昭和20年8月15日、永山農業の1年生で、永山と当麻の境に射的山と言う小さな山と言うか、丘と言うか、でも山と名のつく山があり、そのふもとの梅津さんの家に援農に6月からいっていて、この日で終わりの日だつた。
今の中学3年生です。農業の経験のまったくない私でしたが、言われるままに農業の手伝いに励んでいて、ようやく終わりの日が来たのです。そして、次の日から夏休みになるので、その日一度学校に戻って午後には上川の家に帰ることができるのです。その楽しみを胸に学校に戻りました。そこで、終戦の玉音放送を聴いたのでした。
以前にブログに書いていますので、いまさら書くまでもないのですが、あの日のことは、今もまざまざと思い出します。
日本が降伏した、戦争に負けたとわかったとき、特別の感情がわかなかった。ただ、「そうか」と思い、でも残念な顔でもしなければならないかと人事みたいに感じていたのを思い出す。
その後、皇居前でひれ伏し泣き崩れている人の姿などが、新聞で報道されるのを見て、そんな気にならない自分が、何か悪いように思ったりしていた。
あの竹槍で戦い、最後の一人まで日本は戦うのだという言葉を信じていただけに降伏したことが理解できなかったし、それだけにただ呆然としていたのだと思う。
当時の自分は戦争に勝てるとは思っていなかったが、負けるとも思っていなかった。ただ、最後の一人まで戦うのだとそこは信じていた。
敗戦になり、戦後の苦しい生活の中で、戦時中の日本の姿を客観視できるようになって、この終戦を歓迎できた。勝てるはずのない戦争に国民を引きずりこんだ人たちの思惑が理解できなかった。元寇の戦いでの神風を信じ、信じさせた教育の力、恐ろしさを思ったりした。
あれから62年もたったのだ。あの敗戦からの日本やドイツ・イタリヤの復興の速さに、イラクや北朝鮮を比較しながら、感慨を新たにしている。