、親がクリスチャンだから子供も・・・などと周りが期待したとしても、
人の熱意や意欲で、
クリスチャンとして生まれるわけではない。
人間的な熱心さのゆえに、
神の御霊(みたま)が与えられるわけではない。
ただし、その奇跡が起こったとき、
『神の御使いたちに喜びがわき起こる』(ルカの福音書15:10)ように、
人々の間にも喜びや感謝の声が起こっていた。
【注】
1)集会:キリスト集会。一般的には「教会」になってしまうけれど、もともとの原語の意味から、私たちの間では「集会」という言葉を用いる。
エホバの証人、モルモン教などなどとは関係ございません。
2)クリスチャンホームのお子さんというのは、親御(おやご)さんがクリスチャンであるため、小さい頃から毎週集会 1)に通ってきているような方々を指す。
【念のため】
一応、まとめらしきものを言うならば、
1.「信じろ」と強要されて、信じるもんじゃない
2.「信じる」ということ、それ自体が、神様のなさる奇跡やろ?
という小さな声でしょうか。
神様のみことばを信じるという大事なことを、軽々しく扱って欲しくないと言いますか・・・ね。難しい。