普通のおっさんの溜め息

戦前派から若い世代の人たちへの申し送りです。政治、社会、教育など批判だけでなく、「前向きの提案」も聞いて下さい。

戦前の学校(1)(当時の環境、尋常小学校)

2008-04-11 07:39:29 | 教育問題

 私が今の通り魔的事件や家庭内殺傷事件の続発を嘆いて、これには戦後以来の教育も関係していると書いた所、今の教育の批判ばかりでなく、昔の教育と比較すべきだとコメント頂いたことがある。
 私のブログでは、終始一貫して今の教育に日本古来の価値観の悪い事は捨てるのは勿論だが、良い所は取り入れべきだと書いているつもりだったのが、私の悪文の所為で今の教育の批判ばかりすると取られたようだ。

 それで昔の教育の良い所、悪い所をそのまま書いて見たい。
 但し素人の私が書く事だから、戦前の教育(約1930年-1942年)は当時子供時代の経験、戦後の教育は親の立場からの経験かん見た教育(1963年以降)を書いているので、必ずしも正確ではないところもあると思うが、団塊の世代以降の人達にいくらかでも参考になれば幸いだ。

「当時の環境]
日本全体

 1932年 五・一五事件→1936年 二・二六事件が発生
 4月号の文芸春秋で阿川弘之さんが書いているが「当時の日本は全くの暗黒時代だったかのように評する進歩派の人達の戦後史観は全く違う」と書いてあったが、以下のような私の経験からも同意見だ。
 話は逸れるが、五・一五事件、二・二六事件とも当時の政治の停滞と退廃が事件の一因となっている。
 そしてこれらの事件が日本が軍国主義に走り引き金となったのは間違いないと思う。
 今の政治情勢は正にそうだ。
 今の日本でこのようなことが起こるなど考えられないが、それだけなお一層に政治家達は緊張感と自覚を持って事に当たるべきだと思う。

社会
 動機不明の通り魔的事件、家庭内殺傷事件、子供の自殺などの件数はその発生原因はともかく戦前は遥かに少なかったし、日本全体としては軍国主義化していたが、軍は勿論、国家権力の介入などまったくない状態でも、今より遥かな平和な社会だった。
 それが日本人は正直、勤勉、親切で安全な社会と言う世界的な定説を産んだのだ。

子供社会
 当時は多くの子がいたので、家庭内でも小さい子供社会があり、地域でも殆どの子が外で遊んでいたし、それを何となく見ている大人がいたので、入学前から社会生活のルールを学んでいた。

いじめ
 私の居た地域は九州男児の気風が残っており、男は男らしく、女は女らしくの考えが子供社会にも浸透していた。
 従って、弱いものいじめや一人の子を多数で苛めるなど男の腐った子がするものだと言われ、思いやりのない女の子は皆から嫌われた。
 それで、学校には当時差別されていたの子、朝鮮人の子もいたが皆分け隔てなく遊んでいたし、彼らを意識的に大勢で差別したり苛めたりすることは全く無かった。

 私の家内を含む同じ地域で同年代の人達に聞いてもいじめなどしたこと見聞きしたこともないと言う人が殆どだった。
 然し、戦時中の疎開した子がイジメに逢った話など聞くと、製鉄工場などの工場や炭鉱への流入が激しかった開放的な土地柄もあったかも知れない。

 開放的と書いたが、遠賀川流域の現北九州市の西部から筑豊炭鉱地帯の人達はは所謂、川筋気質と呼ばれる独特の気質を持っていた。
 その代表的な人は今で言えば麻生太郎さんや相撲の魁皇だ。
 男らしくて、開けっ広げでお人好し、人から好かれるが総理や横綱にはなれそうにない。
 然しこの二人を見ても、とても彼らが子供時代イジメをしていたなど考えられもしないだろう。

 私は当時のいじめのなかった地域の研究をすることがいじめ根絶のヒントとなると思うのだが。

[尋常小学校](1930年~1936年)
学校と父兄の関係
 一口に言えば子供は完全に学校に預けっぱなしだった。
 貧乏な私の家では、家庭を与る母親が授業参観、運動会など学校行事に参加する余裕がないことと、学校を信頼していたのだろう。
 学校としても今のPTAに類する組織もないし、地域の参加も運動会や学芸会などを除いて全くなかった。


 祝日には学校でも必ず式が行われた。
 祝日自体が天長節(天皇がお生まれになった日)、紀元節、明治節(明治天皇がお生まれになった日)など皇室の行事に直結したものが殆どだった。
 祝日には各戸で日の丸があげられ、学校では教師、生徒全員が参列して式が行われた。
 校長が教育勅語をしまってある奉安殿からうやうやしく取り出し、天皇、皇后両陛下の写真が掲げられている講堂で、全員が神の御告げを聞くように低頭のもとで読み上げる。
 校長はマスクと白手袋。
 まるで神主が祝詞をあげると同じやり方だ。

指導者の神格化
 このように天皇陛下を神格化するなど今は考えられない。
 前に例にあげた阿川さんも書いていたが、正に北朝鮮の指導者の神格化と同じやり方だ。
 現存している国、地域、宗教の指導者の銅像を立てたり、家庭(日本では神道の考え方に基づく天皇家が総本家という信仰からで意味は少し違うが)や公共の場での写真を掲げたりし始めた国や団体には一歩退いて冷静に対応すべきだ。
 これは北朝鮮の他に、どこの国の誰とは言わないが、オーム真理教の麻原被告の例を見れば判ると思う。

修身(今の道徳)
 これについてはその内容の記憶が殆どない。
 今、道徳教育の導入の条件としてその評価をいかにするかが問題になっているが、私の記憶では今の国語や算数の評価は気にはなったが、本人も親も修身の評価など全く気にしていなかった。
 何故ならたまたま学校でいたずらをして先生に見つかったか否かで評価か変わるのだ程度しか思っていなかった。
 私は経験からして教材は児童、生徒の記憶に残るようなものを選ぶのが必要と思う。

体罰
 家庭では悪い事をすれば拳固で殴られたり、押し入れに押し込まれたり、食事を抜かされたりするのは普通だった。
 だから学校で悪いことをすれば、何らかの体罰が加えられるのも当然と思っていた。
 私の母など家庭訪問のとき教師にうちの子が悪いことをすれば、遠慮なく殴ってくださいというのが常だった。

 体罰と言っても普通は廊下に立たされたり、拳固や笞で軽く叩かれたりだった。
 但し、中には酷い教師がいて、皆に自習をさせて自分は多分他の本を読みながら巡回し、私語をするものが居ればいきなりその本で生徒の頬を殴ってりしたが、前の教育再生会議の答申のように、限度を越した体罰を除いてある程度の体罰は必要だと思う。

学級荒廃、問題生徒の発生
 学校に関するトラブルは全く無かった。
  
その理由は生徒が純朴だったこと、入学前から社会生活のルールが身についていたこと、家庭や地域による躾けが行き届いていたこと、教師が一般から尊敬される立場であったことなどなどが考えられる。

勉強
 多分大多数の生徒達は、家では宿題を除いては勉強を殆どしなかった。
 少なくとも私は全くと言って良い程しなかった。
 然し何とか学校の授業について行けた。
 その理由は
 ・旧制中学校へ進学者がクラスの10~20%に限られていた。
 ・今のような外部からの情報が殆どないので、好奇心一杯で学校の授業を受けた。
 ・素直な子が多かったので、乾いたスポンジのように授業の結果がそのまま頭に入った。
 ・上の二つの理由で児童が授業に集中していた。
 ・私の場合は無類の読書好きで、少年クラブなどの子供向けの雑誌から、当時流行っていた講談雑誌、果ては母や姉が買ってきた婦人雑誌など貪り読んだ。
 幸い当時は雑誌は全てふりがな付きだったので、子供でも何とか読む事が出来た。
 一昨日の読売テレビで灘中学に合格した生徒の様子を放送していたが、同中学校の校長が同中学の教育の重点として読書力の向上を上げていた。
  私が全く勉強しないでも何とかクラスの上位におられたのも私の子供時代の乱読のせいだと思う。

教師
・教師の授業の技術

 昔のように好奇心一杯で来る生徒に教えるため必要な教師の技術と、今のようにテレビ、携帯、インターネット、塾など情報が既に頭が満杯に成りかかっている生徒を面白可笑しく教えねばならぬ今の教師の技術は格段の差があると思う。
 私の5,6年生の時の担任は音楽が不得意なので、その時間を得意の物語の話や読み聞かせで児童達の人気を得ていた。

・教師の忙しさ
 授業を面白くするための準備、それ以外に多くのレポート、生徒指導、給食に伴う事務などなど今の教師の方が遥かに忙しい。
 昔は詰め込みというのか通り一遍のことを教えることと、試験問題の作成(ガリ版で多くの手間を要した)採点、成績管理など最低の仕事で済んだような気がする。

 いずれにしても学校教育は、教育の原点に戻って考える必要があると思う。
 そしてその上で「考える力」の育成、時代の変化への対応など改めて考え直す必要があると思う。

参照:カテゴリー → 教育改革、ゆとり教育
                              教育問題
                              いじめ

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教師同志のいじめ?

2008-03-06 16:16:17 | 教育問題

 3月4日、NHKのクローズアップ現代で「もう職場に行きたくない~広がる大人のいじめ~」の放送があった。
  NHKの案内では番組の概要
は次の通りだ。
  「いじめ」が今、大人の職場で広がり深刻な事態を引き起こしている。去年末、産業カウンセラー440名に行ったアンケートでは、社員の56%が「同僚間のいじめ」に悩んでいると返答。派遣社員の間では、有能な人を追い落とすためにいじめが広がり、学校現場では教師同士のいじめが多発。病院では看護師同士のいじめが起きていた。多発の背景には、派遣社員など労働契約の多様化が進み、生き残りをかけ職場が荒廃したことや、成果主義が導入され職場にゆとりがなくなっていることがあると見られる。事態を重く見た企業の中には、いじめ対策マニュアルを取り入れたり、懲戒処分の理由にいじめを付け加えるところも出てきている。広がる職場でのいじめ。その実態と対策に迫る。

[時代の変遷]
 私ども戦前派のように、企業の家族主義的な考え方に基づく、従業員の家族の成長による生活費の増加に対応する定年制と年功序列
型賃金を払っても、企業として外国企業に十分競争力を保っていた古き良い時代を過ごした人間に取っては、とても考えられない事が起きているそうだ。

 然しBRICs 、特に隣国の中国の台頭に伴う競争激化に対応して企業の成果主義の導入→職場にゆとりの減少がこのいじめと言う現象が生れたとすれば、職場のいじめの増加はある程度は致し方ないのかも知れない。

 然しこの現象の増加に対応して、一般企業には改正された労働安全衛生法第69・71条により労働者が働くための環境を安全・快適にしておく所謂、職場環境配慮義務が課せられた。
 つまり、例え肉体的に無傷であっても、陰口やセクハラ、仕事上で不平等な扱いを受るような事があれば会社が職場での環境を整えているとは言えぬので、当然、精神的な苦痛に対しても会社は職場環境配慮義務あるということだ。
 そして実際的にこれらいじめが授業員の精神的疾患による休業や退職などによる会社の損失と言う実害もあり、割合に適切な対処ができる土壌もあり、また対策の実施例も放送されていた。

[教師間のいじめ]
 然し一番に問題になるのは、「学校現場では教師同士のいじめが多発」だ。
 放送では一般的な、職場でのいじめ発生の原因として、企業などの成果主義の傾向の増大を上げていた。
 学校で言えば、この流れにあるのが最近問題になった教師の評価制度や学校のバウチャー制度だ。
 放送ではその他の理由として、教師や看護師特有の Emotional labor (感情労働)の問題を上げていた。
 詰まり教師は看護師は何時も生徒や患者に対しては、何時も良い人であり、いつもにこにこして接する必要がありそれがストレスとなっていると言うのだ。
  そして学校の教師達は企業の従業員と違って余程のことがない限り問題教師を解雇など出来ない制度になっているのが企業と違ってこの問題を難しくしている。

 これでは今まで問題になってきた生徒同志のいじめの解決やモンスター・ペアレンツへの対応どころでは無くなる。
 それこそ教師間のいじめ防止どころか、教師が一団になって事に当たらねばならぬ、学力の向上、生徒間のいじめや学級荒廃の防止、教師の精神疾患の防止などもっと大きな問題を抱えているのだ。

教師の団結を阻むもの
・成果主義(教師の評価制度の見直し、公立小、中学校のバウチャー制度)→教師間の競争
・日教組全盛時代からの名残で校長や教頭は管理者、教師の労働者の名残で管理する人、管理される人のやり方がまだ残っている。
・日教組、反日教組、ノンポリの対立が教師間に残っている。
 日教組に属していた友人の元教師の言によれば、国、教育委員会、校長などの圧力で教師の団結がばらばらにされたと言っていた。
・多分戦前からの教師は教室に入れば一国一城の主と言う感覚がまだ残っている。
 それで一般企業だったら普通の作業の標準化、資料の共同使用、先輩から後輩へのノウハウの伝承などが、十分でない。

 私は、
 スーパーマンを要求するのか、教員の免許更新制度 
 
 教師の締めつけよりも教育環境の改善へ

 学校現場の負担増と教育委員会
などで何度も日教組全盛時代の名残である、学校や教師の締めつけより教育環境の整備をすべきだと書いたきた。

 今度の教師間のいじめ問題の発生を期にさらに、学校の環境の改善に努め、教師間の協力を強化して学校が抱える問題の解決や改善に当たって貰いたいと思う。
 校長以下、教師全員が前向きになれば教師間のいじめは自然に消滅して行くはずだ。

 教育問題に特に関心のある私は、これを書いている間も、教師間のいじめなどある筈がない、この「問題が多発」と書いてあるが実際は極く一部に過ぎないとまだ思っている。
 どうかこれが私の希望的観測であって欲しいものだ。

現在や元学校関係者にお願い
 
もし私の駄文を読まれた方で、誤解や検討違いの点など有りましたら是非ご教示をお願い致します。

参照:カテゴリー → 教育問題
                教育改革、ゆとり教育

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建国記念の日の集会

2008-02-12 16:23:11 | 教育問題

[建国記念の日の集会]
 2月11日の建国記念の日に恒例の様に、神社本庁 
を中心とする「奉祝中央式典」と左派グループと日教組を中心とする、『建国記念の日』の反対集会が各地で開かれた。
(神社本庁:伊勢神宮を本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を包括する宗教法人)

 産経新聞の
賛否両派が集会 建国記念の日
では概要次の様に報じている。
 「建国記念の日」の11日、神社本庁などがつくる「日本の建国を祝う会」は明治神宮会館に約1300人を集め、「奉祝中央式典」を開催。小田村四郎会長は「戦後体制からの脱却を図るため政府が率先して祝賀行事を行うべきだ」と訴えた。
 市民団体「フォーラム平和・人権・環境」は千代田区内で約250人を集め、「『建国記念の日』を考える2月11日集会」を開き、上杉聡関西大講師が沖縄戦の記述をめぐる教科書検定問題について講演し、「旧軍を賛美する政治家などの右派勢力が私たちの愛国心をゆがめようとしている」と危機感を強調した。

[神道の指導者へ]
 神社本庁の「日本の建国を祝う会」は私の様な情報源の乏しい人にとっては神道関係者の殆ど唯一の社会活動のように見える。
 私は社会環境の劣化や世界の宗教問題が絡む紛争に対して、宗教界の人が立ち上がるべきだと何回か書いた。
 特に世界の宗教問題に絡む紛争については、唯一絶対の神を信じるキリスト、イスラム、ユダヤの各教を信じる人達の間では永遠に解決出来ない
 それに比して八百万神を信じる、詰まり真理は唯一つではないかも知れない、だから他の人の言う真理も一理あるかも知れないと言う、日本人の考え方の浸透しか、この種の問題の解決策にしかならないと思う。
 そしてその浸透の役割を担うのは日本の宗教界の人達と哲学者だと思うからだ。

 然し、私の頭の中にある宗教とは仏教しか考え付かなかった。
 何故なら、少なくとも戦後では神道を信じる人達の活動は「日本の建国を祝う会」以外見た事がないからだ。
 私は「建国記念の日」のたびに何時も思うのだが、今の日本の社会環境悪化を防ぐために仏教の指導者とともに、神道の人達も世界とは言わず、(何故なら神道は余りにも日本独特の宗教なので外国の人達には理解され難いから)国内でもっと活躍して貰いたいものだ。

[日教組へ]
 私はその建国記念の日に市民団体「フォーラム平和・人権・環境」のニュースを見るたびに、その集会の大部分を占める日教組の人達に聞いて貰いたい事を思い出す。
 特に彼らの「平和運動」に首を捻るからだ。

今の日本は平和か
 彼らが集会を開いた同じ2月11日にも、
 東京・足立区で4人死傷、無理心中か…52歳父親が遺書 
  
 名古屋の路上で会社員が男に腹を刺される 
   栃木県の警官の拳銃自殺 
などの報道がされている。

 この様な家庭内や路上での殺傷事件、家庭内暴力、凶悪事件の続発、交通事故や自殺の増加、日教組のホーム・グランドの学校でのイジメ、学級破壊、モンスター・ペアレンツの増加、精神的疾患に悩む教員の増加などなど、戦前や戦争直後など考えもつかなかった事だ。
 これで日本は平和と言えるのだろうか

本当の平和運動
 私も日教組と同じように軍国主義反対、戦争反対だ。
 然し、戦争がないことだけが平和だろうか。

 私は、日教組の平和活動が日常の社会生活の平和まで目指しているのなら、日教組の唱える平和活動は本物だと思う。
 もし日教組の人達が、仮に路上に立って何万と言う事故による死者を出さないために、交通事故撲滅運動を展開するとしたとき右翼の人達が邪魔をするだろうか。
 もし職を賭してでも日の丸や「君が代」に反対する位の情熱で、生徒達が学校で平和に過ごさせるために、問題生徒や父兄に当たったら世の中の全ての人達から喝采を浴びるだろう。

 私は上記の様々の社会環境悪化の原因は、行き過ぎた資本主義経済活動と戦後以来の教育にありと思っている。
 一口に言えば、権利重視、義務や責任の軽視、悪平等→生徒の甘やかし教育だ。
 私は日教組の元教師を知っている。
 温厚で立派な人柄な彼らから、何度も荒れた生徒や判らぬ父兄との取り組みの話しを聞いたが、何故そのような生徒や父兄が生れたかなど聞いたことがない。

 日教組の人達は今までやって来たことの総括して、彼らの活動がもたらしたもの良い所悪い所を取り上げてこの先の活動に活かすべきだと思う。

 然し私の言う事は多分机上の空論に終わり総括などしないか自分達の都合のよい点ばかり数え上げるだろう。
 そして、大変残念だが日教組は相変わらず平和を念仏のように唱えて、政府との対決姿勢をゆるめることはないだろう。

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沖縄自決に関する教科書検定

2007-12-27 07:24:26 | 教育問題

  沖縄問題について教科書検定について結論が出たようだ。

 この経緯については、27日付けの読売の社説の「沖縄」教科書 “政治的訂正”の愚を繰り返すなの(同紙の主張を除いた)事実だけ記述によると、
・来年度から使用される高校日本史教科書の沖縄戦・集団自決の記述について、教科用図書検定調査審議会は、教科書会社6社から提出されていた訂正申請を承認する見解をまとめ、渡海文部科学相に報告した。これを受け、文科省は訂正申請を承認した。
・例えば、今春の検定で「集団自決に追い込まれた人々もいた」とされていた記述は、「日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた」と訂正された。捕虜になるよりは自決せよとの教育や宣伝があったことも背景として付記された。
・最初の訂正申請では「日本軍の強制によって集団自決に追い込まれた人々もいた」とされていたが、審議会の意向を受け、申請内容が修正された。
・今回、9人の専門家から意見聴取した審議会は、集団自決が日本軍の命令で行われたことは「確認できていない」、集団自決の要因には「様々なものがある」などとする見解をまとめている。
・しかし、日本軍が「自決しなさい」と言って住民に手榴弾を手渡したとの記述も訂正申請で認められた。これについては、その根拠となった住民の証言の信頼性を疑問視する研究者もいる。
・ 政府が異例の訂正申請を認める発端となったのは、9月29日に沖縄県宜野湾市で開かれた検定意見の撤回を求める県民大会だった。
・実数を5倍以上も上回っていた主催者発表の数字に、政府が驚いたことで始まった“訂正劇”だった。
と言うのが大体の経緯だ。

[マスコミの報道姿勢]
 なお読売の主張は、
 検定済み教科書に対するこのような訂正申請がなし崩し的に認められていくのであれば、内外の政治的思惑によって、教科書検定制度そのものが揺らいでいくことにもなりかねない。
と今回の訂正そのものに対して批判しているようだ。

 これに対するNHKの昨夜の報道は、読売との主張と似た「政治的思惑によって、教科書検定の内容が変わる」と訂正の内容について政府を批判していた。
 その批判の裏付けとして放送された所謂有識者の発言の全ては教科書の訂正が不十分だと言わんばかりの主張ばかりだった。 街頭のアンケートも全て政府の訂正の内容批判の発言ばかりだった。
 テレビ朝日のニュースも見たが当然のように政府批判ばかりだった。

 この訂正(訂正そのものまたはその内容)に対する正しい世論は知る由もないが、ブログ上で見た限りでは、読売の主張のように、政治的思惑で軽々しく訂正すべきでないと言うのが大凡の意見だったような気がする。
 そしてそう言う意見を持つ人は自称、他称で右翼と言われているが、私の考えはその殆どが普通の人で一般の人達と違うのは問題意識を持っているだけだと思っている。
 その点から言えば、NHKもテレビ朝日も公平な報道をしていないような気がする。

 私は集団自決への日本軍の関与
で、自決の問題が起こったときの状況は、
・生きて虜囚の辱めを受けずと言う戦陣訓の教えが民間に藻行き渡ったいた
・米軍により追い詰められて散り散りになった状態で日本軍としての指示が末端まで届かなかった。
・この時海外での戦闘と違って、沖縄県民も軍人たち接触する機会があった。
 つまり一般の人達と将校や兵士が一緒に逃げ回った。
・その意味で軍の自決に関する何らかの関与はあった。
 そしてその中で民間人と共に、生命の危険に晒されていたときの考えられる将校、兵士の言動は下記のようなことは何でもあり得ることだ。
・民間人の生命を護ることを優先して戦う。
・軍人は捕虜になれないが、民間人は違うのだから米軍のところに行けという。
・自決を命令するか、勧める。
・民間人より自分の生命を優先する。
・民間人をスパイ容疑で殺害する
・民間人と一緒に米軍に投降する。
 詰まり、軍の統制が全く効かなくなった状態で、しかも生命の極限状態に陥ったとき、軍人でも同じ人間である本性が出るしそれに伴う対応が異なるのだ。
 だから私が考えたような、平時では思いもかけないような事態が起こる可能性が大きいと思う。
と書いた。

 私の考えはほぼ検定訂正後のテキストの内容とほぼ同じだが、全て私の推測によるものだ。
 教科書の執筆者からも検定について不満を表明しいる人達は、私と違ってなるべく多くの資料を元に書いたのだろうが、学問的に言えば、私と余り違わない推測を交えて書いていると思う。

 何故なら、沖縄生き残りの人達(軍人、民間人)の一人一人に当たって調べ、統計、解析した学問的な記録がないからだ。

 大江健三郎さんのように、沖縄の新聞社が発行した資料を見て、その著者とも面接もせずに書いた文章などは論外だが、曽野綾子さんの本でも科学的に公平な立場で調べたものを書いたものだそうだが、その内容は渡嘉敷島に限られている。

 私は、読売新聞の主張のように、「内外の政治的思惑によって、教科書検定制度そのものが揺らいでいくことにもなりかねない」ことのないように、心情に囚われずに公平に、学問的、徹底的な沖縄全土に渡る調査をして貰いたいと思う

 
そして自決を強要された人が何人、逆に軍人から良くして貰った人が何人などなど、軍人と民間人の間で起こった問題について、具体的な数字の統計を出し解析して貰ったら、今後の同じようなトラブルは起こらないと思う。

 調べるについては沖縄と言う狭い地域だから、そう大きな費用も手間もかからないはずだ。
 その調査対照の軍人、民間人とも高齢化が進みその数が減るばかりだ
 福田さんは例のまあまあ主義でこの件は一件落着と思っているかも知れないが、海外で言われている慰安婦問題のように間違った考え方が定着してしまわないように、沖縄自決問題に対しても今と言う時期を逸せずしないように、政府で考えて貰いたいものだ。

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戦前の子供の暮らし(社会劣化の観点からみた)

2007-10-20 10:52:32 | 教育問題

 昨日「社会劣化と教育予算最低の日本」を書いているうちに、私の子供時代の子供の暮らしを知って貰うのも、私が偉そうなことを書いた趣旨を理解して貰えると思って、上記のことを書いて見ようと思った。
 然しこの「戦前の子供の暮らし」と言っても、研究家でも学者でもない私が書くことだから、私の子供時代の記憶しか書けない。

[私の子供時代の環境]
 それでなるべく正確に理解して頂くために、当時の環境を書いて置く。
場所:北九州市の旧八幡市、一戸建て、長屋と私の家族が住んでいた間借りの家が混在するその頃で言えば中の下?位の住宅地。
 歩いて10分位のところには、開発中の住宅地、15分歩けば田畑が見える環境にあった。
時:官営の八幡製鉄所がなど工業開発が進み、背後地の筑豊では炭鉱景気の絶頂期で、人々の流入が激しかった。
 国道三号線沿いでは電車や自動車が走っていたが、その隣の旧九州鉄道の跡地で旧線路と呼ばれていた通りではまだ馬車や牛車が中心で、うっかりすると馬や牛の糞を踏みつける時代だった。

私の家族:父は製鉄の職夫という今で言えば、工員と契約社員の間の地位で、給料も知れたものだった。
 それで、夫婦と食べ盛りの子供5人を抱えているので、今思えば貧乏な暮らしをしていたのに違いない。
 前にも書いたが私の弁当おかずは、鰹節に醤油をかけたものか、海苔の佃煮と決まっていた。
 昔のことで先ず思い出すのは母のことだ。
当時は、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品は全くないので、学校から帰るといつも、盥(たらい)と洗濯板でごしごし洗濯しているか、料理をしているか、子供達のための毛糸を編んでいるか、あるいは家計を助けるための内職をしているかだった。
 しかもその合間には、漬け物を漬け込んだり、味噌や甘酒など迄作っていた。
 それも愚痴一つ言わずに。
 それだから子供の世話は姉や兄に任せられていた。
 私も姉にすっかり世話になっていたので、80を越したいまでも彼女には頭が上がらない。
 私自身も、一番下の弟をおぶって遊んだことを覚えている。 

[子供の遊び]
 今の子供と違っているところは、
・今の中学生から幼児まで大勢のが一緒になった遊びが多かったこと。
 年上の子は下の子を世話もするが、肩車して鬼ごっこするなど遊びの道具としても使っていたようだ。
・鬼ごっこ、隠れんぼ、果ては男の子達の荒っぽい広場での泥合戦(石を投げるのは反則)、けんけん相撲など体を使った遊びが中心だった。
・竹トンボ、当時まだ盛んだった七夕の笹飾りの竹から竹馬や正月の凧など子供達が自分で作って遊んだ。
・子供達が泥合戦や冒険ごっこなど自分で工夫して遊びを作った。
・水泳に行くにも川へは20分、海水浴へは約2時間歩いた。

[情報]
 当時の子供が得られる情報源は、子供同志の噂、親達の話しを聞く、当時はまだ珍しかったラジオを聴く他は本だけだった。
 それについて、私は兄が借りてきた本を読み終わって寝るのを待って、夜遅くまで読んだり、時々買って貰う「少年クラブ」に飽き足らず、母や姉が買った婦人雑誌まで盗み読みをした記憶がある。
 百日紅(さるすべり)、杜若(かきつばた)など今も覚えているのは当時の読書のお蔭だ。
 何故ならこれは学校では教えず、会社に行きだしてからは英文の原書
を読むことに変えたからだ。

 これからも記憶力盛んな若い時の読書の習慣づけが如何に大切か判る。

[勉強]
 ごく少数の中学校進学する子を除いて、また宿題を除いては全くと言う程勉強しなかった(と思う)。
 それでいて余り問題にならなかったのは、世の中がまだ競争社会になって無かったこともあるが、私の経験から言うと、当時の多くの子供達が素直で集中力や好奇心があり、先生達の話しをまるで乾いたスポンジのように吸収したからだと思う。
 何故なら小学校時代は記憶力抜群の時期で、学校が教える内容や程度ではそれで十分だったからだ。
 それと私が何とか皆に遅れずに就いて行けたのは、前に書いた読書のお蔭で、理解力が人並みにあったからだと思っている。

[いじめ]
 家内がテレビを見ながら私に「昔いじめなどあった」と聞いた。
 彼女も北九州出身だ。
 私がなんども書く様に、学校には当時で言う朝鮮人や当時差別されていた人達の子供もいたけれど、いじめなど全く見聞きしたことはなかった。
 それは、弱いものいじめしたり、大勢で一人をやっつけるのは、男として最低だ。女は女らしい思いやりとか気配りが大切と言う考えが子供にも行き渡っていたことと、土地柄が開放的な為だ。
(私のブログを前から見て頂いている人にお断りするが、本屋で県民性について書いたものを見たが、正確には「可なり開放的」とランクされているのは、全国で2~3箇所しかない内、福岡県でも北九州市の一部を除いた地域と、筑豊地方、筑後地方らしい。)

[現状の分析]
(1)昔のように学校から帰ったらいつも忙しく働いている母親を見て、子供がぐれるだろうか。
 大勢の子供を世話をする両親が、子供の養育の責任を放棄したり、果ては子供を虐待するだろうか、第一にそう考える暇もないだろう。
 細木数子さんは私の嫌い人の一人だが、家内に付き合わされてみるテレビで唯一良いことを言うと思うのは、「子供が悪いのは両親の責任だ、第一母親が金のために仕事に出かけて、子供の面倒をみないのが悪い」と言うのはよく分かる。
 ただ彼女の意見には、今の女性は金の為だけでなく、外部の仕事で自己表現したいと言う理由が抜けている。

  私の考えは、
今の時代では社会にでるのも、悪いことではないかも知れないが、家で何人かの子供産み育てるのも女性としての大切な役割で、社会に出ないのを馬鹿扱いにする風潮に流されないで、女性自身の判断自分のいずれの進路を選ぶかを決めて頂きたいと思う。

(2)昔は親の躾け、子供社会を経験し、外で多くの子供と遊ぶことで、社会訓練を経験した上で入学した。
 今の小中学校の教育にはその前提あるものとしているのが、学級崩壊やその前記の問題を引き起こしている。
(3)家では両親は勿論、兄、姉からの世話を受け、外で年上の子から面倒を見て貰うことで、目上や年上の人を尊敬し、その言うことに従うという経験を積んで来た。
 今は少子化時代で、その経験がないどころか、親から甘やかされ、個性尊重と言う名で我が儘放題の子供が出てきた。
 その結果両親や先生、コミュニティーの人達の言うことを聞かないと言う本人にとっても社会にとっても、残念な時代になってしまった。

(4)いじめ問題について藤原正彦さんの武士道や日本古来の美風の尊重がいじめ防止の基本だという意見が書かれた「国家の品格」が一次ブームになったが、いつの間にか忘れられている。
 いじめ防止には、男らしら、思いやりなどの日本の良い所の見直しと教育が一番大切だと思うのだが。

(5)今学力低下や、応用力の不足が言われているが、その基本として次の問題がある。
 1)好奇心の低下
 今学校以外で余りにも多くの情報が入ってくる。
 そのために学校で教師の言うことが面白くなくなり集中力が減る。
 そのため聞くだけで記憶に残り理解出来ることが出来ずに塾に通うことになる。
 2)一部と思うが今の子供達の遊びはゲームなど与えられたものばかりだ。
 遊びの中で自分で考えと新しい遊びを考え出したり、昔のように竹馬を自分で作る ときに、良い方法を考えたりする力とか習慣が無くなっている。
 3)子供の時からの読書の習慣がないので、人の言うこや書いてあることの理解力が不足をして居ないか。
 4)上記の根源はパソコン、ゲーム、テレビだ。
それで対策としては、今の時代では暴論かも知れないが、の禁止または遠ざける工夫があって良い様な気がする。
パソコンも子供が操作する範囲はおもちゃをいじるのと程度は殆ど変わらないので、ある年齢に達して、始めても直ぐに追いつく筈だ。
 5)但し念のために言うが私が勉強について書いたことは、小中学校までの話で、今の高校以上では、自学自習が必要になってくる。
これも生来の不勉強で、それなりのところで現役を退いた私が言うことなので間違いがない。

参照:
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社会劣化と教育予算最低の日本

2007-10-19 07:07:17 | 教育問題

 近頃、陰惨な殺人事件や家庭内殺傷事件、親としての義務を放棄した事件が絶えない。
 18日の報道だけを取り上げても、世の人々にショックを与えた鵜瀬柚希(うのせ・ゆずき)ちゃん刺殺事件や、奇想天外の被告の供述で物議を醸した例の陰惨な光市母子殺人事件の高裁での検事の最終弁論の他に次のような6つもの新しい事件が報道されている。
・東京都板橋区の、都営アパートで頭部に銃弾を打ち込まれて死亡した52歳の男性発見(殺人)
・京都府警が1歳6か月の長男遺体をコンクリ詰めした母親と内縁の夫逮捕(親の義務放棄)
・大津市で乳児が家に残され窒息死した件で両親を過失致死容疑で書類送検(親の義務放棄)
・愛知県豊橋市愛知の赤ちゃん用品店で店長に切りつけ放火した男2人逃走(殺人未遂)
・山形県尾花沢市で18歳の無職少年を祖母刺殺容疑で逮捕(家庭内殺傷)
・岡山の風俗店の実質経営者がで撃たて死亡(殺人)
 これらは明らかに異常だし、社会が劣化しだした兆候だとしか言いようが無い。

[社会劣化の原因]
 このような日本での社会崩壊ともいうような事件の背景には思いつくだけでも
<社会環境の変化>
・社会格差の拡大
・外国人の流入に伴う不良外国人の増加
・競争社会でのストレスの増加
・中国の台頭に伴う競争の激化→労務費のカット→貧困層の増大

<人のや意識や考え方の変化>
・日本古来の美風が薄れる
・権利ばかり教えて義務や責任軽視の教育の影響
・親としての義務を忘れた自分本位の親の増加
・モラルなど無視、金が全ての考え方
・個性尊重の名で我が儘な人が増える
・我慢できない子供や大人の増加
・贅沢に慣れ→貧乏に我慢出来ない→借金の増加

 その他核家族の発生、少子高齢化など数え上げればきりがないほど大きな要因が幾つもあると思う。

 社会環境の変化については第一に政府が考えるべき問題だが、国民の大多数はそれにもなんとか順応し耐えてきた。
 今の風潮、特に左派系の人々に言わせれば、全て政府の責任だと言うだろうが、政府に頼るだけでは、解決困難な問題が山積している。

 結局はその解決には、人々のモラルの向上にも頼る他ないと思う。
 その対策としては、子供から成人までの教育の問題が浮かび上がってくる。

[シンガポールの話]
 私はシンガポールへ約1年半長期出張したことがある。
 ご存知のようにシンガポールはゴミ一つ無いきれいないきれいな街と、街でつばを吐いたり、ゴミを捨てても罰金で有名だ。
 私が現地の重役にそのことを褒めると、彼は日本は街をきれいにするために特別な金も人を使わなくても綺麗なのでもっと凄いですよとお世辞を言った。
 つまり同国では、通りを汚す人を取り締まる為に多くの私服の警察官を配置しているのだ。
 その他、立ち小便、ボウフラが発生防止のため汚水を放置、横断歩道以外で道を渡る、乗り物や駅構内での飲食、禁煙指定箇所での喫煙などに対して罰金と取締官が待ち構えている。

 勿論罰金の収入で取締官の経費を賄える訳ではなく、国の規制を強化するために多くの経費を使っていることを彼が言うのだ。

 滞在が長引くにつれて、彼の意見が実感として判ってきた。
 アパートに居住して気がついたのだか、上の方から良く紙片がちらとら落ちてくる。
 現地の女中に聞くとティッシュ・ペーパーだそうだ。
 彼らは使用したものを外に放っているのだ。
 良くしたものだ毎朝掃除人がきてアパートの周辺を掃除してくれる。
 勿論掃除人の費用はどこかが負担するのだ。
 これがだんだんエスカレートして、上からダムベルや自転車まで放り出すもので迄現れ、通行人が危うく怪我を免れるまでなった。

 それに対しては流石一党独裁の政府だけあってその処置は機敏で的確だった。
 窓から外に物を放り投げるものは勿論、シンガポール人が好きな花の鉢を窓際に並べるのまで禁止、違反するものはまた罰金だ。

 詰まり余り同国民の中の民度の高くない人を取り締まるには、余分の経費をかけてもその為の人が必要だと言うことだ。

[教育予算の増額せよ]
 日本の場合も同様だ。

 増加する陰惨な殺人事件や家庭内殺傷事件、親としての義務を放棄した事件などを取り締まる為に余分の警察官が必要になってくる。
 予算がないからと言って増員をけちれば、社会の劣化が増すばかりだ。
 然もその後ろ向きの後始末にただでさえ赤字の貴重な予算を投入することになりいかにも非生産的だ。

 それより、社会劣化の原因の大きな原因の枠組みの一つの「人の意識や考え方の変化」に対応するために、その警察力強化の予算の一部を割いて、教育に予算に割り当てたらどうだろうか。

 これを人の体に例えると、医療費軽減のために、国民の健康増進に予算を増やすことだ。
 例えば癌予防のために、禁煙を勧める費用と癌治療のに要する健康保険の給付の額を比べれば、遥かに後者の方が高額なのは直ぐ判る。
 しかも禁煙は循環器系の殆どの場合に有効だ言われている。
 ウオーキングの場合はそれ以上の効果があり、殆どの病気の予防に有効と言われている。
 つまり、国民の健康増進の為の予算の増加は、計り知れない程の医療費、介護費用の減少に繋がるのだ。

 教育の場合も同じで、その効果は社会劣化に対応する警察力強化の予算の節約やいじめ、学級破壊、家庭の崩壊とうの、警察が関与しない社会劣化の予防や改善に止まらず、学力向上による経済面での国への貢献などの前向きな部分などあらゆる面で効果が期待でると思われる。

 小泉さんは「米百表」などの名言を紹介したが、それは口だけで、予算削減の一貫として、教育関係の予算までカットして仕舞った。
 そして現在の日本の教育予算は先進国の対GDPの比較では最低クラスで、公的支出では米国、韓国の半分しかないと言われている。

 安倍さんは教育改革を称えたが、教育予算増額まで手をつけずに下野してしまった。
 福田さんは今は民主党への対応で精一杯、教育などどころではないと言う立場のようだ。

 然し政府は国の健康のために、苦しい予算の中から何とかして、私の意見では予算の苦しい今こそ、教育予算を増やして貰いたいものだ

 何しろ少額の費用で大きな効果が期待できるからだ

参照:
 カテゴリー → 教育問題
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戦前派から 伝えたいこと

2007-08-14 11:38:49 | 教育問題
昨夜のNHKで、「NHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか~東京裁判・尋問調書より~」の放送があった。

私は終戦の年の4月に入隊し国内勤務のまま終戦の8月に復員したので、戦地の経験はないが、戦中を経験した日本人としてこのような放送を聴くのはやはり苦痛だ。
だから私も多くの戦前派と同様に当時の話など私の家族も含めて、殆どして来なかった。

然し、この放送の中で、南京虐殺事件の総責任者として、当時の中支那方面軍司令官であった松井石根大将の話を聞いて、かねてから思っていたことを書く気になった。

つまりこの事件に代表される戦争と言う人の命をかけた戦いと言う、異状事態で起こった不祥事は私たちに多くの教訓を含んでいると思うからだ。

最初に断っておくが私は人のことを非難する資格も気持ちもないし、具体的なこと書く気も全くないので、興味のある方はウエブなどで調べて頂きたい。

<<軍隊もいろいろ>>
私が言いたいのは小泉さんではないが「人生いろいろ、人もいろいろ」だと言う事だ。
それが戦争と言う極限状態になって、極端な形で現れることもあることだ。
・私の子供時代に「まーた負けた○連隊」と言う言葉が流行っていた。
○連隊というのは某地域中心で組織された連隊のことをからかった言葉だ。
つまり強い軍隊もあれば、弱いと言われた軍隊もあった。
・戦争の上手い指揮官もいれば、下手な人もいる。
・戦地でも同じで、現地の人にも配慮するように部下に命じた司令官もいれば、軍規を乱して地域の人達に被害を及ばすのを規制出来なかった司令官もいたかもしれない。
・私が最初に入隊したところは、九州と某地域から召集された初年兵の混成だったが、彼らの要領の良さに驚いた記憶がある。
・昔の軍隊では体罰が有名だが、私が入隊した隊の中隊長は体罰を厳禁していたお蔭で、私が体罰を受けたのは軍隊にいた5ケ月の間にほんの数回だった。
・私がいた分遣隊では、下半身下着を将校マントで隠して点呼に現れた鯖の腐った様な眼をした将校も見たし、鷹のように眼光鋭い空軍将校も見た。

<<戦地での不祥事の原因の一つ>>
・私はいじめ問題に関して、
私が過ごした小学校から旧制中学校までは、当時、特殊階級と思われていた人達出身の生徒も居れば、朝鮮人の生徒もいたが殆どイジメなどなかった。何故なら子供ながらも皆弱いものいじめをするのは、男の恥だ。思いやりのないのは女として恥ずかしいことだと思っていたからだ。
とブログに書いたところ、いや同じ時代にも酷いいじめがあったと言うコメントを貰った記憶がある。

それで、私は始めて、私が子供の頃の北九州は、九州男児の名の通り、男らしさが尊ばれていた、そして当時の重工業の発展で、多くの人達が流入していて、割に開放的なな土地柄だから「いじめ」など殆ど無かったことに気付いた。

・私事だが、私の家もご多分に洩れず、家内の完全な支配下にあるが、いくら癪に障ることを言われても、絶対に手を挙げない。
弱いものいじめは男の恥だという気持ちが心の底まで染みついているからだ。

読まれた方はもうお気づきのことと思うが、私が言いたいのは、戦争と言う極限状態にあるとき、また軍規の規制の及ばぬ戦闘地域では、平時では理性などで押さえつけられていたものが、人によっては突発して思いもよらぬことをしでかす可能性があると言う事だ。
確かに私もほんの断片的ではあるが、そのような事実があったことを戦地からの帰還兵から聞いたことがある。

また多くの人はそのような不祥事と無関係のまま復員したに違いないと言う事だ。

教師の眼の届かぬところでイジメをしていた生徒、気にいらぬ人を余所者扱いして除け者にしていた生徒が、そのまま大きくなって戦地に行けば録でも無いことをしでかす可能性が最も高かかったのだろう。

特定のグループの人達や当時の朝鮮の人達を見くだしていた人達が戦地で土地の人達にどう接したか、想像するだけで頭が痛くなる。

<<戦争の教訓を活かそう>>
時代は変わった。
日本は戦争の反省から平和教育を推進してきた。
平和憲法を持つ日本が少なくとも二度と自分から戦争を仕掛けることはないと思う。

然し平和なはずの日本でも、戦前から戦後しばらくまでは考えられなかった凶悪事件、家庭内殺傷事件、ドメスティク・バイオレンスが続発している。
そして学校ではクラスが荒廃し、イジメの話、とんでもない父兄に悩まされて鬱状態になる教師のニュースが途絶えない。

これで日本が本当に平和と言えるのだろうか。

今の厳しい時代ではストレスを引き起こす条件はどこにもあるし、それが凶悪事件や父兄の信じられない発言に繋がる可能性も大きい。

どのようなストレス状態でも、間違いをしでかさないようにするには、親の躾けや学校の教育が如何に大切かを強調してもし過ぎることはないと思う。
そしてその成果をどんな苦しい時でも活かせるまでに、教え込むことだ。

唯一の救いは、関東大震災のときにデマに踊らされた人達の朝鮮人襲撃事件があったが、最近の阪神、中越などの震災に伴う事件の発生は殆どないどころか、多くのボランティアの人達が救援に参加していることだ。
日本の若者達にも多くの立派な人もいることは、私たちに本当の意味の平和な日本への希望を与えてくれる。

私たちは所謂平和教育だけでなくて、高い代償を払った戦争からもっと多くの教訓を読み取り学ぶべきだと思う。

軍規に反した犯罪行為が起きたときの戦地の環境、それに関わった部隊、兵士、指揮官、司令官が平時にどのような環境にあり、どの様な言動をしていたかを知れば、事件の真相の解明をより深め、現代の様な厳しい時代にそれから得た教訓を活かせることにもなると思う。

私たちはどんな逆境あっても道を誤らない人になりたいものだ。

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親の要求で悲鳴を上げる教師

2007-07-28 07:40:45 | 教育問題

7月27日、NHKの九州向けで「親の要求で悲鳴」の放送があった。

そこでは困った親の新しい例として、
・不登校中の子供が行ったゲーム代を支払え。
・子供が朝寝坊なので学校から毎朝モーニング・コールをしろ。
・学校で怪我した子供を病院に連れていったところ、親らかその病院が家から遠すぎるのでとタクシー代を学校に請求してきた。
・親同志が仲が悪いのでその子達の席替えをしろ。

<<モンスターペアレンツの問題点>>
これらの問題に対してモンスターペアレンツ(理不尽な父兄)でも書いたが今日は年代ごとに問題点を整理してみた。

但し、教育環境の変化については地域によっても人によっても違いがあり、しかも素人が書くのだから、不正確かも知れない記事と承知の上で定性的に見て頂きたい。

<戦前>
教師は聖職と言われ、医師や弁護士などと同様またはそれ以上の尊敬を受けていた。
多くの家庭は貧しくかつ、多くの子供を抱えているので教育はまったく学校任せだった。
家庭内や社会の長幼の序が護られており、年上または目上の人達からの日本古来の価値観や仏教の教えなど子供達への躾けはほぼ行き届いていた。

勿論良い事ばかりでなく世の中は次第に軍国主義の道を歩いていた。

<終戦直後>
米国と日本の教育環境の違いを無視した民主主義を基調とする教育を導入された。
[日本と米国の教育環境比較]
米国:
・訴訟社会と言う民主主義の基本である権利主張に対してブレーキがある。
・フロンティア・スピリットを基調とする価値観や、キリスト教の教えに基づく家庭でのしつけがある程度出来ていた。

日本:
・訴訟など日本の文化に馴染まないので、権利行使の主張のし放題になりやすい。
・武士道の否定は否定は致し方ないとしても、日本古来の価値観の軽視または無視、否定するものまで現れた。
・神道の否定は当時は致し方ないとしても、仏教関係者までもが自信を無くしてしまった。
・それでも多く国民は昔の価値観をまだ信じていたが、敗戦のショックで学校で民主主義を習ってきた子供たちに、それを教えるのに迫力がなかった。
・それで教育は学校中心。
・権利重視、義務、責任の軽視または無視で、権利は追求するもの、義務と責任は人が負うべきものと言う考え方が一人歩きする素地ができた。

<戦後から1990年代まで>
[学校]
1947年 日教組設立、「教え子を再び戦場に送るな」を標語に文部省と対立
1950年~1999年 日教組は国旗掲揚と国歌斉唱に対して否定的な立場
1958年 組織率:86.3%
1961年 全国統一学力テスト実施への反対
1965年 歴史教科書問題をめぐった裁判
・教育の独立の名のもとに学校と言う密閉空間での生徒の純粋培養
・自主的な学校運営の名のもとの日教組の学校支配(日教組の方針反対者への「吊るし上げ」)
・教師は聖職者でなくて労働者と主張(聖職者の名での国からの搾取反対?)
・一番のお客である筈の生徒の方を全く向いていない
・家庭にとって生徒は人質と言う考えが広まる
・中学校教師から小学校の学力低下の問題点提起はするが小学校教師への攻撃なし、それをクラスの生徒数削減と言う教師の労力提言の目的に利用
・日教組に率いられた教師管理のためのレポート提出など戦前とは比較にならない仕事が増えてきた。
・学校管理の強化などから学校管理者へ教育委員会へのパッシングが始まった。
・学力低下そこのけの日教組などの政治活動への反発から教師のパッシングが始まった。
・社会的な訓練や家庭での躾けの出来ない子供が増えてきた。
・学級破壊などの一部学校での教育環境の荒廃が始まる。

[学校を取り巻く環境]
・学校教育の民主主義教育をそのまま鵜呑みにする父兄が出てきた。
逆にその行き過ぎを指摘し日本古来の良い点を教える人が自信喪失で迫力に乏しかった。・それで、権利は追求するもの、義務と責任は人が負うべきものと間違った民主主義を信じた生徒が出てきた。
・その生徒達が終戦後から1990年代の約40数年の間に、親になり子供を持ち、その子がまた親になると言う世代交代(と言う名の家庭教育環境の劣化)が進み始めた。
・経済の拡大と共に核家族化、少子化が進み始め、少年社会の縮小、消滅が始まった。
・異状に子供の教育に関心を持つ親、反対にそれを学校任せにする親が出始めた。
・塾の増加

<1990年以後から現在まで>>
[学校]

1991年 日教組の多くの組合員や一部の単位労働組の離脱し始める
1994年 日教組は文部省(現在の文部科学省)と協調路線をとることに決定し、文部省と和解した
1995年 隔週土曜日を休業日
1977年~1989年 学習内容、授業時数の削減。
2002年 完全学校週5日制の実施。日教組の提案の「総合的な学習の時間」の新設。
2004年 国際的な学力比較調査で日本の点数低下が問題となる。
2005年 文部科学省による学習指導要領の見直しを中央教育審議会に要請。
2006年 日教組組織率:28.8%

[学校]
・日教組と文部省(現在の文部科学省)と協調路線で、日教組は永年の懸案の土曜日全休を獲得、学力低下の問題を「総合的な学習」にすり替えしまった。
・当然の様に様々な教育改革が提言され、教師はその変化に悩まされ始めた。
・教師の質の向上だけをの提言によって教師間の連携プレイの減少など益々悪化する教育
・学校のコミュニティーへの開放が言われ出した。
・所謂モンスター・ペアレントの発生→神経系統の病気に悩む教師の増加。
・社会のルールを知らない教師が出始めた。

[学校を取り巻く環境]
 ・権利は追求するもの、義務と責任は人が負うべきものと間違った民主主義を信じる一部の家庭の世代交代が3世代まで進んだ。
・学校はサービス機関だと言う考えが進み始め、良くないサービスにクレームを付けるのは当然だと思う父兄が出てきた。

<<モンスター・ペアレントの対策>>
前記の「親の要求で悲鳴」のテレビでは、モンスター・ペアレントの対策として、父兄会がその対策に乗り出した例を報じていた。
たしかに父兄会ならその名の通り父兄の立場にたっているので、いくら判らない親でも彼らの意見をひねて受け取ることはないと思うので名案だと思うが、クレームで教師をノイローゼにしたり退職まで追い込むモンスターに対してどれだけ納得させるかは疑問だ。

やはり文科省が考えているクレームの対応を外部の専門家に任せる「外部委託」か、私が「モンスターペアレンツ(理不尽な父兄)」で書いた様な教育委員会に専門の対応者を設けて分からず屋を論破し、教育する方法の方がより現実的だと思う。

前のテレビで教師をサービス提供者と割り切って如何にお客さん(教師にとって本当のお客さんは生徒である筈だが、ここでは父兄)に、にこにこと気持ち良く接するかのトレーニングをしていたのを見たがこれでは、モンスターのような分からず屋を益々つけあがらせるだけだと思う。

基本的には、このような分からず屋の親が何故出てきたかを探求し、それが私の言う様に教育にあるとすれば、教育の方針を見直さなければ永遠に分からず屋の親が出てくることになると思う。


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モンスターペアレンツ(理不尽な父兄)

2007-07-22 07:11:51 | 教育問題

7月21日の読売新聞の理不尽な親に苦慮…学校の苦情対応外注、10教委で試行へ によると、とんでもない父兄への対応に遂に文科省も乗り出しようだ。

理不尽な要求に各地の学校が苦慮している問題を受け、文部科学省は来年度から、悪質なクレームの対応を外部の専門家に任せる「外部委託」を、一部の教育委員会で試験的に導入する方針を固めた。
 全国の教委から具体策のアイデアを募り、事業費も支援する。
 国が親のクレーム対策に乗り出すのは初めてで、同省では、学校現場の知恵も生かしながら、成果が確認された対策については全国に広げていく方針だ。
 親が学校に、「子供に掃除をさせるな」「(けんかをした)相手の子供を転校させろ」といった理不尽な要求を繰り返すケースが増え、こうした保護者は「モンスターペアレンツ」とも呼ばれている。長時間の苦情や抗議の電話が授業中にまで及び、教師の日常業務に支障が生じているほか、ストレスで体調を崩す教師も多い。今回の対策は、教師の負担を減らし、児童生徒と向き合う時間を確保する目的がある。
 文科省が導入予定の対策は、学校が手に負えないクレーム対応について、カウンセラーや弁護士らに任せたり、ボランティアの協力を得たりするもの。また、専門家が、保護者の対応でストレスを抱える教師の相談に乗り、悩みを早期に発見することも想定している。
 全国の教育委員会から、具体的な提案を募り、有識者による評価委員会が提案内容を審査した上で、実施する教委を決定する。事業費については、来年度予算の概算要求に盛り込む方針で、まず、約10の教委で試験的に実施、事業費の約8割を国が負担する。事業の実施後、成果が出れば、全国で導入していくという。

私の考えでは文科省の対策を遅すぎるとは思うが手を打ち始めたのは良い事だ。
特に教育委員会と言えば日教組全盛時代からの名残で、教師の管理が主体の体制になっていたし、今回の安倍さんの教育改革でもその傾向が強まった時に、教師サイドに立って とんでもない父兄から護ってくれる存在になることは、教師が教育委員会に抱いていた不信感や警戒感を軽減するだろうと思う。

然し、この問題には二つの問題を含んでいる。

<<父兄の再教育>>
文科省の対策は一時凌ぎの彌縫策だ。

そのようなとんでもない要求を持ち出す父兄はまた新たなクレームを付けるのは間違いない。
そんな父兄に一々対応していたら、いくら人間を投入しても間に合わない、学校の教師もそのクレームを教育委員会に持ち出す迄の対応に追われることになると思う。

私は教育委員会に父兄教育担当者を置く事を提案する。
その内容は、
1.モンスターペアレンツのクレーム対応
(1)文化省が考えている様な当面の対応策の実施
(2)父兄の考え方の問題点を徹底的に話し合いその考え方を直す。
つまり理不尽な父兄の再教育だ。
(勿論、教師側に問題があれば今まで同様の対応をする。)
そのために、しっかりとした識見を持ち、経験豊富なそして出来れば押しの強い弁の立つ人に担当させるか、いない時は新規に採用する。

2.一般父兄の教育
(1)教育再生会議が考えている「親学」のパンフレットの配布
(2)入学時の父兄の教育
学校からの教育の考え方や学校生活の説明と父兄の協力の希望、入学前のしつけの仕方などの資料の配布。
(3)有識者による講演会など。
以上の対策は核家族化が進む今、費用はかかっても欠かせないことだと思う。

<<何故そんな父兄が生まれたのか>>
私の前の提案は文科省のそれより一歩踏み込んではいるが、やはりその場凌ぎの感はぬぐえない。

そこで基本的に戦前から戦後20年近くまは殆ど見なかったその、モンスターペアレンツが今何故生まれてきたのか考えその対策を取る必要があると思う。

私の考えは
1.戦後の米国流の教育方針の導入と、当時、全盛の日教組による教育で、日本古来の美風は無視、権利重視、義務や責任は無視に近い程軽視の教育のため、権利、義務、責任は人に要求するもので、自分が負う物でないと言う考えが浸透してきた。

2.訴訟社会ではかなりうまく?機能してきた米国流の個人主義が、そう言う文化のない日本でそのまま受け入れられてきた。
その為個人主義(individualism)が人によっては利己主義(egoism)となっていた。

3.上記の傾向は日本古来の考え方を(辛うじて)持っていた家庭と、米国流の教育をそのまま無批判に受け入れた家庭の間に差があった。
後者の家庭では、上記の教育を受けた人が親になり、その子がまた親になると言う世代交代が進むに連れてがその傾向が加速してきた。
それが最近のモンスターペアレンツが問題になりだした理由であり時期も適合している。

勿論彼らの出現が全て戦後教育の弊害だとは言えないし、核家族化、少子化、市場経済主義や金儲け万能などの社会の影響などもあると思う。
いずれにしても、日本の戦後以来放置してきた問題点がとんでもない父兄が現れだした原因であることは間違いないと思う。

文科省は勿論、教育再生会議も地方の教育委員会もこの点について十分に検討して、今後の教育について考えて頂きたいものだ。

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旧日教組の教師の話

2007-07-17 10:17:49 | 教育問題

中越沖地震の被災者の方々へ心からお見舞い申し上げます。

私は昨日のブログの「マニフェストの読み方」で地方分権について書いた。
書いている内に、地方分権→自主的な学校運営→日教組の連想から私の知人の旧日教組の先生の話をしたくなった。

<<ある教師の話>>
1.私の属しているある趣味のグループには非常な問題意識を持っている人達ばかりいて、良く趣味の話から脱線して政治や社会情勢、国際問題などの話題ど盛り上がることが多い。

話が学校や教育のことに及ぶと会員の元日教組出身と思われる教師がよく、国旗や国家に象徴される軍国主義化とか、文部省に対する条件闘争とか、教育委員会の管理体制と戦ったなどの話が出る。

然し彼の持ち出した話は、殆どの場合私を含めて皆からさりげなく完全に無視される。

何故なら彼は人間的に非常に立派な温厚な人で、それでいて他の趣味のグループを立ち上げて主宰したり、コミュニティー作りや国際交流などで頑張っていることを知っており、彼の言った事に反対などして彼の気分を壊して、脱会などさせたくないからだ。

2.私が元住んでいた地域に来たころは、町内会活動が盛んで、熱心な人達が行事をやや強引に進めた余り、町内がそれまであった、仲良しグループとそれに反対する人達のグループ、そして私たちなどそのどちらにも属さない人達と分裂して、町内の活動が沈滞してしまった。

そして輪番で日教組出身の元教師が町内会の幹部になって町内活動に止めを差す事になった。

彼が最初に行ったのは町内会運営規則の見直しだった。
その会則の最初に大日本国憲法の精神に則り と書き、後は平和的にとか民主的な運営とかの字句が散りばめられていた。
町内会の基本は「向こう三軒両隣、近所付き合いを大切」にだと思いませんか

彼の就任以後は辛うじて続けられていた盆踊りは廃止、秋の文化祭は出品の激減で中止、それではと企画された町内での公園の花見も参加者希望者が殆どないまま。

町内活動はこうあるべきと信じて、(当時の誰もが認めたように)一生懸命やっている彼の活動は完全に空回り。
結局は、二カ月に一度の役員会が町内会の活動の全てだった。

この二つの例を見ても、日教組出身の教師の考え方は世の中の考え方と全く浮いた存在になっているのに気がつかぬまま、自分の考えに囚われている人もいるようだ。

<<「吊るし上げ」>>
あるブログを見ていたら、
学校の会議で日教組の教師の主張に反対した教師が会議後、日教組の教師達から別室に呼び出されて文句を言われたそうだ。それでもなお反対した教師が頑張り通したお蔭で学校が正常化された。
と書いてあった。

このように集団で一人の人をやっつけ、集団の意志に従わせる方法が、もう死語になりかかっているが、左翼系の人達が良く使った「吊るし上げ」だ。
日教組の組織率の高い広島県で民間から派遣された校長が何人か自殺した事実が報道されたが、何故かこれに対する日教組の関与の問題は殆ど報道されなかった。
然し、犠牲者の殆どが日教組による「吊るし上げ」 (彼らから言えば討論)の被害に逢ったに違いない。
余談ですが、あれだけの大問題である社保庁の年金問題に自治労の関与があれだけはっきりしているのに、ごく最近になってやっとマスコミに取り上げられるようになったのに良く似ていると思いませんか。

私が見たブログは、その昔ながらの方法が今でも行われていることを物語っている。
私の知人の昔革新を名乗った元日教組の先生達が、未だに現実離れした考え方から抜けきれないように。

<<教育の独立、自主的な運営学校>>
地方分権や教育の独立、学校の自主的な運営が叫ばれ、参院選で各党のマニフェストにも書かれている。

然し、学校の自主的な運営は、右翼的、左翼的な考えの人も居て良いし、所謂ノンポリなど色々な人達から自由にな意見が出て、それを集約すべきもので、特定の思想の集団で支配されるのは、健全な意味の自主的な運営とは言えない。

教育の独立も国家の過大な関与は困るが、特定な集団の介入を許してはならないと思う。

右翼系のブログで、日教組の解体など言われているが、日教組が真に教育の独立、学校の自主的な運営を言うのなら、あっさり解体するか、教師の待遇改善に特化し、教育問題の関与は避けて、教師達に学校運営についてを自由に発言させる機会を与えるべきだと思う。

そうすれば政府の介入の理由も無くなるし、介入に対する世論の批判も強くなる。

<<一部の学校の教育環境の荒廃>>
前の教師の話に戻るが、彼から荒れた学校の生徒の対応や、物の道理の判らない父兄の対応に苦慮した話を聞いた事がある。

学校の荒廃には種々の原因があると思うが、権利重視、義務や責任の軽視または無視の教育、個性尊重の名の規範意識教育の軽視、平等の名のもとの全員横並び教育による学力の低下、その学力低下が明らかになっても、教師の権利の確保の為何らの対応しなかったの教師の怠業
(今回大問題になっている、年金問題もその根源は、日教組と同じように、自治労による組合員の権利確保のみに勤めたことと良く似ています。)などなど日教組の関与は否定出来ないと思う。

然しそれに対する反省もなく、私の知人のように昔の考えに囚われているのだろうか。
そして何時もの様に、管理教育、詰め込み主義の行き過ぎなどよそ事のような責任転嫁をするのだろうか。

物事の判らない親を教育してきたのは、その親達が子供の時、うろ覚えだが80%前後の組織率を誇る日教組に加盟していた教師であることを忘れてはいないだろうか。

日教組は革新を名乗るなら、「経営者(政府)は悪、労働者(教師)は善」など浮き世離れした固定概念から脱却して、「政府も教師も良い所もあれば悪い所もある」ともっと頭を柔軟にそして、事態を直視し、前向きに考え行動すべきだと思う。
そうでなければ、革新を名乗る超保守と揶揄されても仕方がないと思う。

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未成年の凶悪事件と愛国心教育

2007-06-20 07:30:16 | 教育問題

私たちの英字新聞輪読会の教材に愛国者か市民か と言うジェニファー・松井さんのエッセーがあった。

同紙は
精神を病んだ未成年者によるおぞましい事件が発生すると、それはリベラル化した社会の副産物であり、愛国心の欠如に起因するものだと、一部の人は説明する。そして政治家たちは、こうした悲劇を「愛国」教育を進めるための弾みに利用しているのではないだろうか?
とその内容を日本文で説明している。

その概要は、
日本の青少年のモラルの低下を含む事件のニュース特に下記のセンセーションな事件どの報道が無い事はない。
17歳の少年の母親殺害、切断事件などでに対する対策の問題。
(一部省略)

精神障害を起こした若い人は戦後を形作ってきた、リベラルの勢力の副産物であると言う考えは、一般的にモラルの低下は愛国主義の不足が一般的なモラルの低下であるという考え方に弾みを与えた。

政府の不合理な政策に関してポイントを稼ごうと、与党の鷹派は若い人達を国に都合の良い方向に影響されやすい方に変えさせようと狙いを定めた。

(如何に娯楽産業が、思春期前のアイドルをセクシーに見せようとしたり、愚かな消費者行動を促進したのが若い人達の堕落させ、食い物にしたことに責任があるとされない事に注意する事。)

一方政治家は、この悲劇を政治的に有利な方に持って行こうとしている。
特に、公立の学校に愛国教育を強く求めている。
 彼らは、十代の暴力事件と、宗教に関係の無い特に憲法の間に間違った類似点を描こうとしている?
(原文下記)
(They draw false parallels between teen violence and Japan's secular institutions, particularly its Constitution.)

教室で国歌を歌ったり国旗を敬うことが、小さな国民を日本の為に命を投げ出す用意のある戦士に劇的に変える事はなさそうだ。
然しこれらの方法は独立心や批判精神を抑え、暴力を常態化し、スキルとや創造力に富む人を必要としている、益々競争力のある労働力を必要とする現実に対処出来ない人を作っている。

国歌をうたったり国旗を敬うことが、何故こう言う結論になるか判ります?
それなら国旗掲揚している、世界の多くの国が皆そう言うことに成るはずです。
戦前派の私から言わせれば、戦前は軍国主義だったけれど、今の様な若者の凶悪事件は殆ど無かったことを知っています。

国家主義は、せいぜい資源と政治政策を支配しようとする、侵略的な世界的な大国に対してその主権を維持するのに役立つだけだ。
それは恐怖の憎しみを引き起し、自国より弱い国の侵略を正当化することに使われかねない。

然し、誠実な労働、倫理的な生活、互いに責任を持ち合うことを通じて、社会や国の繁栄に積極的に貢献させる方が、愛国心について空虚なスローガンを唱えるより、もっと世界における国の地位を高めるのに役立つ。

ページの半分を割いて、若者の凶悪事件を書いているのに、結論がこれです。
著者は何を言いたかったのでしょう。

これを読み終わって、新聞講読そっちのけで、雑談が始まった。(勿論日本語それも土地訛り丸出しで)

数人の人:彼女は何時も難しい文章を書くが、今度ばかりは何を書いているのか判らない。
私:文章の難しさばかりでなくても、今回は、何時もの彼女らしくない舌足らずね文章と論理の飛躍があるから彼女が何を言っているのか判らないのだろう。

国旗掲揚と国歌斉唱の強制
Aさん(元教師):教育委員会の国旗掲揚、国家斉唱に対する締めつけと、日教組の反対のトラブルで大変だった。
私:式で日本だけの国旗を上げ、国歌を斉唱をさせるから問題になるのだ。
現在では外国の教師や生徒もいるのだから、その国の国旗も上げたり、その国の国歌の放送もして、日本だけでなくて、全ての国の国旗や国歌に敬意を表する ように教育したら問題は起こらないはずだ。
Bさん:韓国や中国では日本の国旗良く燃やすそうだ。

愛国心教育
私:愛国心教育が問題になっているが、私は日本の国の良い所や悪い所を諸外国と比較しながら教育したら良いと思う。
そうすれば愛国心など取り立てて言わないでも自然についてくる

Cさん(元教師):今まで余りにも日本の良い所を教えなさ過ぎた
日本の良い所をもっと教えるべきだ。
私は青年学級で日本の良い所を教えてきたことがある。

Cさん:そう言えばNHKの「プロフェッショナル」で立派な人達の紹介など、大分良くなったが、もって良い話を放送すべきだ
私:メンバーのDさんのように、40人のスタッフを率いて、完全なボランティアどころか、会費を手出しして、外国人の教育をしている人など紹介すべきだ。

とんでもない父兄
Dさん:いいえ、会員の大学生から同じ外人相手で飽いたので、他の人に変えてくれといったのを拒否すると、その母親が出てきて、息子の言うとうりしろと言うクレームを貰ったなど色々あり、今は会計に退いている。
皆:へえー、今学校を悩ませているとんでもない父兄の問題が、こんな所まで来ているのだね。

テレビとスポンサーの責任
Eさん:今の民放は何?同じ陰惨な話を繰り返し繰り返し放送のマンネリだ。
そんな事放送する時間があれば良い話を放送しても良いのにね。

Fさん:それと首を捻るようなドラマや漫画の放送など何とかならないのかね。
私:テレビ関係者の責任は勿論だが、スポンサーのモラルの問題もある。
日本社会の弱点は、弱い消費者運動だ。米国のようにこれらのスポンサーの製品の不買運動をすれば良いのにね。

安倍内閣の評判
私:大体安倍さんはひょっとしたら頭がわるいのかね。
愛国心教育など頭から言わずに、良い所悪い所をを含めて日本のもっと良く知って貰う教育を進めれば、教育効果ももっと上がるし、国内の左派や今度のような外国人の批判を受けずに済んだのにね。
慰安婦問題の発言の失敗もあるし、今のように内閣の実績を上げるためと思って、強行採決を繰り返すのが内閣の支持率を下げる要因 となっているのが判らないのかね。
皆:みんな期待していたのにね。

参照:
所謂愛国心教育について
最近の安倍さん批判
マスコミの報道責任
 親の理不尽な要求、抗議に学校苦慮

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親の理不尽な要求、抗議に学校苦慮

2007-06-19 06:29:18 | 教育問題

親の理不尽な要求、抗議に学校苦慮…読売調査 (6月18日  読売新聞)
によれば、
 子供の通う学校に理不尽な要求や抗議を行う親に、全国の公立小中学校や教育委員会が苦慮している実態が、読売新聞の調査で明らかになった。

 具体例の中では、
・「自宅で掃除をさせていないから、学校でもさせないでほしい」
・「(子供同士で小さなトラブルになった)相手の子を転校させるか、登校させないようにしてほしい」
・「子供が精神的に傷ついた」と抗議したり、子供が起こした自転車事故なのに、「学校の指導が悪い」と主張したりする例もあった。
中には
・「うちの子は家で掃除をさせていないので、家でもさせないで欲しい」
などの極端な例もあったそうだ。

 親からの継続的なクレームに対応するため、教師が部活動の指導やテストの採点作業の時間を奪われたり、精神的なストレスを抱えたりすることも多く、「教育活動に支障を来している」との声が出ている。

 一方、教委では、クレームを想定した対策として、
・「管理職と教務主任を対象に研修を実施」
・「教委に親対応の専門職員を置いている」
・「目に余る時は警察と連携する」
・問題行動を起こす親を精神的にサポートする必要があるとして、「臨床心理士と協力して対応する」
・「学校が弁護士に相談できる制度をスタートさせる」
など上げている。
 教育再生会議も今月1日に公表した第2次報告の中で、精神科医や警察官OBなどが学校と保護者の意思疎通を手助けする「学校問題解決支援チーム(仮称)」を各教委に設置するよう提言している。
そうだ。

<<権利と責任>>
前に何度か書いたが私の昔経験したことを聞いて頂きたい。
息子が学校から持って帰った試験の答案を見ました。
「お母さんからお菓子を二つ貰いました。弟がそれを見て一つ呉れと言いました。貴方はどうしますか」と言った問題でした。
息子の解答は「弟に一つ別けてやると」書いていましたが、[×]がついていました。
つまり二つ貰ったのはその子の権利だから、それを主張すべきだ と言うのです。
私は驚いて、学校がそう言うのならそう覚えるしか仕方がないが、うちの家だけは権利より兄弟への思いやりの方が大切なので、 息子の書いた通りにしなさいと言いました。

私がこれをブログで紹介したところ、「そんな嘘を書くのは止めろ。」とコメントが来たことがある。
つまり今の人が嘘だと思うような教育が行われていた例だ。

また昭和50年ころデパートで見た、「憲法には権利の記述はあるが、義務の記述は全くないのである」書かれた中学の社会の教師用の指導書(これには当時教科書裁判で名を馳せていた、某大学教授の推薦がついていた)などから考えて見ると、戦後間もなくは学校で、民主主義の基本的な権利重視の教育が行われていたのだろう。

Being able to exercise one's rights is fundamental to democracy.
(権利を行使できるということは,民主主義 にとって基本的なことだ。)

と言う言葉がある。

最近、「学校の地域への開放」が良く言われている。

これは如何に過去は学校と言う閉鎖社会で、権利の行使を中心とする、中途半端なデモクラシーの教育が行われていたことを示している。

一方、地域社会では敗戦以来の自信の喪失と米国型教育の浸透で、学校で教わった事やマスコミの報道などから次の二つの人達が出て来たようだ。

1.私たちのように昔の思いやりなどの古い日本的な価値観を捨てきれずに、自信ないながらも、子供にもそれを伝えた(多分)多くの人

2.中途半端な民主主義を、そうだそうだと、そのそのまま呑み込んだ(多分)一部の人達
それは私たち70~80歳の年代の人達の言動を見れば想像出来る。

2.に分類される親に育てられた子供達は当時の学校教育をそのまま受け入れ、権利の主張こそ民主主義だと思って育ったのに違いない。

そして、権利の一方にある責任は、他に対して要求するものだと思ったのだろう。

そしてその子が大きくなり、親になり、子を産む、その子が親になり子を産む。
その負の連鎖が現在の、戦前から戦後直後では全くいなかった、学校にとんでもない要求を突きつけくる一部の親となったのだ。

そして、学校は父兄への対処に悩まされているのだ。
つまり学校は自分達もそれを産むのに一部貢献した、過去の負の遺産の処理に追われているのだ。

<<父兄の再教育>>
私は前記の読売の報道にも似たような対策もがあるが、父兄を再教育をする必要があると思う。

現在は学校側に父兄へのクレーム対策の一貫としての再教育らしいことを細々とやっているほか父兄の再教育など放置したままだ。
しかも、これは明らかに学校の業務の範囲外だ。

具体的には、教育委員会に父兄教育の専門の部署を儲けることだ。
そして、学校で対処出来ないこと、例えば良く言われる、給食代の不払いとか、とんでもないクレームの処理を引き受ける。

その担当者は、しっかりした考え方や経験を持ち、父兄を説得できるような人 を選ぶ。

教師へのクレームに対しては、親の言う事そのままにして、教師の処分ばかり考えずに、親の責任についても親にはっきりさせる。
これで過去から現在に至る日教組と教育委員かの対立から協力の方向に進める一助になると思いませんか。

入学、進学などの時期に父兄の教育を行う。
有名人の講演会の開催。
教育に参加出来ない父兄にはその資料を送る。
など多くのやる事があると思う。

これには父兄やマスコミの反対など多くの障害があるかも知れない。
また安倍さんが抑えている教育予算の増額の問題もあるだろう。
然しこれらの努力と費用は、今までおざなりにしてきた、教育問題の放置のつけ と思って処理するしかないと思う。

参照:
責任を問うこと、責任を負うことと自己責任 
教育委員会にやって貰いたいこと 

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所謂知識人の不思議な発言

2007-06-08 11:42:30 | 教育問題

教育再生会議が第2次報告を提出した。

その骨子は、
1.授業時数を10%増やす策として、土曜授業、夏休みの短縮、朝の15分授業などが選択肢としてあげられた。

.「徳育」については
6月2日 読売新聞によれば、
当初、国語、算数などと同等の教科とする方向だった。だが、中央教育審議会の山崎正和会長が「教科で教えるべきでない」と発言するなど異論も出始め、報告書では「従来の教科とは異なる新たな教科」にとどまった。
 数値での成績評価は行わない。教科書はつくるが、副読本などと併用し、担任教師が教える。

3.大学・大学院改革

4.公立小中高校の教員給与も、教員評価によるメリハリある支給、公立学校への効率的予算配分
(これは報道によれば、当初の教育予算増額の答申案が安倍さんの国全体の予算削減の強い意欲で縮小されたものらしい。)

私はこれが報道されたときは、教育予算維持を除いては、まあまあこんなものかなと思ったが、たまたま ブログdeなんで屋@東京 
さんのブログ中の堀田力氏(さわやか福祉財団理事長)さんの答申に対するコメントを見て驚いた。

夏休みも土曜日も返上で学力向上を強いられ、その上、学校と親が協力して高い規範意識を植え付けられては、子どもたちの心は今以上に破壊され、無気力になるだろう。
すべての子どもたちの調和のとれた人間形成を目指すならば、幼児教育から大学まで、現場の判断で多様な指導ができるよう大幅に権限と責任を学校に委ね、国は環境づくりに徹すべきだ。
そうなれば社会も総掛かりで協力する気になる
。報告は時代に合わない管理教育・エリート教育の再生を図るものだ。

私は6月6日の社会保険庁の問題で堀田さんの同庁改革への協力の事例を上げたように立派な人だと思っているが、彼の管理教育の再生を指摘した以外のコメントには首を捻るばかりだ。

1.夏休みも土曜日も返上で学力向上を強いられ
(1) ゆとり教育の名で、土曜日の地域の教育の参加が予定されたが、殆ど実行されず、生徒が土曜日を漫然とすごしていて良いのか。
(2)土曜日の休日獲得は、日教組によれば闘争の結果得た成果だとしている。
実際に高校の進学校や、試合へ向けての部活以外に、土曜日の教育への教師の参加など聞いた事は無い。
つまり学校教育の責任の軽減(悪く言えば放棄)だけに終わっている。
(3)学力低下の現実については目を瞑っている。

2.高い規範意識を植え付けられては
答申は「徳育」についての答申だ。

例えば思いやり、親切、兄弟や友達と仲良くなどの教育が何故悪いのだろう。

ことによると答申のなかに規範意識の文言があったかも知れないが、交通ルールを守る事、国の法律など自分の属する団体の規則を守る事を教えて、どうして子供の心が破壊されるのだろう。

子供にやり放題にさせ、そのため学校が荒れたり、精力のはけ口をイジメに求めたりして良いのか。

3.大幅に権限と責任を学校に委ね国は環境づくりに徹すべきだ。そうしたら社会も総掛かりで協力する気になる。
今まで、文部省の指導に反発し、教職員組合に率いられた教師が好き勝手なことをしてきたことが教育環境悪化の一因となっていることを無視している。
つまり実質的には特定思想を持つ日教組などに引きずられてきたのだが、学校は形式上では大幅な権限と責任を持たされていたのだ。

それが学校教育に対する世論の批判を浴びていることを忘れている。
つまり今以上に大幅に権限と責任を学校に委ねるのが教育再生どころか今以上の悪化に繋がることもある。

必要なのは、大幅に権限と責任を学校に委ねる前に、地域社会の小、中学校教育の参加と監視と思う。
堀田さんの言葉を借りれば、国が行うべきは、一部の特定思想を持つ集団に、学校が引きずられないように、地域社会の小、中学校教育の参加の環境つくりが先決であり、権限委譲の絶対条件だと思う。

4.管理教育の再生
エリート教育のコメントが答申の何処から出てきたのか判らないが、管理教育の再生については、私も教育再生会議の傾向として認められるので、堀田さんの意見に一部賛成だ。

今の状態ではある程度の管理強化も致し方ないのか知れないが、その前に学校の教師の仕事がやりやすくなるような次のような環境の整備は是非行って貰いたいものだ。
(1)学校を困らす自己中心的な父兄への対応とその教育
(2)先進国では最低と言われている教育予算の増額
(3)教師の教育に直接に関係ない職務の合理化

私がここまで書いて来てふと思ったことがある。
堀田さんのコメントを聞いて一番喜ぶのは誰だろう。
日教組だ。教育環境の劣化に大きな役割を果たしてきた日教組だ。
次は、録でも無いことで、学校を悩ましている、とんでもない父兄だ。

堀田さんともあろう人が何故この様な珍妙な発言をしたのだろう。
私たちは今まで所謂文化人、知識人と称する人達の不思議な発言を見てきた。
彼らの特徴は、
1.弱い立場の人達(教育で言えば生徒)の言動を善とし、政府などの監督官庁の言動を全て否定的な観方を使用とする。

2.教育に関して言えば、常識からみて明らかにおかしな生徒の言動に意味をつけて、その責任を政府、学校や教育委員会などに持って行きたがる。
教育再生会議が言い出すまで、いじめが悪い事だという当たり前のこと を知識人達が、何故直ぐに言えなったのか。
当たり前のことを言うのは知識人の沽券に関わる事だろうか。

3.社会保険庁の不祥事に関して言えば労働組合、学校で言えば日教組のことはほぼ絶対に口に出さない。
彼らの情報網からはその問題点もそれに対する解決策は十分判っている筈なのに。

マスコミにもお願いがある。
堀田さんのように明らかにおかしな発言をしたとき、田原総一郎さんのように、突っ込みを入れてその真意を正して 貰いたいものだ。
もしかしたら、記事にされたものは彼の真意ではないかも知れない。

そして単なる批判だけのコメントには、対案を聞いて貰いたい ものだ。
私の持論だが、批判からは何も生まれない

批判だけなら、私のような素人でもできる。
堀田さんのような珍妙なコメントを載せることは貴重な紙面を無駄にするものだ。


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再チャレンジへ逆行する夜学減少

2007-04-07 20:28:30 | 教育問題
4月7日読売新聞の報道によれば、
 かつて、主に勤労学生が通った大学の夜間学部や昼夜授業が受けられる夜間主コースなどの夜間課程(夜学)が、急速に減少している。少子化による大学全入時代を控え、経営の効率化を急ぐ大学が廃止に踏み切るケースが目立つ。安倍内閣は、社会人が勉強し直す「再チャレンジ」を支援する方針を掲げているが、「夜学減少は支援策に逆行している」との声も上がっている。
と報道している

 (4月7日読売新聞)

私もたまたま昨日のブログに書いたように、勤務終了後夜学に通った経験がある。

当時は終戦直後のことで、旧制中学卒業しても職がなく、工員として採用されたものも多くいたが、意識の高い人の可なりの人が夜学に通い、卒業後よりよい仕事を求めて転職して行く人も多かった。

(現在、普通の民間会社では、大学の卒業生は将来の幹部職員、高校卒業生は普通職員または工員、それ以下の学歴の人は工員として採用されており、例え就職後より高い学歴を得てもそれを認めない。)

その中には、国立大学の教授となって、私が通っていた学校に戻ってきた人もいた。

読売新聞の指摘するように、この様な人達や、リストラから立ち直ろうと人達にとっては、「再チャレンジ」の機会を減らすものだ。

小泉さんは就任直後の演説で、米百俵の精神を訴えて、しばらくの困難に耐えるよう国民に訴えた。

つまり、
戊辰戦争で敗れた長岡藩の財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であったとき、支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなった。
藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。
そして、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきった。

の話を引用したものだ。

 米百俵Wikipedia

そして、小泉さんが実際やったことは、市場経済主義と郵政の改革の推進一本槍。

教育に関して言えば、殆ど手つかずの状態のまま放置してきた。

その結果、識者の指摘する様に、戦後から教育政策の見直し放置、市場経済主義万能からくる国民の意識の変化などから来る社会劣化の進行をさらに、リストラや社会格差の増大などで促進することになった。

そして、今の家族内の殺傷事件、子供の養育義務放棄や虐待、無差別の殺傷事件など、私ども戦前、戦中派にとっては考えも付かない事件の続発だ。

もし小泉さんがその演説の様に、文字通りその政策にもっと教育に力を入れていたら、今のような社会劣化の進行を防ぐか改善の方向に向かったのではないかと思うと残念でたまらない。

そして、聞く所によると、日本の教育予算の全体に占める割合は、先進国の中では最低だそうだ。

幸い安倍さんは「再チャレンジ」をその政策の中心に置いている。

考え方によると、教育予算の全体に占める割合(うろ覚えだが1%前後)と少ないことは、仮にそれを倍にしても、全体の予算に及ぼす影響は少ないと思う。

今の国の大学校の管理の基本は、競争原理の導入のようだが、米百俵の話が示すように、
人的資源しか頼る他ない日本、
社会劣化の進行が止まらない日本
では、教育への投資は絶対に無視出来ないことだ。

なかでも基幹大学校での、夜学の維持のための補助金など知れたものだと思う。

安倍さんの言う「再チャレンジ」のためにも彼の強いリーダー・シップを期待したい。

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責任を問うこと、責任を負うことと自己責任

2007-04-06 20:00:30 | 教育問題
ある日ふと思いついて近郊の新興住宅団地を歩いてみた。

最新の洒落た色々な建物、必ず付いている、駐車スペース、庭で咲き誇っている春の花。

これが今の言葉で言う勝ち組だ。
とすればホームレスは負け組で、その予備軍になるかも知れないニート族といろいろ考えながら、歩くうちに私自身のことについて思い当たった。

私にも長い80数年の間に人並みに人生の転機が何回かあった。

1回目は、夜学を出たとき。その時は結局今まで貧乏な中から私を育ててくれた、父母を楽にさせるため。

2回目は、中東長期出張要員として、関連会社出向の話が出た時は、妻と3人の子供のため。

いずれも安全サイドの当時の会社勤めの続行する道を選んだ。
その結果は、勝ち組にも負け組にも入らない年金暮らしを続けている。

今になって考えると、私の決定は今の若い人達からは軽蔑されるかも知らないが、凡庸な私が少なくとも苦しくない生活を送れているのは、父母や家族に対する責任を負う方を選んだお蔭だと思っている。

これに関して、今も心に引っ掛かっていることがある。
私の属している英字新聞輪読会で出た、

Being able to exercise one's rights is fundamental to democracy.
(権利を行使できるということは,民主主義 にとって基本的なことだ。)
の言葉だ。

戦後間もなく私の経験した次のことをブログ
息子が学校から持って帰った試験の答案を見ました。
「お母さんからお菓子を二つ貰いました。弟がそれを見て一つ呉れと言いました。貴方はどうしますか」と言った問題でした。
息子の解答は「弟に一つ別けてやると」書いていましたが、[×]がついていました。つまり二つ貰ったのはその子の権利だから、それを主張すべきだと言うのです。
私は驚いて、学校がそう言うのならそう覚えるしか仕方がないが、うちの家だけは権利より兄弟への思いやりの方が大切なので、 息子の書いた通りにしなさいと言いました。
を紹介したところ、「そんな嘘を書くのは止めろ。」とコメントが来たことがある。
つまり今の人が嘘だと思うような教育が行われていた例だ。

また昭和50年ころデパートで見た、「憲法には権利の記述はあるが、義務の記述は全くないのである」書かれた中学の社会の教師用の指導書などから考えて見ると、戦後間もなくは学校で、民主主義の基本的な権利重視の教育が行われていたのだろう。

その時権利に伴う義務や責任についての教育がどれだ行われたのだろうか。
 少子化の若い人の責任

責任を問うこと
政府、官庁、企業の責任を問う報道が多いは良く判る。

しかし、自分の子供のことは棚に上げて学校の責任を問う父兄と、その対応のストレスで悩む教師。

給食費の費用負担は国の責任だと支払いを拒否する父兄。
などどう考えてもおかしい。

責任を負うこと

幼児の育児放棄や虐待、
子供達から皆離れた老人の孤独死、
「子育てよりも自分の生活優先」と考える若いカップルの増加
など、家族としての責任、まして社会に対する責任感の希薄さが際立っている。

自己責任
これは、イラクで日本人三人が拉致されたときから盛んに言い出された言葉だ。
つまり、左派の特定グループに支援された彼らの家族が好き勝手なことを言って政府の責任を問う ていたのにたいして、政府の要人が個人責任と言った途端に一部のマスコミや一部のへんてこな評論家が色々とクレームを付けてからだ。

ニートの問題
私がホームレスから連想した、ニートの人達も批判されれば、自己責任だと言うかもしれない。

然し、彼らはいずれ衰えてくる父母の支える責任、有形無形の恩恵を受けている社会を支えていく責任を忘れているような気がする。

日本の進む方向
責任、義務など言い出すと、直ぐそれを軍国主義化と結びつけて批判される風潮から、日本が義務、責任の教育をおろそかにしてきた付けを今払わされているような気がしてならない。

そして、この傾向は残念ながら、一部の政党、マスコミと批評家のお蔭でまだまだ続き、社会の劣化がますます進んで行くのだろう。

あとは強いリーダーシップを持った首相と良心的なマスコミの支援を待つしか無いのだろうか。
そうは言っても第二のヒットラーが出ても、御用新聞ができても困る。

戦後50年、社会劣化に限って言えば、日本は本当に困った国になったものだ。

結局は誰かが言ったように、権利と、義務、責任の重要さバランスよく取り扱う教育を子供のころから教えて、その成長するまで今後二十数年間待つしか無いのだろうか。

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