私が今の通り魔的事件や家庭内殺傷事件の続発を嘆いて、これには戦後以来の教育も関係していると書いた所、今の教育の批判ばかりでなく、昔の教育と比較すべきだとコメント頂いたことがある。
私のブログでは、終始一貫して今の教育に日本古来の価値観の悪い事は捨てるのは勿論だが、良い所は取り入れべきだと書いているつもりだったのが、私の悪文の所為で今の教育の批判ばかりすると取られたようだ。
それで昔の教育の良い所、悪い所をそのまま書いて見たい。
但し素人の私が書く事だから、戦前の教育(約1930年-1942年)は当時子供時代の経験、戦後の教育は親の立場からの経験かん見た教育(1963年以降)を書いているので、必ずしも正確ではないところもあると思うが、団塊の世代以降の人達にいくらかでも参考になれば幸いだ。
「当時の環境]
日本全体
1932年 五・一五事件→1936年 二・二六事件が発生
4月号の文芸春秋で阿川弘之さんが書いているが「当時の日本は全くの暗黒時代だったかのように評する進歩派の人達の戦後史観は全く違う」と書いてあったが、以下のような私の経験からも同意見だ。
話は逸れるが、五・一五事件、二・二六事件とも当時の政治の停滞と退廃が事件の一因となっている。
そしてこれらの事件が日本が軍国主義に走り引き金となったのは間違いないと思う。
今の政治情勢は正にそうだ。
今の日本でこのようなことが起こるなど考えられないが、それだけなお一層に政治家達は緊張感と自覚を持って事に当たるべきだと思う。
社会
動機不明の通り魔的事件、家庭内殺傷事件、子供の自殺などの件数はその発生原因はともかく戦前は遥かに少なかったし、日本全体としては軍国主義化していたが、軍は勿論、国家権力の介入などまったくない状態でも、今より遥かな平和な社会だった。
それが日本人は正直、勤勉、親切で安全な社会と言う世界的な定説を産んだのだ。
子供社会
当時は多くの子がいたので、家庭内でも小さい子供社会があり、地域でも殆どの子が外で遊んでいたし、それを何となく見ている大人がいたので、入学前から社会生活のルールを学んでいた。
いじめ
私の居た地域は九州男児の気風が残っており、男は男らしく、女は女らしくの考えが子供社会にも浸透していた。
従って、弱いものいじめや一人の子を多数で苛めるなど男の腐った子がするものだと言われ、思いやりのない女の子は皆から嫌われた。
それで、学校には当時差別されていたの子、朝鮮人の子もいたが皆分け隔てなく遊んでいたし、彼らを意識的に大勢で差別したり苛めたりすることは全く無かった。
私の家内を含む同じ地域で同年代の人達に聞いてもいじめなどしたこと見聞きしたこともないと言う人が殆どだった。
然し、戦時中の疎開した子がイジメに逢った話など聞くと、製鉄工場などの工場や炭鉱への流入が激しかった開放的な土地柄もあったかも知れない。
開放的と書いたが、遠賀川流域の現北九州市の西部から筑豊炭鉱地帯の人達はは所謂、川筋気質と呼ばれる独特の気質を持っていた。
その代表的な人は今で言えば麻生太郎さんや相撲の魁皇だ。
男らしくて、開けっ広げでお人好し、人から好かれるが総理や横綱にはなれそうにない。
然しこの二人を見ても、とても彼らが子供時代イジメをしていたなど考えられもしないだろう。
私は当時のいじめのなかった地域の研究をすることがいじめ根絶のヒントとなると思うのだが。
[尋常小学校](1930年~1936年)
学校と父兄の関係
一口に言えば子供は完全に学校に預けっぱなしだった。
貧乏な私の家では、家庭を与る母親が授業参観、運動会など学校行事に参加する余裕がないことと、学校を信頼していたのだろう。
学校としても今のPTAに類する組織もないし、地域の参加も運動会や学芸会などを除いて全くなかった。
式
祝日には学校でも必ず式が行われた。
祝日自体が天長節(天皇がお生まれになった日)、紀元節、明治節(明治天皇がお生まれになった日)など皇室の行事に直結したものが殆どだった。
祝日には各戸で日の丸があげられ、学校では教師、生徒全員が参列して式が行われた。
校長が教育勅語をしまってある奉安殿からうやうやしく取り出し、天皇、皇后両陛下の写真が掲げられている講堂で、全員が神の御告げを聞くように低頭のもとで読み上げる。
校長はマスクと白手袋。
まるで神主が祝詞をあげると同じやり方だ。
指導者の神格化
このように天皇陛下を神格化するなど今は考えられない。
前に例にあげた阿川さんも書いていたが、正に北朝鮮の指導者の神格化と同じやり方だ。
現存している国、地域、宗教の指導者の銅像を立てたり、家庭(日本では神道の考え方に基づく天皇家が総本家という信仰からで意味は少し違うが)や公共の場での写真を掲げたりし始めた国や団体には一歩退いて冷静に対応すべきだ。
これは北朝鮮の他に、どこの国の誰とは言わないが、オーム真理教の麻原被告の例を見れば判ると思う。
修身(今の道徳)
これについてはその内容の記憶が殆どない。
今、道徳教育の導入の条件としてその評価をいかにするかが問題になっているが、私の記憶では今の国語や算数の評価は気にはなったが、本人も親も修身の評価など全く気にしていなかった。
何故ならたまたま学校でいたずらをして先生に見つかったか否かで評価か変わるのだ程度しか思っていなかった。
私は経験からして教材は児童、生徒の記憶に残るようなものを選ぶのが必要と思う。
体罰
家庭では悪い事をすれば拳固で殴られたり、押し入れに押し込まれたり、食事を抜かされたりするのは普通だった。
だから学校で悪いことをすれば、何らかの体罰が加えられるのも当然と思っていた。
私の母など家庭訪問のとき教師にうちの子が悪いことをすれば、遠慮なく殴ってくださいというのが常だった。
体罰と言っても普通は廊下に立たされたり、拳固や笞で軽く叩かれたりだった。
但し、中には酷い教師がいて、皆に自習をさせて自分は多分他の本を読みながら巡回し、私語をするものが居ればいきなりその本で生徒の頬を殴ってりしたが、前の教育再生会議の答申のように、限度を越した体罰を除いてある程度の体罰は必要だと思う。
学級荒廃、問題生徒の発生
学校に関するトラブルは全く無かった。
その理由は生徒が純朴だったこと、入学前から社会生活のルールが身についていたこと、家庭や地域による躾けが行き届いていたこと、教師が一般から尊敬される立場であったことなどなどが考えられる。
勉強
多分大多数の生徒達は、家では宿題を除いては勉強を殆どしなかった。
少なくとも私は全くと言って良い程しなかった。
然し何とか学校の授業について行けた。
その理由は
・旧制中学校へ進学者がクラスの10~20%に限られていた。
・今のような外部からの情報が殆どないので、好奇心一杯で学校の授業を受けた。
・素直な子が多かったので、乾いたスポンジのように授業の結果がそのまま頭に入った。
・上の二つの理由で児童が授業に集中していた。
・私の場合は無類の読書好きで、少年クラブなどの子供向けの雑誌から、当時流行っていた講談雑誌、果ては母や姉が買ってきた婦人雑誌など貪り読んだ。
幸い当時は雑誌は全てふりがな付きだったので、子供でも何とか読む事が出来た。
一昨日の読売テレビで灘中学に合格した生徒の様子を放送していたが、同中学校の校長が同中学の教育の重点として読書力の向上を上げていた。
私が全く勉強しないでも何とかクラスの上位におられたのも私の子供時代の乱読のせいだと思う。
教師
・教師の授業の技術
昔のように好奇心一杯で来る生徒に教えるため必要な教師の技術と、今のようにテレビ、携帯、インターネット、塾など情報が既に頭が満杯に成りかかっている生徒を面白可笑しく教えねばならぬ今の教師の技術は格段の差があると思う。
私の5,6年生の時の担任は音楽が不得意なので、その時間を得意の物語の話や読み聞かせで児童達の人気を得ていた。
・教師の忙しさ
授業を面白くするための準備、それ以外に多くのレポート、生徒指導、給食に伴う事務などなど今の教師の方が遥かに忙しい。
昔は詰め込みというのか通り一遍のことを教えることと、試験問題の作成(ガリ版で多くの手間を要した)採点、成績管理など最低の仕事で済んだような気がする。
いずれにしても学校教育は、教育の原点に戻って考える必要があると思う。
そしてその上で「考える力」の育成、時代の変化への対応など改めて考え直す必要があると思う。
参照:カテゴリー → 教育改革、ゆとり教育
教育問題
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