俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

二刀流

2016-06-07 10:09:41 | Weblog
 6日の対巨人戦で日ハムの大谷投手が大田選手に先頭打者本塁打を打たれて先制されたことを速報で知り、何となく違和感を覚えた。大谷投手の立ち上がりは良くないことが多いが何か特殊な事情もあったのではないかと思って調べてみればやはり二刀流特有の問題が現れた。
 プロ野球の先発投手が、マウンドに立つより先にバッターボックスに立つということがあり得るだろうか。初回に投手の指定席である9番打者に打順が回るまでには少なくとも3点が入っている。打者として期待されていない投手であれば気楽に打席に立ち、おざなりに打者としての役割を片付けて、そそくさと本業である登板に備えるだろう。これはプロ野球中継で最もシラける場面だ。打順を迎えるまでには時間もあるから投球練習もできる。
 大谷投手のケースはこれとは余りにも懸け離れていた。テレビ中継が無かったからネット等から拾い集めたところこんな経緯だった。
 先頭打者の西川選手が死球で出塁すると2番の中島選手が送りバントを決めて1アウト2塁となった。初回早々先取点のチャンスだ。クリーアップトリオ(3・4・5番打者)に期待が集まる。3番の田中選手の凡退後、4番の中田選手はフルカウントまで粘った末に三振した。ネクスト・バッターズ・サークルにいた大谷投手は一旦ベンチに戻ってグラブを掴むとそのままマウンドへと向かった。
 ネクスト・バッターズ・サークルにいた大谷投手の動向がどうだったかはたとえ実況中継があっても殆んど分からないが、スポーツニュースで見た中田選手の三振シーンでほんの一瞬小さく映った。巨人の高木投手の投球に合わせて素振りをしていた。その姿は、中田選手に続いて自分も打つという姿勢であり、中田選手が凡退をしてチェンジになればバッターボックスではなくマウンドに向かわねばならないということなど全く考慮していないように思えた。それは中軸打者として当然のことだ。ところが中田選手は三振をした。これは大谷投手にとっては最悪の結果だ。バットにさえ当たっていれば、それがゴロであれフライであれ緊張の糸を緩める時間が生まれる。しかし三振であれば張り詰めた緊張の糸が一瞬で断ち切られて拍子抜けしたままの状態でマウンドに向かわねばならなくなる。
 ご存知の人も多かろうが大谷投手は右投げ左打ちだ。だから打から投への切り替えにおいては回転軸の切り替えも必要だ。
 ゲームのの途中でランナーとして全力疾走をした投手を休ませるために、チームメイトは様々な手を使って時間稼ぎをする。しかし大谷投手の二刀流は異例だから協力する雰囲気が生まれない。増してや打席ではなくネクスト・バッターズ・サークルで素振りをしていただけだ。チームメイトだけではなくファンでさえ理解しない。
 心身共にウォームアップ不足だった大谷投手の第一球はボールだった。打者の大田選手が次のファーストストライクを狙い打ちしようとするのは当然のことだ。
 こんな経緯を考えれば初回の大谷投手が苛酷な環境に晒されていたことが理解できる。投手はデリケートだと言われるがただでさえ神経を擦り減らすプロ野球選手の2倍以上のプレッシャーが働いた。神経症を発症しかねないほどのレベルだろう。
 こんなケースは日本プロ野球史上初めてのことだ。少なくともこの50年、こんな経験をした選手はいない。高校野球なら投手で4番という立場で経験した人もいようが、プロ野球にはいなかった。つまり経験したことも検討したことも無い。天才であるが故の苦労に周囲の人は気付かない。
 余りにも卓越した才能に恵まれたためにそれまで誰も経験したことの無い状況に放り出されて誰からも理解されない。人間の共感力は経験を共有できる範囲でしか働かない。誰も経験したことの無い異次元の世界だから監督もコーチも同僚も配慮できなくなる。そんな時には審判が判断して試合を中断しても良かろう。それを依怙贔屓だなどと目くじらを立てずに規格外だから必要なことと認めるべきだと私は考える。折角の逸材が周囲の無理解によって潰される姿は見るに耐えない。マスコミでさえ大谷投手のこんな苦労には気付いていない。

元の木阿弥

2016-06-06 09:57:30 | Weblog
 予想していた最悪のシナリオが現実になった。放射線治療によって快方に向かっていると思われていた癌が、肺炎の悪化によって一挙に不治の病に逆戻りしてしまった。食道と肺の間の壁が放射線によって破壊されて肺が慢性的な炎症を患うことになった。そのため放射線治療は無期限に中断された。私は放射線治療が綱渡りだと自覚していたから起こるべきことが起こったと思いさほど驚かなかったが、そういう意識ではなかった親戚等は「なぜ再発したのか」と的外れな疑問を投げ掛けて私を煩わせる。
 殆んどの内臓は病原体などの異物に弱い。だからこそ幾重にもガードされている。そんな中で肺と胃は比較的病原体などの異物に強い。これらは外部と繋がることによってしかその機能を果たせないためある程度の耐性を備えている。しかし肺に備わっているのはあくまで気体に対する耐性であり液体や固体に対する耐性など無い。液体が気管に入った時に激しく咳込んで苦しい思いをするのは気体以外の流入が危険だという警鐘だ。食道と肺が繋がってしまえば肺に液体や固体が流入する。これが慢性的な炎症つまり肺炎の常態化を招く。
 肺炎を過去の病気だと思っている人がいるかも知れないが、肺炎は現代日本人の死因の第三位だ。私は第一位の癌と第三位の肺炎の両方を患っている訳だから絶望的な状況と言えるだろう。
 こんな困った状況に対する放射線科医の指示は意外なものだった。「今日にも入院してステントを使った延命策を始めよ」とのことだった。私は唖然とした。ステントを拒否して放射線治療を始めたのにそれでは元の木阿弥だ。医師に対する信頼感が一挙に薄れた。
 指示に従って内科に行き、かれこれ4か月来の長い付き合いになってすっかり顔馴染みになってしまった内科医と相談することになった。医師は私の意向を知っているからステントを勧めようとはせず、薬による肺炎治療を始めるということであっさり合意した。肺炎が完治すれば放射線治療の再開も夢ではなくなる。どんな結果になるかは分からないが決して無駄な抵抗ではなかろう。
 前回ステント治療を勧められた時と今回とでは状況が違う。前回は固形物を受け付けず水分補給さえままならない切羽詰まった状況だったが、今回はたとえ少量とは言え飲食が可能な状況だ。緊急性は前回より大幅に薄らいでいる。癌は不完全ではあってもそれなりに治療されているからしばらくは放置できるので肺炎の治療に専念するだけの時間的余裕がある。肺炎が完治できた時点で放射線治療ができるならそれで済むことだ。肺炎がもし治らないならそれは食道と肺の間にできた穴が修復不可能ということだからそれに対応する延命策あるいは比較的快適な状態で死を迎えるための対策を練れば良い。いずれにせよ肺炎治療の成否によって決まることであって現時点であれこれ思案をしても仕方がないことだ。現在可能なベストのために励むしか無い。

野合

2016-06-05 10:30:04 | Weblog
 野菜中心の食事は本当にヘルシーなのだろうか。野菜には各種ビタミン類が含まれており必要な食材ではあるが、肉や魚などと比べて特に優れた食材とは思えない。栄養に対する評価以外に何か信仰に近い強力な力が介入していると考えざるを得ない。
 最大の力は痩せ願望だろう。野菜の主成分は人類には殆んど消化吸収できない食物繊維であり大半がカロリーゼロの食材だ。3大栄養素である澱粉・蛋白質・脂質を殆んど含まない低栄養価食にも拘わらず「ヘルシー食」と詐称され得るのは、健康よりも痩せることを重視する歪んだ健康常識がすっかり根付いているからだろう。日本人の得意技の「言い換え」や「ラベリング」が効果を発揮している。
 しかしこんな変な願望だけでは大きな力とはなり得ない。痩せ願望は意外な勢力と結託した。それは宗教だ。刹那的で現世利益しか考えないだけではなく将来の健康をも犠牲にする痩せ願望と宗教との野合は、民進党と共産党との野合にも負けないほど不自然なものだ。
 ムスリム(イスラム教徒)は豚を食べない。ヒンズー教徒は牛を食べない。キリスト教徒は基本的には「海にありてヒレとウロコを持たない動物」を食べない。仏教徒は一切の殺生を咎める。これらに共通するのは殺生回避だ。徳川綱吉の生類憐みの令と同様、根拠の薄弱な禁忌だ。
 科学的根拠の乏しい痩せ願望は宗教と野合することによって倫理的根拠を獲得した。これは強力な推進力となった。ほんの少しでも肉食に疚しさを感じさせれば充分な抑制力として働く。禁忌は必ずしも自覚的である必要は無い。何となく悪そうというイメージを植え付けるだけで充分な効果を発揮する。むしろ自覚的でないからこそ「倫理的に悪そうだ」が「健康に悪そうだ」に変質しても気付かれない。
 しかし動物は駄目だが植物なら幾ら殺して食べても構わないとすることはかなりの無理を伴う理屈だ。インド仏教とヒンズー教は一切の殺生を否定する。その思想を如実に表しているのが牛を神聖な動物として崇める思想だ。
 牛は殺生をしない。どれほど飢えても植物を根こそぎ食べることは無い。だから牛の住む草原の草は滅びず牛と共存する。その逆なのが山羊だ。根こそぎ食べて植物群を滅ぼす。山羊の群が通過すればペンペン草さえ生えていない。西洋の悪魔の姿が山羊の姿を模することが多いのはこんな事実に基づくからだろう。しかし長所が短所になり得るように短所もまた長所になり得るものだ。公園や広場の除草をしようとするなら、山羊のように植物を根こそぎ食べて絶滅させる悪魔のような動物こそ理想的だ。植物の殺生に関する禁忌が殆んど無い日本人には山羊は悪魔ではなく天使のように見えるだろう。その温厚な性格も相俟って、山羊が犬・猫に次ぐ第三のペットになることも決して夢ではなかろう。
 胡散臭い倫理的根拠を無視して科学的根拠を見れば、これまた何とも心許ない。3大栄養素を欠きカロリーも殆んど無い野菜ほど健康に役立たない食材は珍しいのではないだろうか。逆に必須アミノ酸と必須脂肪酸を豊富に含み高カロリーの肉類こそ理想的な健康食だろう。肉類の欠点は栄養価が高過ぎてしかも旨過ぎることだろう。だからこそ食べ過ぎによる肥満を招き易い。この欠点を補うために栄養価が低くて不味い野菜と組み合わせたことは人類の優れた叡智とさえ思える。野菜の価値は肉類の補完として優れているということであってそれ自体は決して健康食ではない。脇役は所詮脇役に過ぎず無理やり主役に据えるべきではない。

交流戦

2016-06-04 10:45:30 | Weblog
 プロ野球の交流戦が始まった。ファンは普段見られない対戦を喜ぶが各チームにとっては手抜きをするためのチャンスではないだろうか。だからこそ新戦力が試され易い。中日の小笠原投手や楽天のオコエ瑠偉選手などが起用されるのはベテラン選手を休ませるという目的もあってのことだろう。あるいは今期未勝利の巨人の内海投手や大竹投手などが再起を賭ける舞台としても利用される。これらは決してファンサービスが主たる目的ではあるまい。
 通常のリーグ戦(以下単に「リーグ戦」と表記する)であれば勝つことによって自ら1勝を得、ライバルである相手チームに1敗を負わせることができる。このことで1ゲーム差が生まれる。しかし交流戦の1勝は0.5ゲーム差しか生まない。だからペナントレース主体で考えるなら交流戦の1勝はリーグ戦の1勝の半分の値打ちしか無い。この格差は今年のセリーグのように混戦状態であれば特に大きくなる。今日(4日)現在、首位から最下位までのゲーム差は僅か5.5ゲームでしかも最下位にいるのは昨年の覇者のヤクルトだ。これではどのチームがどのチームと覇権を争うことになるかなど全く予想できない。だからこそリーグ内の全チームを少しでも叩いておかなければ最後になって思わぬ寝首を掻かれるということにもなりかねない。
 関係者は当然このことに気付いている。だからこそ様々な報酬を提供することによって手抜き試合にさせまいとする。しかし大相撲の力士が地方巡業よりも本場所を重視するように、各チームがペナントレース最優先になることは避けられない。
 年間の試合数を見れば、交流戦の相手とはたった3試合だがリーグ戦の相手とは25試合も戦う。だから戦力分析の重要度も全然違う。たとえ好投手によって抑え込まれようとも一過性の交通事故のようなものであり、両チームが日本シリーズで対戦しない限り悪夢は再現されない。だからパリーグの大谷投手やセリーグの菅野投手のようなズバ抜けた好投手と対戦する試合であれば二線級投手を使って捨て試合にするという戦略も有効だ。
 この傾向は選手よりも監督やコーチに顕著に現れる。管理職である彼らに期待されることは個々の選手の能力を発揮させることよりもチームとしてどれだけ結果を残せるかということだ。ローテーションの谷間を敢えて捨て試合にするように、目先の利益を追わずに年間の勝利数を最大化するために中長期的なビジョンを作らねばならない。目標勝率は6割で充分でありそれ以下でも充分に優勝を狙える。
 個々の選手の査定はリーグ戦も交流戦も対等だから露骨な手抜きは起こらない。打撃も守備も一球入魂だ。しかしベテラン選手であれば、監督やコーチの立場を理解して、交流戦でのレギュラーの座を快く若手に譲る選手もいるだろう。これは必ずしもチームのためではなく自分のためでもある。賢い選手であれば相手チームのバッテリーの癖や性格を理解して配球を予想する。そんな選手であれば初物との対戦を避けたほうが成績が良くなる。こうすることによって監督やコーチとの人間関係も良くなる。
 人間は自分が直接関わることについては保守的でありながら他人には変化を求める我儘な動物だ。ファンにはそんな我儘が許されている。折角の交流戦の試合数は当初の36試合(1チーム当り6試合)から24試合を経て昨年からは18試合にまで減らされてジリ貧状態だ。この傾向に歯止めを掛けるためにファンが怒りの声を上げる必要があるだろう。

言葉遊び

2016-06-03 10:11:05 | Weblog
 5月31日から火星が10年振りの大接近をしている。31日はあいにくの曇り空だったが6月1日は全国的に晴れて観察できたようだ。火星は元々かなり明るい星だがこの明るさは尋常ではない。火星の接近を知らない人であればUFOかと思うかも知れない。
 地球が火星に近付いてもなにも起こらないが金星に近付くと大変なことになる。「キンセイニチキュウセッキン」を変換すれば「金正日急接近」となり得る。数年前であれば大事件だ。
 私が誤変換の面白さを知ったのはパソコン以前のワープロの時代に「再提案」が「最低案」に「阿波踊り」が「泡踊り」に誤変換された時だった。それ以来誤変換に興味を持っていたが長文の誤変換にはしばしば驚かされる。(「誤変換傑作集」参照)
 センスは良くないが私は言葉遊びが好きで仕事上でも使おうとして「わになるなにわ」という回文のコピーを考案した。「わ」には「輪」と「和」の文字を当ててそれぞれ「心通う」と「心和む」と読み下した。同時に円卓を囲んで円満に(輪)力を合わせる(和)こともイメージしようとした。たった7文字の割に随分欲張ったコピーで、結局何の成果も得られなかったが、私にとっては最も楽しい仕事だった。
 いろは歌を作った人は凄い。究極のアナグラムだ。47種のかなを総て1回ずつ使って歌を作るなど世界に類を見ない偉業だろう。これがどれほど難しいかは、ランダムの10文字で文章を作ろうとすればすぐに納得できる。上手く使い切ることは至難だ。
 「仮名手本忠臣蔵」というタイトルを考えた人も凄い。多分同時代の殆んどの人は「仮名手本」の意味を理解できなかっただろう。いろは歌の7番目の音を並べると「とかなくてしす」つまり「咎無くて死す」になる。ご政道批判はご法度だからこんな分かり辛い表現を使って幕府批判をしたのだろう。
 文字の国の中国で言論弾圧が続いているがきっと民衆は知恵で抵抗しているだろう。その実例を知りたいと思うがそれを日本のマスコミが報じれば忽ち中国当局の目に留まる。現在「ロシアン・ジョーク」は人気のジャンルだがこれはソ連時代に生まれてソ連崩壊後に世界に拡散したものだ。13億の中国人民の知恵の結晶を知るためには中国共産党の崩壊を待たねばならないのだろうか。
 ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」を著わして遊びこそ最も人間らしい行動だと主張した。遊びは損得や利害を超越した次元で成立する。その意味では趣味を職業にしてしまった人は不幸なのかも知れない。周囲の思惑によって行動が規制される。それと比べて私のような無名のブロガーであれば、あらゆるタブーから解放されて自由気ままに雑文を書ける。自費出版のような金銭的負担をせずに個人的に情報発信をできるインターネットは病み付きになりそうなほど遊び心を刺激する。

浸潤と転移

2016-06-02 09:53:49 | Weblog
 今週になってから39℃前後の熱と咳が始まった。多分肺炎だろう。これは放射線治療を始める際に危惧された最悪のシナリオだ。放射線によって肺炎が進めば、これまで順調と思われた放射線治療を諦めねばならなくなる。実際に治療は中断されて再開の目途は立っていない。
 私の食道癌で命に関わることは2つある。食道が塞がって飲食ができなくなることと浸潤によって肺炎が継続することだ。放射線治療によって癌細胞を破壊すれば食道から胃への通路を確保できる。しかしそれによって肺との間に開いた穴が拡大する。治療によって病状が悪化する可能性が高いからこそ治療できないと言われた。
 肺炎は決して過去の病気ではない。日本人の死因の第三位だ。その多くは嚥下障害が原因だ。肺に穴が開けば誤嚥以上に継続して飲食物が肺に流入して肺炎の状態が持続する。
 放射線治療について2つのシナリオが想定された。1つは放射線が癌細胞も正常細胞も破壊することであり、もう1つは癌細胞の破壊によって生じた空白を正常細胞が埋めて治癒に向かうというシナリオだ。しかし後者の可能性はほんの数%しか無いと言われた。
 癌は転移が怖いと思っていた。転移していない癌であれば手術や放射線で取り除ける腫れ物のようなものだと思っていた。だから精密検査で転移が無いと分かった時には正直な話ホッとした。しかし内科医がポツリと付け加えた「血管に浸潤している」という言葉が気になった。聞き流しそうなほど軽く語られた言葉だったがこれが最も重要な症状だった。
 結局、血管ではなく肺への浸潤が最大の問題になった。肺の正常細胞が癌細胞に置き換わりつつあり癌の切除や破壊が肺の破壊になるから手を付けられないということだ。素人考えで、肺は2つあるのだから浸潤の進んだ肺を切除しても構わないのではないかと考えて提案したが即座に否定された。そう簡単なことではないらしい。
 癌は正常細胞が異常化することによって生まれる。個々の正常細胞は意外なほど短命で、崩壊と再生を繰り返して機能を維持する。細胞はDNAによって正確に再現されるがそれが狂って癌細胞が生まれる。元の細胞とは違って容易に死なないだけではなく勝手に増殖して奇形を形作る。単なる奇形であれば切除すれば片付くが浸潤と転移によって体内感染をする。このことによって癌は原発臓器だけの問題ではなくなる。
 大半の病気はバレーボールのスコアのように一進一退するものだ。それにも拘わらず良い兆候があれば永続すると信じ、悪い兆候を一過性と信じたがる。こんな楽観的な考え方だからしばしば糠喜びをする。「勝って兜の緒を締めよ」という言葉は慢心だけではなく楽観をも戒める言葉だろう。

現象

2016-06-01 11:23:57 | Weblog
 人は物自体を知ることはできず、知覚を通じて現象として世界を知る。知覚は世界を知るための人類共通のツールだが、知覚が働くためには大幅な切り捨てや単純化が必要だ。光は紫外線から赤外線まであるが人間が知覚できるのは可視光線に限られる。星は無限の彼方にまで広がっているが一定距離を超えた天体の距離は知覚できないから等距離の天球として認識される。このように世界は歪められた形でしか認識されずそれは「現象」と名付けられている。
 現象は影のようなものだ。影に働き掛けても本体には何の影響も及ばないように、現象に働き掛けても物自体は何の影響も受けない。現象は影と同様、原因とはなり得ない。原因になり得るのは影ではなく本体だ。
 以上が理解されれば気象情報に対する私の怒りも分かって貰えるだろう。気象予報士は平気で「エルニーニョ現象が原因で異常気象が起こる」と言う。これは哲学以前のレベルで間違っている。現象が原因となれないのは当然だがエルニーニョ現象が第一原因となることなどあり得ない。何らかの原因があるからエルニーニョ現象が起こるのであり幾らエルニーニョ現象を研究しても第一原因どころか第百原因にも至れない。これは偽哲学ではなく偽科学だ。
 医学もまた原因と結果をしばしば混同する。高血圧症の人の血圧を降圧剤で下げても高血圧症は治らないし、骨折した人に痛み止めを処方しても骨折は治らない。医師は結果を取り繕おうとするばかりで原因を放置する。こんな対症療法など要らない。
 景気が良ければ株価は上がるが人為的に株価を吊り上げても景気は良くならない。
 過酷な環境に晒された人は欝状態に陥り易いが、薬によって欝状態を抑え込んでも環境を改善しなければいずれ再発する。
 もし宗教対立が無くなれば戦争も内紛も激減するが「戦争反対」というスローガンを掲げてデモや署名活動をしても宗教対立は全く減らない。
 農薬や食品添加物は有毒物だが、これらを排除すれば食品の危険性は却って高まる。
 学者は認めたがらないが、ナマズの地震予知能力は、散々研究費を使いながら全く成果を残せない地震学者よりも高いらしい。しかしナマズに地震を起こす能力が備わっている訳ではない。
 良い番組ならある程度の視聴率を稼げるだろう。しかし視聴率の高い番組が良い番組という訳ではない。
 地震は活断層が原因として地質調査のために多額が投じられているが、大きな地震の度に新しい未知の活断層が発見される。
 北朝鮮に関する情報は主に韓国経由で得られる。しかし韓国の発信する情報はどの程度信用できるだろうか。もし韓国が発信する情報が正しければ日本は北朝鮮に負けないほど酷い国だろう。
 安全は客観的な事実だが安心は主観的な感情だ。だから科学によって安全を証明できても安心を提供することはできない。その一方で、思い込みや偏見によって安心は容易に獲得されている。
 これらは事実の検証をするまでもなく論理として間違っている。日本人の知力の低下に呆れ果てる。私は、哲学を役に立つ学問とは考えていないが、算数の知識が誰にでも必要なように哲学的思考法の初歩を身に付けることは必要不可欠だと思わざるを得ない。論理的に誤った通説が世に氾濫し過ぎている。