梅雨入り宣言があって約1週間がたちました。梅雨の晴れ間ではありませんが、晴れた暑い日がしばらく続いたのですが、今朝は久しぶりの大雨です。
沖縄では梅雨晴れしたとのことです。熊本の梅雨はまだまだ続きます。梅雨の季節は好きではありません。熊本の梅雨、はやく明けて欲しいものだと思っています。
昨年、熊本県は大水害に見舞われました。市内を流れる白川が氾濫し熊本市内のほとんどが水に浸かりました。景勝地阿蘇地区の被害はさらに甚大でした。オーストラリアに住む甥からのメールには「熊本の大水害」と現地で大きく報道されたとありました。
長いサラリーマン生活の中では何度か大水害を経験しました。
昭和28年6月28日、門司(現在は北九州市門司区)に勤務していたおりの大水害。当時、山津波といっていた大土石流が発生し、山際の狭くなった地域のすべてを飲みこみました。そこだけで約250人の犠牲者を出しました。
当時、有線通信士として門司電報局に勤めていた私は、中心部が水に浸かった大通りをひざ上まで浸かりながら出勤しました。水害で市内全域が水に浸かり、交通機関が途絶したため、80名近くの通信士のうち出勤できたのはわずか数名だったと思います。当時の門司局は九州でも主要局の一つ、九州管外を含め約80の通信回線がありましたが、水害でつながっていたのは、下関線の単信1回戦だけ、優秀な通信士でも、1時間に60通程度を処理やっとのこと、それに対し、安否を問う全国からの電報は数千通を超えていたといいます。わずかな通信士が不眠不休で、24時間以上通信台の前に座り込んだことを覚えています。
余談になりますが陸の孤島となった門司局では、大量にたまった電報を福岡まで、リュックに詰めて使送する計画だったそうで、その大役を引き受けることになっていたことを後で知りました。
昭和57年7月23日、1時間当たりの雨量が約100ミリを記録した長崎の大水害も悲惨なものでした。各地で土石流が発生し市内を流れるすべての川が氾濫しました。死者は300人を超え、行方不明者も多数に上りました。その時は、長崎に通ずる道路がすべて不通となり、外部との連絡がまったくとれなくなっていました。電気も水道も止まりました。みんなが悲嘆にくれたものです。
当時、社員約3000人の通信会社で厚生業務を担当していたのですが、社員や家族の水と食事と休む場所を確保するため、約1カ月間は家に帰ることができませんでした。水害直後は社員やその家族の生存を確認する作業や復旧作業に追われたものです。現在ではスマホやPCで連絡がすぐにとれますが、電話が不通となったこの大水害では通信手段がまったくありませんでした。
安否を気遣う全国各地からの電報は約5万通に達しました。その配達が大変です。一刻も早く届けたいと九州各地から配達のための応援を求めたのですが、交通機関は壊滅、応援者も不足、またその宿泊施設の確保もままならず、大変な作業だったことが思い出されます。応援の配達員は一時500名を超えたと思います。
長崎の観光名所、眼鏡橋も流されてしまいました。歌で有名な思案橋では暗渠が吹き出し水柱が10メートル以上の高さに達しました。有名な中華街も天井まで届く水で見る影もありません。
地震や水害等、天災はいつ起こるか分かりません。いうまでもなく日頃からその対策と準備が大切だと思います。いろいろなことを思い出しながら、この梅雨大雨で被害が出ないことを願っています。
だが、虫のよい話ですが水不足の地域もあります。そこには雨を降らせて下さいね。災害を伴う鬼雨でなく喜雨であることを!願っています。