さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

詩篇51編

2007-09-09 23:59:59 | Sunday 聖書
ちょっと長いけれど、興味のある方はどうぞ。


 詩篇51編  指揮者のために。
           ダビデ 1)の賛歌(さんか)。
           ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに 2)、
           預言者 3)ナタンが彼のもとに来たとき 8)


  神よ。御恵(みめぐ)みによって、私に情けをかけ、
     あなたの豊かなあわれみによって、
     私のそむきの罪(つみ)をぬぐい去ってください。

     どうか私の咎(とが)を、私から全く洗い去り、
     私の罪(つみ)から、私をきよめてください。

     まことに、私は自分のそむきの罪(つみ)を知っています。
     私の罪は、いつも私の目の前にあります。

     私はあなたに、ただあなたに、罪(つみ)を犯(おか)し、
     あなたの御目(おんめ)に悪(あく)であることを行いました。
     それゆえ、
     あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、
     さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

     ああ、私は咎(とが)ある者として生まれ、
     罪(つみ)ある者として母は私をみごもりました。

     ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。
     それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

     ヒソプ 4)をもって私の罪を除(のぞ)いて清めてください。
     そうすれば、私はきよくなりましょう。
     私を洗ってください。
     そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

     私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。
     そうすれば、あなたがお砕(くだ)きになった者が、
     喜ぶことでしょう。

     御顔(みかお)を私の罪(つみ)から隠し、
     私の咎(とが)をことごとく、ぬぐい去ってください。

     神よ。私にきよい心を造(つく)り、
     ゆるがない霊 5)を私のうちに新しくしてください。

     私をあなたの御前(みまえ)から、投げ捨てず、
     あなたの聖霊 5)を、私から取り去らないでください。



                 ・
                 ・
                 ・


     たとい私がささけても、
     まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。 6)
     全焼(ぜんしょう)のいけにえを、望まれません。

     神へのいけにえは、砕(くだ)かれたたましい。 7)
     砕(くだ)かれた、悔(く)いた心。
     神よ。あなたは、それをさげすまれません。

                          (旧約聖書・詩篇51編1~17節)


   詩篇は、神様への、人の祈り、嘆き、感謝、賛美、悲しみの吐露(とろ)、疑問、願い・・・そんな心からの叫びがある。
    (もちろん、この中に色々と隠されている事柄もある。)

    あなたは、この想いを理解できるでしょうか・・・?



                                                            


【注】
1)ダビデ:古代イスラエルの2代目の王(在位紀元前1000年 - 前961年頃)。超有名でもあり、立派な、信仰深い王だった。この事件は、ダビデ王の最大の汚点とも言えるかもしれない。

2)ダビデがバテ・シェバの元に~:バテ・シェバは、ダビデの家来ウリヤさんの妻だった美女さん。
             イスラエルの全軍が戦いに出ているとき、ダビデはエルサレム(イスラエルの首都)で安穏と夕方に起きるような(昔のダビデならばありえない)生活をし、ウリヤの妻であったバテ・シェバと関係をもつ。そして、バテ・シェバがみごもってしまったとき、それを隠蔽(いんぺい)しようとして、一旦ウリヤを戦前から呼び戻すが、ウリヤは、野営している他の家来たちのことを思い、家には帰らなかった。
             このままでは、ヤバイ。
             そう思ったダビデは、ウリヤに、ウリヤの上司への手紙を持たせる。

             「ウリヤを激戦の最前線に立たせ、彼だけを残して、彼が死ぬようにしろ」
             かくして、ウリヤは死に、バテ・シェバはダビデの妻となる。
             が、これは「主(しゅ=神様のこと)のみこころをそこなった」(旧約聖書・サムエル記第2 11章27節)

           ちなみに、新約聖書・マタイの福音書のイエス・キリストの系図には、バテ・シェバはバテ・シェバの名前ではなく、「ウリヤの妻」として出てくる。
           実に、「神の前で隠れおおせるものは何一つ」なし(ヘブル人への手紙4章13節)


3)預言者(よげんしゃ):神様からのことばを伝える人。「予言者」に非(あら)ず。

4)ヒソプ:聖書に描かれている「ヒソプ」は、今流通されているハーブのヒソプとは異なるらしく、どちらかというと、オレガノに近いMajorana syriacaであるらしい。小さな、目立たない低木(というよりも雑草に近いとか)であり、白い花を5月頃から夏近くまで咲いている。
      「ヒソプ」は清めなどの儀式に使われ、旧約聖書のあちらこちらに顔を出す。イスラエル人が、エジプトを脱出する直前の、「自分の家の門柱とかもいに血を塗る」ときも、ヒソプで塗っていたりしていましたっけ。 


5)霊、聖霊:聖書では、人を「霊(れい)・たましい・からだ」として捉えている。
     一般的には、人というものを「心とからだ」とみなすが、(厳密とは言えないが)その人を形作っているもののうち「心」という目に見えない部分を「霊+たましい」と捉えている。また、どちらかというと、「霊」は知的性質を、「たましい」は情緒的性質について述べられることが多い。

     また、「聖霊」は、言うならば、神様の「霊」の部分を指し示し、救われると、聖霊が人の内に内在する。(ここで言う「救い」とは、永遠の滅びからの救い、を示している。・・・が、馴れない人には「なんのこっちゃいな!?」だけど
     <又は、神様というお方は「父なる神・子なる神(=イエス・キリスト)・聖霊」という三つにして一つ(三位一体。3人で一人、という意味ではないよ)であるが、その「聖霊」のこと。>


6)いけにえ:昔、イスラエルでは罪を犯した場合、神にいけにえ<傷のない子羊など>を捧げなければならない。そして、祭司(さいし)によって罪の贖(あがな)いをされ、赦(ゆる)される。〔レビ記4章参照〕
  今は、新たにいけにえをささげる必要はない。キリスト・イエスが、ただ一度、十字架のおいて、身代わりのためのいけにえとなってくださった故である。


7)砕かれたたましい:簡単に言うならば、(たとえば)自己中心な頑固な心ではなく、悔(く)いた心。「ごめんなさい」と心底から思う心。と言えば、通じるだろうか。


8)預言者ナタンは、ダビデ王にあるたとえ話を話し出す。それに義憤(ぎふん)を抱いたダビデは、「そんな男は死刑だ!!」と言った。

   そうです、ダビデはかなり真面目な人なんです。
   加えて、知っていますかね?
   イスラエルの人々が聞かされていた律法(旧約聖書)の基準では、本来、たとえば、

   「子供が親をのろったら」  → 「そんな子供は死刑」(レビ記20章9節など参考)
   (ということは、もしも「バカ」とか「死ね」なんぞ、万が一親に言うような子供は・・・。)

   「他人の妻と姦通(かんつう)したら」  → 「姦通した男も女も必ず殺されなければならない」

   という厳しいものでした。
   (「現代なら、それはありえない。
     そもそも政教分離はキリスト教圏から発達したものじゃないか」、という御仁、ちょいとお待ちなさい。ここで言いたいのは、生活の中における道徳基準がこのような(今の世の中の人から見れば)厳しいものであったということデスので。)
   人は、他人のことならばそのように評価を下しやすいが、自分のしていることは見えづらい。キャベツもそうです。

   ともかく、ダビデは、そのように激しく怒ったときに、預言者ナタンによって

   「あなたがその男です」(旧約聖書・サムエル記第2 12章7節)

   と、ずばっと指摘されたとき、自らを省(かえり)みた。
   (そして、この歌が生まれた。




   さて、自分はどうだろう。
 

                  



【引用・参考文献】
・聖書 新改訳第2版,日本聖書刊行会,1987年
・庵部千恵子著;新聖書植物図鑑,教文館,1999年


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする