3月30日フジテレビ系列の「今、日本がおかしい!子供を守れ!」の番組で、小倉智昭さんの司会で生徒の母親と教師、教育関係者などを含む教育再生へ向けての討論会の放送があった。
その中で、数多くの駄目教師や校長の実例や、教育荒廃、いじめの状況、子供達同志の話し合い、その解決に奔走する母親の実例の放送とそれに対する意見の交換があった。
その中で特に印象に残ったものとそれに対する私の考えを纏めてみた。
1.教育委員会が親からも学校からも殆ど期待されていない。
私は現在の教育問題解決の、基本は
(1)学校教育の最終目標である大学の教育改革
(2)小学校から高校までの学校管理の基本である、教育委員会の改革
(3)現在学校を悩ませている、偏った考えを持つ父兄、家庭教育を放棄した父兄の教育だと思っている。
教育再生会議でも、教育委員会の改革の答申がでているが、実行に当たっては、地方分権の問題とからんで、再生会議の意向どおりに行かないようだ。
まして、再生会議でも言う父兄の再教育は、当然に教育委員会の責任だから一層問題になる。
それでも教師や父兄の期待する改革は県知事、市、村長の判断に待つしかない実情で、再生会議や国民からすれば隔靴掻痒の感じだ。
結局は教育委員会の改革は各地方の人達が如何に、教育についてもしっかりとした識見を持つ優れた首長を選ぶかにかかっている。
地方分権と責任
2.今の子供達の考え
番組中放送されたで子供達の話合いを聴くビデオでの子供の発言。
(1)いじめの起こる理由。
(2)いじめは楽しい。
(3)学校で信頼出来る教師は2~3人。
生徒達はクラスの友達の中だけの完全な閉鎖社会にいる。
その中では悪質、陰湿ないじめ恐喝などなど何が起こっても可笑しくない。
(北朝鮮と言う超密閉社会での、国民の飢えの犠牲のもとの核開発、拉致、麻薬製造、紙幣の密造など考えれば判ることだ。)
母親の一人が同番組で今となっては、学校内の事でも、刑事事件として、警察の介入をして貰うべきだと言う気持ちも良く判る。
3.いじめが解決出来ず最後に母親が学校(私立)に頼んで、昼休みに子供達との遊びに加わることでいじめが解決できたとの実話を基にした放送。
これは私の言う生徒しか居ない密閉社会の中に一人の母親が入った効果が現れたものだ。
然し、これは学校が私立だったことで始めて出来たもので、生徒の住む狭い社会を如何に広くし、開放することが諸問題解決の糸口になることを示している。
このことは、一部ではあるが、実施に移している学校もあるようだ。
都立和田中学の教育実践
4.教師の一人のが子供達に男は男らしく、女は女らしくと指導していると言った時、母親達とと観衆で起こったどよめき。
私はこれを一種のブーイングとその時一瞬感じたのだが、本当はどうだったのだろうか。
たまたま同じフジ系列の江原啓之さんを中心とする番組で彼が、親から「そんなことしたら罰が当たる」とか「お天道さんが見ている」とか親から言われた経験のある人に手を挙げざせたところ、観衆と出演者併せて僅か20%程度しか無かった。
私は昔からの良い価値感が無くなりかかっているのがいじめなど教育環境の悪化に拍車を掛けている原因の一つだとあらためと思い知らされた。
いじめ防止の具体策の立案を妨げているもの
5.教師がいじめがある学校や、駄目教師の例ばかり番組中で放送せずに、いじめのない立派にやっている学校もあることも放送して貰いたいとの発言。
さっきの江原啓之さんのテレビを見ていた妻が、「昔いじめなんかあったかねえ。」と訊いてきた。
私は下記のブログでも書いたように、戦前の尋常小学校から高等小学校(今でいう中学校)、工業学校(今で言う高校)、までの間、クラスの友達に朝鮮の人や、当時まだ、差別をされていた人達の子供もいたが、「いじめ」を殆ど見聞した事はなかった。
時節柄、土地柄(家内も私の近くの街に住んでいた)もあったのだろうが、二人ともそんな経験は全く無かった。
現在でも、いじめなと殆どない学校も多くあると思う。
その教師の言うように、いじめのない学校の実情を調べ、その理由を探求することもいじめ問題解決の一つの方法だと思う。
いじめ問題についてのまとめ
6.最後にテレビ視聴者へ向けての小倉さんの「この放送を見て若い親御さんが子供を持たない方が良いなど思わないで下さい」と言った纏めの言葉。
まさにそうだ。
少子化が、国全体に色々な面で大きな負の影響を与えているばかりでなく、家の中の子供社会、地域での子供社会を無くし、社会生活のルールやトレーニング無しに、学校での生徒達の密閉社会に入っているのが、いじめの一つの大きな原因となっているのだ。
いじめ→少子化→いじめと繋がっているのだ。
参照
いじめと昔流の子育て
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昨日の民放で、家族間のコミュニケーションが良い家庭の子供程、有名校への進学率が高いと言う、興味ある放送があった。
これも「あるある大事典」の例もありどれだけの信頼性があるか判らず、子供の性格にもよることとは思うが、考えさせれるところもあるようだ。
この事から、前にも書いたが、子供の育て方についてもう一度考えて見た。
下記とダブルところや一部内容の違うところもあるが、ご了承願いたい。
良い子の育て方
<<子供の処遇>>
下記の様に子供の年齢に応じて意識的に差を付ける。
1.個室(ただ寝るだけで、何も置けない子供部屋は除く)
中学生まで:個室は与えない。
高校生:個室(但しドアなし)のを与えても良い
それ以上:ドア付きの個室
2.パソコン、インターネット
中学生まで:居間で親と共有のパソコン使用
(親がパソコンを持って居ない時で、子供の要求があれば、新規に購入し親も使う。使い方は子供に習う。管理は親が行う。)
高校生:余裕があれば居間での占有パソコン
それ以上:制限無し
3.携帯電話
高校生まで:通話専用
それ以上:制限無し
<<基本的な考え方>>
1.家計に余裕分は、子供の教育費のための貯金に当てる。
それを、子供に納得させ、贅沢をさせない。
子供に我慢することを教える。
2.高校生までは個人のプライバシーより家族間のコミュニケーションに重点を置く。
子供を密閉空間に置かない。
いじめなどあった時に、自分の世界に閉じこもらせない環境をつくる。
つまり、家族、皆といつも居間にいて、自然と話せる環境にする。
子供にいつも家族がいるという気持ちを持たせる。
3.学業以外の有害な情報から遮断する。
小さい時から覚えなくても、インターネット、携帯の操作など、僅かの練習で直ぐ上手くなる。
4.読書の習慣をつけさせる。
この為に有用な本は十分に与える。
国語力は全ての学科の基礎。
暗記力が一番強い時期に多くのことを読ませないのは損。
5.夕食後のテレビは時間を決めて、家族一緒で見る。
それについての感想や意見の交換をする。
その時いつも「何故」と考える習慣を持たせ、好奇心を持つように仕向ける。
子供が勉強している時は、親も遠慮をする。親自身も自分の仕事や勉強の時間を持つ。
親が見たいからと言う理由で、子供を個室に追いやらない。
それ以外で見たいものは録画して、子供が寝た後に見る。
6.塾の問題
中学校までは、学校で習っている範囲のことで、塾にはやらない。
学校で習うことに対して好奇心を失わせる。
好奇心を持って授業を聞くことで授業が面白くなり、集中力が高まる。
好奇心を持って習ったことは忘れない。
7.出来るだけ2人以上の子供を産み育てて、家の中に子供社会を作ってやる。
子供が自然と社会生活のルールや自治に慣れてくる。
8.社会生活をスムーズにするしつけを行う。
小学校まで:人間として半人前にもならないと思って躾ける。
軽い体罰も避けない。
中学校まで:半人前の扱い。
体罰より言って聞かせる。
高校:一人前に扱う。
9.躾けの目標
(1)素直な子(少なくとも中学校まで)
素直な子と、個性や我が儘が強すぎる子との学習能率は格段に違う。
(2)規則や規律を重んじる子
(3)思いやりのある子
(4)高校生になってから、個性を伸ばすように仕向ける。
<<中学校までの、子供の勉強の応援>>
(1)居間の適当なところに子供の机を置く。
親の眼が届いているので、子供はさぼれない。
個室での勉強は、単調になり眠くなる。
(2)子供の求めに応じて、親がなんらかの形で応援、指導してやる。
逆に子供はなんらかの形で親を利用する。
(以上民放で放送していた例)
(3)逆に親が知らぬところは、子供に質問してやる。
教えることは、子供に自信をもたせ、教える子供自身がその内容を理解し、記憶を確かにする道だ。
(4)とにかく褒めてやる。
(5)丸暗記でなく、いつも 「何故」と考える習慣を持たせ、好奇心を持たせるように仕向ける。
(6)予習より復習優先
特に出来る子は、予習で授業中の新しいものへの好奇心をなくす。
予習をする必要があるのは、進度が後れた生徒だけ。
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君が代問題についてはとうとう最高裁で決着がついたようだ。
これについて「教えて!goo」で私を含めて40人もの回答でを賑わした「靖国問題、日の丸・君が代問題について」の議論を思い出した。
「教えて!goo」
ここでその中の日の丸・君が代について主な意見を紹介する。
A:日の丸は国旗、君が代は国歌です。どこの国にもあるでしょう?別に何も問題ありません。
ただ、これらに対して、いちいち問題を掘り起こしこじつけて問題にしようとしている人々がいるのです。
B:日の丸はただのシンボルマークです。それだけの事です。
C:日の丸問題も君が代問題もインネンなのですから、「論点」などは無いのです。ケジメなんて言ってる人もいますが、戦争にケジメを付けた例のほうが少ないという国際関係における常識を知らないようですね。
D:日本が一つの国として、様々な価値観の中から選択しなければならない国家のポリシーというものをあえて示してこなかったということに原因があります。
E:戦争経験者は日の丸・君が代を否定するに違いない…それはサヨクの妄想であり、理想でしかないのではないか。
F:戦争の時代の国旗が日の丸だったからといって、それがどうしたというのだ?日の丸をやめることが平和に繋がるという考え方は、平和というものをナメているということだ。国旗のデザインが変われば日本人は戦争をしなくなるとでも言うのだろうか。
G:国旗や国家を変えて平和を得ることができれば、平和なんてチョロいもんです。でも、平和なんてそんなもんじゃないでしょう…。
H:「日の丸」はやはり日本に侵略された国にとっては屈辱の象徴のようです。戦時中,日本の同盟国だったドイツとイタリアは敗戦後,回りの国への配慮,過去の反省から新しい国旗に替えています。
(一部変えただけだという意見もある)
I:日の丸・君が代問題はそれを法律で国が国民に押し付けてよいのかという問題があると思います。いわゆる「愛国心」を国が国民に押し付けてよいのか、という問題ですね。
J:日の丸・君が代に対しては法律で強制することに疑問があります。
もちろん起立拒否のように意思表示レベルの話で、掲揚阻止や斉唱妨害は暴力として考えられます。掲揚や斉唱の強要も同様です。
K:日の丸は日本国旗であり、君が代は日本国歌です。いずれも、少なくとも私にとっては何の問題もありません。
L:日の丸・君が代・・・国内問題。君が代を国歌とする事への抵抗が根本にあります。 この歌が明治時代に造られた時には、明確な意味を持った歌として歌われたものです。 この同じ歌を新憲法下にても歌わされる事への抵抗感は多くの国民の中にあります。 個人的には、私は『君が代』は、歌いません。
M:日の丸・君が代・・・純粋な国内問題。日の丸・君が代の国による強要は、憲法19条の思想良心の自由に反する可能性があること。
N:日の丸は、第二次世界大戦時などに特攻隊などが「日の丸(日本)のために死ぬ」などあまりよい意味では使われていなっかたようです。
君が代も、もともとの意味は天皇家の繁栄を願った歌です。
O:日の丸は戦争のときに使用された国旗、君が代は戦争時代に天皇賛美していた曲だから国歌に不適切というわけです。
私の回答:
「日の丸」「国家」ですが、これで軍国主義に戻るものだなど色々問題があると言うなら、これに対する代案を出すべきだと思います。
多分日の丸以上の良い案は出ないと思いますが、好きな案を出してはどうでしょうか。
特に「君が代」は"キーミーガァーヨーオーワー"なんて聞いただけでは何を言っているか判らない、音楽的にも、国語からみても、可笑しい歌だと思いますので、是非出して貰ったらどうでしょうか。
しかし、勘繰って見ますと、反対の声はいろいろあっても、代案の話は殆ど聞かないのは、反対している人達は、国旗や国歌がどんなものであっても、日本人に国旗を見せたり、国歌を歌わせたくないだけで、反対は彼らが口に出せない、全く別の意図があるとしか思えません。
日の丸、君が代について多くの意見があるのは民主主義国家として良いことだ。
ただ一つ、今回問題を起こしている教師達に老婆心ながらお願いしたいことがある。
1.日本は法治国家だから、国や自治体で決めたルールを守って貰いたい。
それを自分の信念で守れない時は、甘んじてそれなりの処罰を受けて貰いたい。
その態度が生徒に対して立派な教育になると思う。
まさか生徒達に国や自治体の規則が悪いからそれを守らない のだなんて言わないでしょうね。。
2.自分の信念を生徒に押しつけないで貰いたい。
それは明らかに教師の立場と、公の時間を利用した職務権限濫用行為だから。
もしどうしてもやりたいなら、校外、授業時間外にやるのは自由だ。
3.自分の信念で自分の職を賭しての行いはそれなりに立派だ。
その教師達のグループがその信念で戦っていると思う平和の為に、国家の平和だけでなく、学級の平和、いじめのない学校、もし余力があれば、社会の平和にも、その職を賭する実行力と信念をもって当たって貰いたい。
荒れ放題の学校、凶悪事件続出の社会で、戦争をしないだけの平和国家など、誰も望んで居ないのだから。
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2月8日の読売テレビのワイド・ショーで有田芳生さんの杉並区立和田中学校の「よのなか科」のレポートがあった。
1.「よのなか科」の授業
「よのなか科」は民間から来た藤原校長が担任で、他校の教師や一般の人の参加しての授業だ。
その日のテーマは「ホームレス」。
最初に生徒達に「ホームレス」についての印象を書かせ、次は大人も混じってのグループ討議。
「ホームレス」は追い出すべきとその反対の意見が二つ出た。
そして新宿でごみ拾い活動をしているホームレスの人の登場。
彼らと生徒達や父兄とのQ&A。
その内、生徒の反応ががらりと変わった。
生徒の中には涙を浮かべている生徒もいた。
その日は敢えて全体討論をしなかったそうだが、これだけで大きな教育の成果が上がったのを感じた。
2.土曜寺子屋(どてら)
土曜日には希望者に補習授業をやっている。
いまゆとり教育の名で、それまで土曜日に行っていた教育を地域や家庭に放り出している小、中学校はあっても、自校で補習授業をやっているのは何校あるだろうか。
3.年3学期から4学期に増やし、試験の回数を増やし、生徒に一年中勉強する習慣を付け、遅れている生徒が追いつくチャンスを与える。
「45分32コマ授業」で授業内容の充実を図る。
普通の生徒は試験がなければ勉強しないものだ。
然し、これでは教師の負担が増えると思うが皆が良く協力したものだ。
4.授業前の10分の読書で年30冊の読破を目指す。
漢字の書き取りの練習。
国語力が全ての学科の基本だ。
5.修学旅行は農村に宿泊、農作業の経験をさせる。
生徒の中には帰りに感動して涙を流す生徒もいたそうだ。
生徒だけのグループで名所旧跡巡りやスキーなどで旅行するより、多くの社会勉強になるだろう。
6.そしてその成果は、藤原校長の着任前に比べると、入学希望者が約2倍に達したそうだ。
そして、教師でも、転任希望者は一人も出てないそうだ。
詳細は和田中と地域を結ぶページを参照願う。
http://www.wadachu.info/toppage.php
ホームページにはさらに詳細の記述があるが、ここではテレビで見聞きした範囲のことだけにとどめて置く。
テレビでは出なかったが、上に書いた以上の学力向上の所策が取られているようだし、生徒指導も厳しくやっているそうだ。
これで和田中の教育は「よのなか科」だけでなく、細かいところまで配慮が行き届いているのが垣間見える。
藤原先生のやられている事は、まさに私が兼ねてからの主張の授業に民間の参加、地域との協力、読書力の向上、土曜日のゆとり時間に教師の参加などなど、余り変わらないところもある。
然し、言うまでもなく私の机上の空理空論に比して、恐らく導入から展開の間の教師との意見の調整や軋轢を乗り越えて、これだけの成果を上げたことに格段の価値のさがあるのは勿論だ。
藤原先生に心からの敬意を表するとともに、さらなる活躍を祈っている。
7.「よのなか科」の意味するもの
「よのなか科」は生徒に非常に良い影響を与えたと思うが、この導入によって、教師にも世の中に関心を持たせるという大きな影響を与えたと思う。
何故なら、私の身の廻りでも、学校の先生は物の道理が判らないが家内の口癖だし、永年教師をしていた私の従兄弟は同じ理由で教師には絶対嫁にやらないと言っていた。
これは極端な例だが、私の町内会は回り番で、役員をすることになっているが、教師の家にも番が廻ってきた。
彼がやった事で、一番呆れたのは、会則の見直しの前文で、「日本国憲法に基づき」が入っていた事だ。
町内会の精神は「向こう三軒両隣で皆で仲良くしましょう」であり、明らかに憲法など町内会の会則には馴染まないからだ。
これと同じ流儀で、公民館内の飲食禁止、盆踊りの際の(糖分が多いと言う理由で)ジュースの提供禁止などなど、こうて゛あるべきという教条主義が推進された。
断って置くが、彼は非常に熱心に町内の為にやっていたのに感心していた。
然し、残念なことだが、それまで続いていた、盆踊りも文化祭も彼の在任中に廃止になり、町内の活動がすっかり沈滞してしまった。
今までの、小学校から大学まで、閉鎖的な社会で教育され、社会と隔絶した学校でに居れば、世の中の常識と違った常識を持つ教師も増えるのかもしれない。
その意味で、「よのなか科」の意味するものは大きいと思う。
8.民間の力の導入
藤原先生は、彼と同じような先生が何%か忘れたが、民間の校長が入れば、ここ10年で日本の教育が大きくかわると言っていたそうだ。
たとえこれが無理としても、教師の定期的なまたは管理職就任前の民間実習でも可なりの成果があがると思う。
この学校のやり方や藤原校長の考えは、実践に基づくもので、今後の日本の教育の進むべき一つの方向を示したものだと思う。
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<<日本の社会環境悪化の原因はどこにあるのか>>
1月8日のNHKスペシャル「日本の縮図 1000人にきく団塊の素顔」の放送中のアンケートで団塊の世代の現在の社会環境悪化にたいする責任についてのアンケートで責任あると責任がないと答えたのがほぼ半数でした。
それの結果についてゲストがいろいろ意見が別れていました。
私の考えでは、はっきりしているのは少なくとも社会環境の劣化が戦後から少しづつ進み、団塊の世代の活躍した時代に万民が認めるほど激しくなったと思います。
その原因は多くの人が指摘するのは、
1.日本古来の美風が忘れられてきている。
2.教育制度の不備
3.市場経済主義に伴う弊害
私が度々書いている、経済の拡張に伴う核家族化、長時間の残業や長期の出張などによる、子供達に接する時間の減少、派遣労働者に関連する格差、金儲け主義などにど
4.日本が米国の保護国である実情から付随する問題
国も国民も自主独立の精神がなくなる、責任を他に転嫁するなどなど他にも数えきれない原因がありと思います。
私はそれとは別の観点から原因の一つ、二つを考えてみました。
<<家庭の生活の変化>>
<戦前の家庭>
我が家の例ですが、(これは程度の差はあっても当時の全国のサラリーマン家庭の普通の姿と思います。)戦前は家が貧乏で、母は薪で炊いたご飯に七輪で作った味噌汁で食事、たらいと洗濯板でよる洗濯、針での衣服のつろろい、など全て手仕事です。
それで、なお味噌や季節の甘酒、餅搗きなど体を休める暇はありませんでした。
その上手内職までしていました。
それも見た目でも惨めなものでなく、近所の小母さん達と世間話し手を動かしているのを見て感心した記憶があります。
それに5人も子供がいたので、世話まで手が廻らず、姉などは私を教室まで連れて行き、授業を受けたり、銭湯に連れて行ったそうです。
私も一番下の弟を背負って遊んでいたことを覚えています。
子供達も母が忙しい時や、自分の気が向いたときは、七輪をおこしたり、カレーなどの簡単な料理を手伝ったりしていました。
勿論普段は近所の子供と遊び廻ったり、悪い事をして近所の人から叱られたり、家でいたずらして物差を持った母から追い回されたことも度々でした。
そうしながら、今思えば母の背中を見ながら育ったものです。
そんな母も子供には父親は働いてくるからと言って、貧乏ながらおかずは一皿特別につけていました。
それで子供心に、父は違った存在だ。自分も早くそんな身分になって見たいと思っていました。
父親は若い時はあまり物を言いませんでしたが、母から子供が言う事を聞かないと、そんな特別の存在の父親の叱責は私たちの身に応えたものです。
これでは相当な悪戯っ子でも、悪くなる訳はありません。
どうでしょう。貧乏だったけれど今のから思えばとても健康な家庭生活と思いませんか。
(そう言う私も、今では家庭では空気のようなものですが、子供達に言わせると怖かった存在だったそうです。それを聞いて私自身は子供には優しくしたつもりだっので驚きました。私が子供達を強く叱ったのは、子供が母の言う事を聞かない時だったのに気がついて、知らぬ間に父の真似をしていた事に気づきました。)
当時の私たちは知らず知らずに、父親から勇気、努力、我慢を、母からは母は思いやり、気配り、優しさを教わってきた気がします。
そして、子供達は当然のように家庭で忙しく働いていた、その一方で父を立てていた、母から一番強い影響を受けてきました。
そして、多くの母親は教師の家庭訪問のとき、子供が悪い事をすれば、遠慮なく殴りつけて下さいと言うのが普通でした。
また子供達は、家庭では多くの兄弟姉妹、近所では多くの子供の間で団体生活のルールを自然に覚えてきました。
そして行き過ぎたいたずらなどがあれば必ず叱る大人の人がいて間違いに気をつかせてくれました。
そんな父兄だったら、そしてそんな母親の背中を見てきている子供達、社会生活のルールを身につけた子供達だったら先生達もどんなにやりやすかったと思いませんか。
<戦後の家庭>
戦後の高度成長期に家庭生活に大きな変化がありました。
金銭的には全国中流階級と言われる豊かになってきました。
それで、電気炊飯器、洗濯機、電子レンジ、電気掃除機がどの家庭に入ってきました。
私が書いたような母としての仕事は大幅に減りました。
同時に市場にはものが溢れて、母の作っていた味噌どころか、近頃はパック料理などがスーパーやコンビニで手に入るようになりました。
当然、母としての仕事が大幅になくなります。三食昼寝付きと言われた時代になりました。
真面目な母親の精力と関心は子供に注がれます。
子供から言えば母親は家で楽しているのに、自分だけにやかましく勉強しろと言う存在になります。
ひどい母親は父親の稼ぎが足りないとか、家庭に協力しなとか、子供の前でこぼしたり本人に文句を言ったりします。
その父親は戦前はせいぜい六~七時には帰ってきたのが、九時過ぎに帰るのは普通になり、子供にとっては空気のような存在になります。
中には単身赴任で、半年以上顔を逢わせないことさえあります。
母親がいくらがみがみ言っても、次第に慣れてきてしまいます。
滅多に顔を逢わせない父親、母親から父親の愚痴を聞かされているその父親が叱っても反感を覚えるだけです。
もっとひどいのは単身赴任の父親を持った子供の相手をするのは、母親だけです。
それから精力を持て余している母親が男女共同参画の波に乗って、それと金を稼ぐために職場に進出します。
そして家庭から父親だけでなく、母親までも家庭から消えて行きました。
その代わり収入は増え、子供も好きなものを買って貰えるようになりました。
そして、家庭教育の不足の分を学校や塾が補うことになりました。
収入が増えて何でも買えるけれど両親のいない家庭と、金はないがいつも母親がいる夕方には必ず父親が帰ってくる家庭とどちらが子供にとって幸福なのでしょうか。
<幸福?な今の子供>
子供にとって嬉しいのは、家が大きくなって、自分の子供部屋を与えられ、閉ざしたドアの中でインターネットで世の中を覗いてみることが出来る事です。
親が覗き込めばプライバシーの侵害だと言って抗議出来ます。
そしてさらに良い事は少子化で、親の愛情を独り占め出来る事です。甘えようと思えばいくらでも甘えさせてくれます。
もう一つ子供にとって良い事は、学校で家庭のように好き勝手をして、先生から叱られても少し我慢すれば、良いことです。
少しひどいことをされると、親が出てきて体罰だと言って自分を守ってくれることです。
もし頭に来た時は、先生を殴れば良いでしょう。先生は勿論何も反撃出来ないでしょう。
もし、先生が殴り返して来たら、教育委員会がその先生を処罰してくれるので、良い仕返しになります。
これ等は皆子供にとって良い事ばかりですが、子供にとって健康的とはとても言えないでしょう。
戦前にくらべとこんな家庭や学校がより健康的だと言えますか。
このような子供や母親を持つ学校は大変ですね。
だからそんな学校の学校の先生が初詣で祈る事は、良い生徒が入ってくること、そして変な父兄がくっついていないことだけでしょう。
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「たけしのTVタックル」や「たかじんのそこまで言って委員会」で有名な政治評論家の三宅久之さんが「子供は半人前だ」と良く言っています。
私は正直な所彼の発言が人権と言う観点から、どれだけの問題発言か知りませんが、子供の家庭教育の面に限って言えば、ある程度の核心をついているように思えます。
家庭教育については、すでにブログ上で投稿していますが、改めて、家庭での子供との接し方について書いて見たいと思います。
http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/d/20061001
1.基本的な考え方。
子供の成長度に応じてその接し方を変える。
2.子供部屋の割り当て、プライバシーの問題
小学生→子供部屋は無し
中学生→子供部屋を与える。ただしドアはなし、または開放
高等生→子供部屋を与える。ドアを閉めても良いとする。ただし鍵なし。
3.インターネット、プライバシーの問題
小学生まで→パソコン、インターネット禁止
中学生→パソコン、インターネットOKただし家族共有のものを使う
高等生→専用のパソコン、インターネットOK。ただし親が覗いても良い事が条件。
4.携帯電話
原則として中学生までは持たせない。
持たせる時は(高校生を含む]通話機能のみのものを、親が時々覗いても良い条件で使わせる。
5.体罰
小学生まで→必要の場合ある程度の体罰を行う
中学生→口頭による叱責または注意
高校生→口頭による注意
今までの教育を受けて生徒から、不公平だとか、人権やプライバシー無視だなどの反対がでるでしょうが、家庭の方針として、子供が人間として成長するほど、それらを認めてやり、それなりの取り扱いをすることを子供に教えるのです。
6.子供の躾け
(1)日本古来の良い所や良い言葉を教える。
例:親切、正直、勤勉、人への思いやり、目上の人を敬う、
(2)日本古来の良い価値観を教える。
勿体ない、社会や万物から生かされている、お天道さまが見ている、他人に迷惑をかけない、弱いものいじめをするのは卑怯者だ。
(3)家庭内の決まりを作り家親も含めて全部の人が守る。
(4)我慢することを教える。贅沢はさせない。
(5)近所の年上の人に挨拶をする。コミュニティーの活動に参加する。
(6)家庭内の手伝いをさせる。
7.学業について
(1)学校で習うものと同じことを教える塾には行かせない。(3.参照)
判らないところは学校で全て解決させる。
こうすれば、学校で習うことに対して好奇心を持たせ。授業に集中させることになります。
(2)本を読む習慣を付けさせる。
(3)テレビを見る時間を制限する。
(4)子供が何故?と聞いて来た時は、出来るだけ丁寧に判らぬときは調べてでもして答える。
そして、聞いてきたことに対して褒めてやる。
そして何でも疑問を持たせ、積極的に勉強する習慣を付けさせる。
6.運動その他の課外活動
(1)何かの運動をさせる。
部活に入らせるか、一般の教室で子供の好きな運動をさせることで、我慢すること、頑張った後の達成感を体感させる。
7.個性を伸ばすことについて
その子がスポーツマンとか音楽家、画家とうの特殊の才能があるときは、特別の教育をしても良い。
但し、天衣無縫と言った類の性格的な個性は、それにより他に迷惑をかけぬ様に注意するなど、小中学校時代はどちらかと言えばブレーキをかけた方が良い。
8.この提案の問題点
この提案は、学校の先生達の積極な協力があること。
他の父兄が良く物事を判っていること。
ここでは触れていませんが、父兄の間やそれと学校の間の意志統一が出来ていることなど、事実上発生する困難を克服することが前提になると思います。
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(2006年10月27日読売新聞社説)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061026ig90.htm
[高校「必修」逃れ]「受験偏重が招いたルール無視」
国の定める学習指導要領には、生徒が学ぶべき学習内容の最低基準が盛られている。中でも、全員が履修しなければならないとされているのが必修科目だ。
「受験に不必要な科目は学習したくない」。そんな生徒の要望に押され、指導要領に反すると知りながら、規定に背いた学校、教師が多かったようだ。
だが、そこで受験科目以外の教科を学ぶ必要性を、生徒に説得することが教師の役目だったのではないだろうか。「受験に不要」の理屈がまかり通れば、体育や芸術、家庭科などの授業も意義を失うことになる。
この際、実態をすべて明らかにした上で、文部科学省が各教育委員会を通じ、適切な改善指導を行うべきだ。指導要領に従い、きちんと授業を受けている生徒や保護者らに、不公平感、不信感を抱かせるような事態は避けねばならない。
現在、文科省は学習指導要領の改定作業を進めている。「国際化の進展」を重視して「世界史」が必修とされたのは1989年だ。最近は「自国の歴史・文化の理解がまず重要だ」と、日本史の必修化を求める声が高まっている。
どちらを必修科目とするかを学校ごとの選択に任せるべきだ、という意見もある。幅広い見直し論議が必要だ。
<<履修洩れの基本的な問題点>>
社説が指摘するように、国の定める学習指導要領には、生徒が学ぶべき学習内容の最低基準が盛られているし、その中でも、全員が履修しなければならないとされているのが必修科目です。
言い換えれば、将来を荷負うべき高校生にこれだけの知識を持って貰う為に、国は多額の税金を使ってるのです。
問題は厳しい受験戦争があり、公立高校は進学塾まがいの私立高校と競争しなければならない現実があります。
もう一つには、残念ながら、安倍さんの言う規範意識欠けている校長、自分自身のビジョンや見識が欠けている先生達もいるかも知れない世の中では、厳しい規則がなければ、将来また同じような問題が出るかも知れません。
<<問題解決の対策>>
そこで提案です。
1.高校の必須科目は今の大学入試センター試験の科目に入れる事。
2.その科目の一つでも一定の点数(例えば百点満点で50点)以下しか取れなかった生徒の国公立大学の入学を、その個々の大学独自の試験の成績如何に関わらず拒否すること。
3.逆にセンター試験でで、全ての科目で合格点(例えば百点満点で70点)以上をとった生徒には、何らかの形での国公立大学への進学を保証すること。
(この考え方について次のブログ参照下さい。)
http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/d/20060720
http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/d/20060910
4.私立大学に対しては、現在の私学に対する補助金を、センター試験で規定点(例えば百点満点で50点)を取った生徒の数に比例して与えること。
少し暴論ですが、何らかの形で高校での科目の学習の結果をセンター試験でチェックできるシステム考えて貰うのか゛唯一の決め手と思いますが。
先週は学校での勉強法を書きましたが、今日は家でどのように勉強したら良いか書いて見ます。
http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/d/20061008
1.基本的な考え方
(1)あせらず、慌てず、ゆっくりと
気持ちが動揺していては、記憶や理解どころではない。
(2)時間を有効に活用する。
習った所で判らない時に学校ですべてを解決する。
家での時間を計画的に勉強に活用する。
ながら勉強して良い時、集中するときを区別する。
毎日が学期、中間試験の準備。
2.家での勉強のポイント
(1)学校で習うものと同じことを教える塾には行かない。
塾で習ったことを学校で習っても面白くない。
学校で習うことに対して好奇心を失わせる。
好奇心を持って授業を聞くことで授業が面白くなり、集中力が高まる。
好奇心を持って習ったことは忘れない。
(2)予習より復習に力をいれる。
予習でをやり過ぎると、塾に行く場合と同じように、学校で習うことに対して好奇心を失う。
(3)本を読む習慣を付ける。
暗記力が一番強い時期に多くのことを読まないのは損。
他の学科を習う時にも読解力が付く。
国語力は全ての学科の基本。
(4)テレビを見る時間を決めてそれを守る。
今のテレビは学校の勉強に殆ど役立たない。
ただでさえ少ない勉強時間をこのようなことで時間を費やすのは勿体ない。
(5)家でのパソコンは特別なことを除いて使わない。特にインターネットはやらない。
3.家での勉強の仕方
(1)帰宅後、当日習ったことを復習する。
もし判らない所があったら、メモなどをとっておき、必ず次の授業までには学校でそれを解決して置く。
勿論自分で解決することは、大切で記憶にも残り易いが、これは余裕のある生徒にお勧め。
理解が記憶の基本。
丸暗記はいずれ絶対に忘れる。
それで、長い間の積み上げが必要な国語、算数、英語などは丸暗記は余り有効ではない。
(2)この勉強法の基本は、学校の学習にぴったりついて行くのを基本にしているので、原則としては、予習をしない。
万一授業に遅れたときは、予習をする。
大幅に遅れたときは、休日や夏休みを利用して一気に挽回する。
つまり上のような特別な場合を除いては、皆が復習で記憶や理解を確実にしているときに、予習に割く時間が勿体ない。
4.個々の学科の勉強の仕方
(1)英語
1)何よりも理解が中心。
2)学校で習った文章の全てについて、文法的に判らないことがないように勉強する。
3)似た様や単語や表現が逢った時は、その違いを理解する。
4)和英の単語、熟語帳と、それと同じ様な和英の文章の帳面を作り、毎日、一日置きにの30分間記憶する。
単語、熟語はスペルや発音(アクセント)も記憶して置く。
5)単語や熟語の判らない所は辞書で調べる習慣を付ける。
引いた所には色鉛筆などで、その都度印をつけて置く。次にまたその言葉やその付近の言葉を調べた時に、気がつく(つまり自然と復習する)ようにする。
6)余裕のある人は、英語日記を書く。
自分に習った範囲の言葉を上手く利用して、なるべく多くのことが書けるようにする。
判らない時は先生や父兄に教えて貰う。
(2)数学
1)学校で習ったこと全てについて、判らないことがないようにする。
2)計算問題やそれに類する方程式、因数分解、不等式、ルートのような問題集を正確かつ早く解けるように練習する。
その時、簡単な問題でも、いきなり答えを出すのでなくて、答えが出る迄順番に式を変換して書く様にする。つまり早く書けるように練習して置く。
3)文章問題も問題集で練習する。
その時いかに何故式が立てられるかを充分に理解して置く。
4)なるべく多くの幾何の問題を練習する。
幾何の問題をどのようにして解くのか、その何故そうするのかを理解して置く。
幾何問題の解法のこつを理解し覚えて置く。
簡単な問題は直ぐに解決出来るまで勉強して置く。
(3)国語
文章の意味、著者が何を言おうとしているのか、生徒自身の感想など。
余裕があれば書き留めて置く。
英語の単語帳と同じように始めて習った語句の単語帳(たとえば たんごちょう--単語帳)を作り、週に例えば2回暗記する。.
多くの読み物をよむ。学校の授業だけでは、充分な読解力はつかない。
特に入試の場合は英語と違って習ったことは出ない。
(4)社会
1)学校で習ったこと全てについて、判らないことがないようにする。
2)習った範囲の全てを含む自分なりの問題集を作っておく。出来るだけ細かい方がより良い。
この場合答えを書くのは手間がかかるので、省略する。つまり問題だけのリストを作る。
3)余裕があれば、自分がその当時または、その地域の主役になったら、一般住民になったら、第三者としてその場にいたらなど、色々考えて、どう思うのか考える。
できればそれを纏めておけばなお良い。
(5)理科
1)学校で習ったこと全てについて、判らないことがないようにする。
2)習った範囲の全てを含む自分なりの問題集を作っておく。出来るだけ細かい方がより良い。
3)余裕があれば、習ったことを応用して、何か出来ないか、発明出来ないか考える。
そして出来れば、それを纏め発展して行く。
そのとき先生や父兄などに助言をして貰う。
(6)学期、中間試験対策(自作問題集の使い方を含む)は来週日曜日に投稿予定。
1.基本的な考え方
(1)あせらず、慌てず、ゆっくりと
気持ちが動揺していては、記憶や理解どころではない。
(2)時間を有効に活用する。
習った所で判らない時に学校ですべてを解決する。
家での時間を計画的に勉強に活用する。
学校にいる時間は皆同じです。
人と差を付けるには、学校の同じ時間を人よりいかに活用するか、家にいる時間の使い方は皆違うので、それをいかに長活用するかにかかっています。
ながら勉強して良い時、集中するときを区別する。
毎日が学期、中間試験の準備。
2.学校での過ごし方
(1)精神的に先生と一対一になる環境に自分を置く。
貴方が先生と一対一になっている時はよそ見をしたり他のことを考えることは出来ないでしょう。
つまり、貴方ががハンサムでなく、貴女が美人でなくても、先生が生徒の存在が気にして貰えるようにするのです。(以後貴方、貴女を総称して「あなた」と書きます。)
その方法は
1)もし席を自由に決められるときは、最前列の真ん中の席を取る。
勉強の嫌いな人はたいてい一番後ろの席に座っているでしょう。
2)授業中に積極的に挙手をして、先生の質問に答えたり、質問すること。
その質問は意地悪な質問でなくて、先生の説明不足と思う所を質問して、先生の授業に協力しましょう。
そして、あなたの質問がポイントを突いていれば先生もあなたを見直すでしょう。
あなたたちは、皆青春期の真っ盛りですので、このように目立つのを恥ずかしく思うかも知れませんが、これ克服しましょう。
3)試験で良い成績を取ること。
その方法は後に書きます。
勿論生徒が運動や音楽とうで特別の才能があれば、勿論よいことです。
(2)授業中の気持ちの持ち方
1)頭の中をスポンジ状態にして、言われたこと皆吸収するつもり集中して聴く。
集中の邪魔にならない点からも最前列が良いと思います。
2)教えて貰っている事柄に自分を入れて考えながら聴く。
例えば、関が原の合戦の話に、自分が武将でその中にいたなら、または庶民がそれに巻き込まれたらと考える。
理科や数学(算数)の説明の時にその原理を応用する方法はないかなどと考える。
そうすれば
a)授業が面白くなる
b)授業の内容を人以上に理解出来る。
c)授業の中に自分が入りこんでいるのでつまり他人事でないので良く記憶に残る。
(2)学校で習ったことで判らない時は、必ず先生や出来る生徒に聞いたりして学校内で解決する。
これは、他の生徒に差をつけたり、追いついたりするのに一番大切な、家での勉強時間を費やすのが勿体ないからです。
(3)他の生徒から聞かれたときは、喜んで教えてあげる。
教えたことは絶対に忘れません。教えることは中途半端な理解をしていたのを確実に自分の物にするこです。
つまり、教えることは自分の為でもあるのです。
余談ですが、(特に試験直前などで)教えるのを嫌がったり自分の知識を鼻にかけたりしてはいけません。
いじめの原因を作る事になります。
(4)昼からの授業で眠くなる時は、昼休みに僅か15分前後で良いから昼寝をする。
家で規則正しい生活をして、の睡眠を充分にとるのは勿論ですが、昼休みの昼寝は驚く程効きます。
困っている人は是非試してみて下さい。
まだ書き残したこともあると思いますが、家庭のでの勉強法と併せて10月15日に書く予定にしています。
<<小中学校学校の生徒を持つ父兄の方へ>>
これは戦前、戦中派の時代遅れの古い考え方と思うかも知れませんが、ご参考にして下さい。
1.子供の躾け
(1)日本古来の良い所や良い言葉を教える。
勿論日本古来の悪い点をは避けるように、悪い言葉など聞かないように教える。
1)良い所親切、正直、勤勉、人への思いやり、目上の人を敬うなどなど
2)良い言葉勿体ない、社会や万物から生かされている、お天道さまが見ている、他人に迷惑をかけない、弱いものいじめをするのは卑怯者だ(これが生徒全部に徹底すればいじめ今の 1/3以下になる)、子供は風の子などなど
(2)家庭内の決まりを作り家全部の人が守る規則を守る習慣をつける。
(3)我慢することを教える。贅沢はさせない。
(4)近所の年上の人に挨拶をする。コミュニティーの活動に参加する。
勿論父兄自身もそれをやってみせる。
(5)家庭内の手伝いをさせる。
(6)褒めて育てる。
(7)父親、母親とも互いに相手を立ててやる。
2.学業について
(1)学校で習うものと同じことを教える塾には行かせない。(3.参照)
学校で習うことに対して好奇心を失わせる。
好奇心を持って授業を聞くことで授業が面白くなり、集中力が高まる。
好奇心を持って習ったことは忘れない。
塾で習ったことを学校で習っても面白くない。
授業に飽きそれを態度に出す。
学級の空気を乱し他の生徒の勉強を妨げる。勿論塾の費用もかかる。http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/d/20060827
http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/d/20060903
(2)予習より復習に力をいれる。
予習では(特に頭が良い子では特に)学校で習うことに対して好奇心を失わせる。
(3)本を読む習慣を付けさせる。
特にふりがなのついた本を買って与え、自分でどんどん読ませる。暗記力が一番強い時期に多くのことを読ませないのは損。
私の場合でも、杜若とか百日紅などは今の中学校までに読んだ本で覚えたもの。(今の高校レベルになると課外の本を読む時間は極端に減る。国語力は全ての学科の基本。
(4)テレビを見る時間を制限する。
子供の帰宅する時間から9時頃まではろくな番組がない。
このようなことで時間を費やすのは勿体ない。
(5)家でのパソコン特にインターネットは禁止する。
パソコンは高校に入って以後からも充分に熟達できる。
そして情報の善悪の判断も出来るようになる。
子供から有害な情報を守る。学校で学科の習得に全力を集中させる。
(6)上と同じ様な理由で携帯電話を持たせない。
必要の時は通話用だけのものにする。
(7)出来るだけ素直で礼儀正しく、好奇心旺盛な子供に育てる。
学校では先生の言う事を素直に聞き、スポンジのようなどんどん吸収できるほど、習得の能率が上がる。
(8)子供が何故?と聞いて来た時は、出来るだけ丁寧に判らぬときは調べてでもして答える。
そして、聞いてきたことに対して褒めてやる。
そして何でも疑問を持たせ、積極的に勉強する習慣を付けさせる。
授業内容を良く理解できる。
家庭ないで判らないときは、先生に対する質問させる。
質問して覚えたことは決して忘れない。
3.個性を伸ばすことについて
その子がスポーツマンとか音楽家、画家とうの特殊の才能があるときは、特別の教育をしても良い。
それ以外に天衣無縫と言った類の性格的な個性は、それにより他に迷惑をかけぬ様に注意するなど、小中学校時代はどちらかと言えばブレーキをかけた方が良い。
その為折角の個性の為にいじめにあったり、自分で気づかずに人をいじめられたりなどのマイナス面に働くことが多い。
性格的な個性を積極的に伸ばすとすれば、本人がそれを自覚しいかにして伸ばして行けるか、そしてその為に人に如何にして迷惑を書けない様にするか、判り始める高校生以後が良いと思う。
4.この提案の問題点
この提案は、学校の先生達の積極な協力があること。
他の父兄が良く物事を判っていること。
父兄の間やそれと学校の間の意志統一が出来ていることなど、事実上発生する困難を克服することが前提になると思いますが、ここでは触れていません。
いじめ防止の(私だけの)キヤンペーンにご協力お願いいたします。
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[涙ぐむ花嫁の手に無骨な手]
よほどしっかりした父親でも、娘の結婚式前は居場所がないものです。
そして娘から「長い間お世話になりました」などの決まり文句の挨拶へどう言う態度や返事をしたものかと詰まらぬことばかり考えているそうです。
まして私の様な不器用父など。
そして心の中で娘の幸せを祈るほかないのです。
<手書き、ガリ版時代と今>
戦前のころ、技術者の端くれにいた私達にとって、絶対に不可欠な技術文献は大変でした。その頃はコピーの機械がなかったので、手書きによる筆写する他ありませんでした。
複数の書類を作る時は、ガリ版を切り、謄写版に掛けるので大変でした。
<<事務の機械化の今、何故教師が忙しいのか>>
これは当時の学校でも同じでしたでしょう。
現在では、コピー機械に加えて、パソコンの発達で、事務処理能力は昔に比べて何十倍か何百倍に達していると思います。
そして、昔も今も小中学校の一クラスの定員は変わらぬか、減っており、先生の数も昔と同じか、多くなっていると思います。
それでもなお、先生方が何故忙しいのか、考えて見ました。
1.昔より、個性を伸ばす教育のほうが遥かに手間がかかり、その割りに眼に見える成果を得るのが難しい。
科目の内容によっては画一的な教育方法でも良い時もあるような気がします。
2.家庭での最低の躾けも出来てない生徒を、飽きさせないように、カリキュラムに 変化を持たせるとか、授業中に雑談をする生徒に話しを聞いて貰うために、先生は昔なら考えられもしない苦労を先生をする。
家庭の躾けの出来てない子が増える現実に対応して、学年に応じた躾け教育をするほうが、結局は教師の手間を省けることもあるような気がします。
3.九九の暗記、逆上がりの練習のように、最後は生徒自身の努力に待たねばならないようなことを、面白く生徒にに飽きさせないようにするために余計な労力がかかる。
この忍耐を要することを生徒に敢えて強制的にやらせるのも、今の生徒の傾向から見れば、それなりの意味もあること思います。
そして、先生にかかる労力やストレスが削減される筈です。
4.次の理由で、コピー機やコンピューター導入にによる、昔より大幅の事務量の減少を相殺する事務量が増えてきた。
(1)日教組に属する教師の自分勝手なやり方を抑える管理方法としての、カリキュラ ムなどの教案や報告等の提出等の事務量が増えてきた。
校長や教頭など幹部の教師と一般教師の意見の統一が出来ており、特定思想を持つ教師やその団体の介入がなければ、これらのレポートの多くは簡単にするか省略出来ると思います。
(2)テストの問題、カリキュラムなど教育関係書類の教師間の共有等の、事務の合理化が殆ど進まなかった。
この問題はあるいは昔からの問題だと思いますが、一般会社では、小集団活動による、改善活動が大きな効果が上がっているのに、どうして学校ではその活動が行われなかったのでしょうか。
昔の会社でもあったように、労働者対資本家、管理する側とされる側の対立をそのまま学校に持ち込んだ(或いはまだ持ち込んでいる)のではないでしょうか。
(3)教室での徘徊、荒廃、問題の生徒の対応
2.と同じように徹底した躾け教育が必要だと思います。
学校と一般の会社の差を考えてみますと、いかに学校が閉鎖社会であり、独自の論理や考え方がまかり通っているのではないでしょうか。
学校関係者がもっと外に眼を向けること。その為に、教師希望者を必ず、また時々一般の会社に派遣し実習させると驚くような効 果が上がると思います。
参照毎週日曜日,July 11,13,20 投稿
<<お礼の時でも「済みません」>>
私たちが始めて外国に出かける時に必ずと言っていい程、「若し交通事故に巻き込まれても、決して"I'm sorry"と言ってはいけない」と言われます。
確かに考えて見ますと、「済みません」を謝る時の他に「有り難うございました」の意味で普通に使われています。
良く言われるように、「済みません」は、昔の村社会で互いに自分の非を認め合う事で、円滑にの物事を進めるのが日常化して遂に習慣になったのでしょう。
普通の日本人、特に高年になるほど「済みません」を良く使うようです。
<<「済みません」精神の良い所>>
この習慣や考え方には良い事もあります。
店ではお客からクレームがついた時、主に顧客側に非があっても、自分の方にも何らかの非があることを認めて「済みません」と謝り、商品の改良ややサービスの向上に勤めようとします。
それで日本の小さな商店から、大きなスーパーまでサービスが良いことで世界に知られています。
我が国のコンビニやスーパーなどが、海外にも進出を果たしています。
それが製造業になると、「済みません」精神で、上から下まで、客先からのクレームに自分にも一旦の責任があると感じて、製品の改善につとめ、その結果、自動車、時計、電気製品、など多くの分野で世界をリードする結果になっています。
その逆の例は、昔の三菱自動車、最近のパロマ湯沸器の例を見れば判るように、「済みません」の精神を忘れた会社は、大きな事故を隠したり、責任を他に押しつけようとして、大きな遅れを取ったり、取り返しのつかない状態になりかけています。
<<「済みません」精神の及ぼす悪影響>>
然し、これが対外関係では、外国出張前のアドバイスのように、何でも直ぐに「済みませんと」と言ったら大きな問題になります。
<原爆の問題>
昔の話では、広島の原爆の記念碑が建てられたとき「この過ちは繰り返しません」と言う様な意味の碑文が書かれたと言う報道を見た時に、「あれ?」と思ったのは私だけではないでしょう。
まるで原爆を落とされたのは天罰のような言い方です。
この「過ちは繰り返しません」は全国民の心の中に刻みこのれるべきで、原爆碑に書かれるものではないような気がします。
原爆だけに関して言えば、本当に悪いのは原爆を落とした国ではないでしょうか。
そして、原爆記念日にそれを落とした国を非難するようになったのは、極く最近のことです。
<憲法の前文と戦争放棄>
なおひどいのは、憲法に前文にあるように、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意」して、戦争放棄を決めた(または決められた)のです。
これを良く見れば、悪いのは皆日本で、他の国は皆平和国家ばかりだと言わんばかりではないでしょうか。
現実は他の国(米国を含めて)が全て平和国家かどうか、また日本の近隣諸国が公正と信義に値する国ばかりなのか現状を見れば良く判ることです。
そしてが避けられない現実なのです。夢のような理想を基にした、日本が良ければ戦争はおらないという、戦争放棄の基本理念が現実にそぐわないないために、今、防衛問題で揺れているのは当然です。
広島の原爆碑も、憲法の前文も、戦前派の人が首を傾げたことが、米国の占領下にあったこともあり、否応なしに飲み込まされて、今までそのままにされてきているのです。
また、戦後50年もの間、何十度、日本の首相が外国に第二次大戦のことで謝ったか、世界に例を見ないでしょう。
最近では、靖国問題に関する中国、韓国の干渉にに当たって、顧客のクレーム処理のように、日本側にも非があるとして、マスコミ、政界の議論の的になり、その事がクレームを付けた側を利する結果になっています。
こんな事は諸外国に外交問題が起こった時、相手国を利するような内輪もめするなどで考えられますか。
日本は「済みません」の精神を有効に活かすとともに、むやみに「済みません」「済みません」といって日本の足を引っ張らないようにして貰いたいものです。
<<学級崩壊>>
今まで学校の問題点について書いて来ましたが、戦争前に小学校から今で言うの高校まで通っていた、私にとって全く言っていい程経験した事がない、そして未だにピンとこないのは、生徒の暴力や器物破壊などの不法行為です。
<学級崩壊の原因>教育評論家の尾木先生によれば、この問題が起こったのは1990年代頃からだそうですが、私が良く言う「終戦後の貧しい社会の教育環境で、然も学校では日教組全盛の時代、そして権利のことは言っても、義務や責任についての言わない偏った教育を受けた人が大きくなり、子供を生みその子から生まれた子供、つまり戦後三世代目の子供達によって占められている学校で起こったのと時間的に符号している」ような気がします。
つまり彼らは教育環境が年とともに劣化した時代に生まれ育ってきた時代の子供達です。
それと私たちの孫を見ていても、保育園では保育士の言う事を良く聞いたいたのが、何故小学校にに入ると問題を起こすのかと言うのもピンと来ません。
その説明として、同じ尾木先生学童保育の人達からの3年生から5年生になる間の変化についての学童保育の人達からの聞き取り調査があります。これを戦前の私たち子供時代と比較してみますと、
3年生から5年生の生徒達の問題点と戦前の生徒の比較
1.片づけやあいさつなど、基本的なことができない。 92%
(家や近所の大人から程度の差はあるが躾けが出来ていた。)
2.他の子どもとうまくコミュニケーションがとれない 89%
(家に近所にも多くの子供がいて、子供社会が出来ていた。)
3.言動が粗暴になってきている。 93%
(特に男の子の遊びは荒っぽかったが、家や近所の大人から叱られることでその 限度を知っていた。)
4.早期教育を受けている子供が増えた。 73%
これを受けた生徒が学校の教室で気を散らすのは当然です。
5.夜型の生活の子どもが増えた。 92%
(普通の家庭では強制的に早く寝らされた。)
6.自己中心児が増えた。 93%
(このような人は子供社会で嫌われるので、自然と皆に協調する知恵があった。)
7.すぐに「パニック」状態 になる子どもが増えた。 85%
(物不足なので出来ないことを我慢することに慣れていた。)
つまり、保育園時代は無邪気そのものの子供も、自我が目覚めるに連れて、社会や家庭環境に基づく色々な問題が出てくるのでしょうか。
その他に私のきがつきましたのは、
1.家庭社会環境の変化
(1)核家族化、少子化、テレビ、ゲームの流行等で、子供の社会が昔に比べて非常に小さくなった。
(2)昔からの伝統や倫理観など活かされなかった。
(3)テレビ、インターネット等で教育上有害な情報に接する機会が多くなった。
2.父兄や生徒の意識の変化
(1)個性の尊重と我が儘の区別がつかぬ、自由の限度が判らぬ父兄や生徒が増えてきた。
(2)自分の権利を主張しても自分の責任や義務を忘れている父兄や生徒が増えてきた。
3.学校の変化
(1)学校や教師に対する信頼の程度が大幅に落ちてきた。
(2)教師が労働者意識を持つようになり、一番のお得意さんであるべき生徒から精力と関心が離れることが多くなった。
(3)教育関係者の所謂、教育的配慮で、暴力や器物破壊など、犯罪的な行為に対する処置が甘くなり、生徒達の罪悪感を薄れさせた。
(4)先生の荷重が増えてきた。これについては別の日に改めて報告します。
4.マスコミ等外部の影響
(1)所謂権力者による不正の糾弾や自虐的な報道で、偉い人がやっているから、生徒達が少々悪い事をしても何故悪いと言う言い訳にされた。
(2)反対に所謂弱者が不正行為をしても、強者にも責任があると言う様な報道で、生徒達に悪に対する、罪悪感を薄れさせた。
これが高学年から中学校にかけて落ち着くか、または逆に悪質になるようです。
これらの学級破壊の問題は、散発的ではあるが、その解決には多くの問題を含むようです。
後日、学力低下、いじめなども含む学校の問題の解決の私のアイディアを聞いて頂いて適切なアドバイスをお願いしたいと思っています。
参照毎週日曜日,July 11,13,20 投稿
今、小学校に英語教育を導入することが問題になっていますが、最初に私の貧弱な経験を聞いて下さい。
<<外国人と話をしたり物事を進める上で大切なこと>>
<日本有数の重工業会社のプロゼクト失敗の原因>
私が南米の化学工場のメンテナンスの為に長期出張していたとき、その周辺に大きな石油化学コンプレックスの建設計画がありました。
そして、日本で有名な重工業会社もその保全部門に入る計画があり、同社と繋がりがあった私たちの会社も応援することで、私の友達も出張して来ました。
しかし、結果的には、同社は参入出来ないことになりました。
その後私の勤めていた現地の会社の人からその理由を聞いて考えさせられました。
<何も言わぬので必要に技術を持ってないと思われた>
現地側が参入を拒否した一番大きな理由は、現地側との会議の時に、そのプロゼクトの責任者が一言も発言しないと言うのです。
確かに同社は世界的に有名な会社ですが、化学工場の保全の経験は殆どありません。そのため私の同僚が来たのです。
勿論、責任者も英語は出来るし大切な会議ですから、通訳もついていた筈で、会話のスキルは充分だったでしょう。
<言いたいことを積極的に相手に判らせる努力の不足>
これかは私の想像ですが、一番頼りになる保全専門の私の同僚は英語が出来が出来ないため、英語で行われた会議の雰囲気に呑まれたのでしょう。
それで、本来責任者にとって代わって積極的に発言しなければならなかってのに、遠慮したのが現地側から見れば、責任者が何も知らない(結局は会社が何も知らない)と取られたのでしょう。
<プロゼクト成功の条件>
これで言えるのは、一番大切なのは、話す内容を(ここで言えば保全)知っていること。
次にそれをそれを充分に相手に理解させる事、その次に話すための英語力を持つ事でしょう。
<<受験英語は本当に役立たないか>>
その後出向した建設・保全専門のA社の部下を連れて、中東に出張した時の感想です。
A社は大卒の作業者を持っていることを売り物にしていました。
私の部下にも何人か大卒(私大ですが)がいました。
そして私達の他に私の出身のB社からも何人かの技術者が来ていました。
皆国立の大卒ばかりでした。
出張した当初A,B社の人達は現地の人との会話に戸惑っていましたが、一番始めに仕事に差し支えない程度に会話出来るようになったのはB社の技術者でした。
それに反して私の部下は私が離任するまでの一年半経ってもゼスチャーまじりの会話しかで来ませんでした。
その差は言うまでもなく、B社の人達は私の部下より、大学受験で英語の勉強の遥かに多くの時間を使ったことにからくる、基本的な英語の知識の差による物でしょう。
悪名高かったて昔の受験英語ですが、現地の人と会話を交わす内に、それが生きて来たのです。
<英語による文書の作成>
特に外国では文書作成のチャンスが多いのです。
国立大卒の受験英語で書く、文法は合っているが英語表現にぎこちなさの残る文章と、英会話クラスで覚えた、慣用語が良く使われているが文法が目茶苦茶な文章とでは、私の経験からしても前者のほうの評価が高いのは当然です。
<受験英語と英会話に使われる時間の比較>
何よりも受験英語で絞られる時間のほうが、いくら頑張っても、外国人の会話に使われる時間数は遥か少ないでしょう。
英語をやられた人はお判りのように、英語力は英語に接する時間に比例すると思いますので、英語力を付ける上で、否応なしに勉強させられる受験英語は非常に大切だと思います。
<英語屋さんが言わないこと>
英語のリスニングの教材の宣伝にはよく、「今までいくら勉強してても」、聞き取れなかった英語を、通勤中に英語をテープを聞いているうちに、自然に自分のものになったなどあります。
実はその前にその人が「いくらも勉強していた」事実が隠されています。
彼らの旧来の学校英語で充分に習得してきた基礎知識が、英語テープを聞く事で花開いたと言うのが事実でしょう。
<英会話ばかりやった人の英語力>
私達の英字新聞輪読会にも、いきなり英語会話を始め、そのまま、10年近く週に約4回も会話のクラスに通っている人がいますが、未だに英検で言えば、4級にも達していない実力しかありません。
私は彼になるべく多く原書を読む事、辞書を引く事、暇があれば文法を勉強することが、英会話の習得にも役立つのと言うのですが、聞き流されるだけです。
<<海外の人とのコミュニケーションで大切なこと>
延べ約5年間の短い期間でしたが、私の海外出張の経験から言えば、海外の人とのコミュニケーションで大切なのは、次の順だと思っています。
本人の品性→話す題材の知識→それを相手に判らせる意欲→その道具として言語力(読み書きの能力→会話力(会話を円滑に進めるためのテクニック(ユーモア、雑学等の知識を含む)→リスニング、スピーキングのスキル)))
私の場合ではで言えば、出張の帰りの飛行機の中でいつも会話を進める為のテクニックを、勉強せねばといつも反省していたのですが、それも出来ないままで今まで来ています。
<小学校に英語教育の導入の目的のそのやり方>
そして今度の初等教育から英語のカリキュラムの導入の目的は何でしょう。
外国人の仕事を進めるためのスキルの向上でしょうか。
それにしては、何かと口を出す経済団体から反応があまりないのは何故でしょうか。
それとも外国人との交流の促進でしょうか。
それではゆとりの時間を利用して、中学生が習った英語で、片言でもどんどん外国人に話す(コミョニケーションの重要度3位)機会を持つ方がもっと有効だとおもいますが。
初等教育の英語のカリキュラムの重点は、何でしょうか。
テレビなどで見る小学生の英語教育は将来どのように役立つのでしょうか。
このような事を考えると、初等教育に英語を加える一番の目的は、私の言うコミュニケーションに必要な技術の重要度で言えば、最下位のヒアリング、スピーキングのスキルの不足の解消に余りにも囚われ過ぎていると思います。
それより、とかく悪く言われがちの従来の学校英語のほうがはるかに重要だと思います。
<<英語屋さんから振り回される英語教育の導入>>
その背景としては、実業界の意見を余り聞かずに、私の言う所謂英語屋さんの意見や、英会話屋さんの宣伝の振り回されているような気がします。
このような些細な目的のために、今でも問題になっている貴重な授業時間を割くのは大きな問題だと思います。
<<外国人のコミュニケーションで一番大切なこと>>
それより外国人のコミュニケーション能力の向上のためにも、(重要度1,2位の)品性の向上や話す題材の知識の基本的な問題(今学校教育で求められている基本的なな問題)にもっと力を入れるべきだと思います。