やまなし館のリニューアルショックを引きずりながら
隣のビルの丸善に行き、欲しかった本を購入しました。
小関智弘著 「越後えびかずら維新」
日本ワイン葡萄の父、と呼ばれる川上善兵衛さんのお話です。
この本、最近発刊されたんですが出会いがヨカッタ。
先日、大好きなS先生が「おじいちゃん三人で行くけど、いい?」って
予約をくださりモチロン快諾。大学のエライ先生がたの三人組なんですよ。
そのうちのひとりの先生がこの本を持っていて
川上善兵衛さんをちょっとだけ知っていたワタシは思わず「この本!」と反応しちゃってね。
そしたらその先生は
新潟県高田の出身で善兵衛さんと同郷であるだけでなく
善兵衛さんの息子さんともお友達だったんですって!!!
それでこの本をみて思わず購入したんだよ、と教えてくれました。
一期一会っていうのかしらね~~~。すご~~くステキな出会いです。
先生も「同郷以外の人で善兵衛さんを知っているなんて、嬉しいなぁ」と言ってくれました。
「あなたはちゃんと勉強しているんですね」と褒めてもらって、ワタシも嬉しくって!!
いつもお酒とビールの先生方ですが「こりゃーワインを呑まねばいかんなぁ~~」と
言いつつ「でも白ワインがいい」となりまして。笑。
(善兵衛さんが開発したぶどうでウチの店にあるのはマスカットベリーAという赤ワイン品種なんです)
そして出版先などメモさせてもらい、無事に丸善にて購入することになったのです。
おウチに帰ると、早速に読んでしまって、感涙。
内容は「トヨさん」という目の見えないごぜさんが語る善兵衛さんの人柄、といった感じですが「ごぜ」という職業、新潟という土地柄、地主と小作の関係など、ぶどうの話だけではない、単なる自伝とも違う、いい内容でした。
中でも、ワタシがいままで日本ワインの歴史において
?はてな?と思っていた部分が解明されていて、とても参考になったのです。
謎 その1 なぜ雪深い新潟で「ぶどう」だったのか?
謎 その2 果たして明治・大正時代の日本でワインは美味い酒として呑まれていたのか?
山梨がお米の取れにくい土地柄で葡萄栽培とワイン醸造に力をいれた件は
以前に書いたコトがありましたが
善兵衛さんの新潟といえは米どころですしね。
地主であった川上家では勝海舟と交流があり、欧州では食事にワインが不可欠と聞き
善兵衛さんは葡萄を作る決心をしたと何かで読みました。
この本によると、冬場の小作人への仕事を作ること、これが大切だったようです。
荒れ地や不毛の土地を活かして作る果樹はないか。
それに米の酒は米を食べることが出来なくなる、葡萄を造ってお酒を造れば米が減らない。
他の果樹は雪深い新潟では雪で木が折れてしまう。でも葡萄は蔓性なので丈夫。
(ぶどうとワインの為に善兵衛さんが山梨へ行き、土屋龍憲氏のもとに住み込んだ話も紹介されていました。)
謎その1 がとけた・・・納得。(詳しいことは本を読んで欲しいデス)
謎その2 については(これも詳しいことは本を読んで泣いて欲しいのですが)
川上家で葡萄の収穫祭が行われた時にワインがふるまわれたそうですが
こっそりと米の酒を持ち込んでくる小作人もいた、と書かれていました。
つまり酔っぱらうなら米の酒、うまいと思うのは米の酒だったようです。
ワインは日露戦争で軍の衛生材料として納品されたそうです。
戦後は納品先が減少して経済難に。。。
つまり一般には「酒」として受け入れられていなかった訳です。
やっぱり、米の酒のほうが合うもんなぁ。ガッツリ和食だしなぁ。
その後、寿屋(現サントリー)が出した赤玉ポートワインが登場。
ご存知の方も多いでしょう。海外のワインを甘く加工して売れたワインです。
当時ワインの輸入に危機感を持った寿屋の鳥井氏が国内でぶどうを手に入れるには?と考え
出会ったのが川上善兵衛さん。
この頃にはマスカットベリーAという品種を作り上げ全国に出回っていたそうですが
善兵衛さんは品種改良とワインが売れずに借金だらけで。。。
鳥井氏が善兵衛さんの借金を肩代わりし、技術協力を求めたそうです。
山梨県の登美村にぶどう畑を作るべく訪れた鳥井氏と善兵衛さんが
南面の丘陵をみてふたりで涙ぐんだ、というくだりではワタシも涙でました。
(ここが現在のサントリー登美の丘です)
21世紀になった今、
マスカットベリーAは日本のワインの代表となり
日本固有品種「甲州 koshu」はワイン品種として国際登録されました。
(欧米にはワインの歴史において敵わないとしても)
日本のワインだって頑張ってるし、ステキなストーリーがある
どうかこの素晴らしさと美味しさが、皆さんにも伝わりますように。
隣のビルの丸善に行き、欲しかった本を購入しました。
小関智弘著 「越後えびかずら維新」
日本ワイン葡萄の父、と呼ばれる川上善兵衛さんのお話です。
この本、最近発刊されたんですが出会いがヨカッタ。
先日、大好きなS先生が「おじいちゃん三人で行くけど、いい?」って
予約をくださりモチロン快諾。大学のエライ先生がたの三人組なんですよ。
そのうちのひとりの先生がこの本を持っていて
川上善兵衛さんをちょっとだけ知っていたワタシは思わず「この本!」と反応しちゃってね。
そしたらその先生は
新潟県高田の出身で善兵衛さんと同郷であるだけでなく
善兵衛さんの息子さんともお友達だったんですって!!!
それでこの本をみて思わず購入したんだよ、と教えてくれました。
一期一会っていうのかしらね~~~。すご~~くステキな出会いです。
先生も「同郷以外の人で善兵衛さんを知っているなんて、嬉しいなぁ」と言ってくれました。
「あなたはちゃんと勉強しているんですね」と褒めてもらって、ワタシも嬉しくって!!
いつもお酒とビールの先生方ですが「こりゃーワインを呑まねばいかんなぁ~~」と
言いつつ「でも白ワインがいい」となりまして。笑。
(善兵衛さんが開発したぶどうでウチの店にあるのはマスカットベリーAという赤ワイン品種なんです)
そして出版先などメモさせてもらい、無事に丸善にて購入することになったのです。
おウチに帰ると、早速に読んでしまって、感涙。
内容は「トヨさん」という目の見えないごぜさんが語る善兵衛さんの人柄、といった感じですが「ごぜ」という職業、新潟という土地柄、地主と小作の関係など、ぶどうの話だけではない、単なる自伝とも違う、いい内容でした。
中でも、ワタシがいままで日本ワインの歴史において
?はてな?と思っていた部分が解明されていて、とても参考になったのです。
謎 その1 なぜ雪深い新潟で「ぶどう」だったのか?
謎 その2 果たして明治・大正時代の日本でワインは美味い酒として呑まれていたのか?
山梨がお米の取れにくい土地柄で葡萄栽培とワイン醸造に力をいれた件は
以前に書いたコトがありましたが
善兵衛さんの新潟といえは米どころですしね。
地主であった川上家では勝海舟と交流があり、欧州では食事にワインが不可欠と聞き
善兵衛さんは葡萄を作る決心をしたと何かで読みました。
この本によると、冬場の小作人への仕事を作ること、これが大切だったようです。
荒れ地や不毛の土地を活かして作る果樹はないか。
それに米の酒は米を食べることが出来なくなる、葡萄を造ってお酒を造れば米が減らない。
他の果樹は雪深い新潟では雪で木が折れてしまう。でも葡萄は蔓性なので丈夫。
(ぶどうとワインの為に善兵衛さんが山梨へ行き、土屋龍憲氏のもとに住み込んだ話も紹介されていました。)
謎その1 がとけた・・・納得。(詳しいことは本を読んで欲しいデス)
謎その2 については(これも詳しいことは本を読んで泣いて欲しいのですが)
川上家で葡萄の収穫祭が行われた時にワインがふるまわれたそうですが
こっそりと米の酒を持ち込んでくる小作人もいた、と書かれていました。
つまり酔っぱらうなら米の酒、うまいと思うのは米の酒だったようです。
ワインは日露戦争で軍の衛生材料として納品されたそうです。
戦後は納品先が減少して経済難に。。。
つまり一般には「酒」として受け入れられていなかった訳です。
やっぱり、米の酒のほうが合うもんなぁ。ガッツリ和食だしなぁ。
その後、寿屋(現サントリー)が出した赤玉ポートワインが登場。
ご存知の方も多いでしょう。海外のワインを甘く加工して売れたワインです。
当時ワインの輸入に危機感を持った寿屋の鳥井氏が国内でぶどうを手に入れるには?と考え
出会ったのが川上善兵衛さん。
この頃にはマスカットベリーAという品種を作り上げ全国に出回っていたそうですが
善兵衛さんは品種改良とワインが売れずに借金だらけで。。。
鳥井氏が善兵衛さんの借金を肩代わりし、技術協力を求めたそうです。
山梨県の登美村にぶどう畑を作るべく訪れた鳥井氏と善兵衛さんが
南面の丘陵をみてふたりで涙ぐんだ、というくだりではワタシも涙でました。
(ここが現在のサントリー登美の丘です)
21世紀になった今、
マスカットベリーAは日本のワインの代表となり
日本固有品種「甲州 koshu」はワイン品種として国際登録されました。
(欧米にはワインの歴史において敵わないとしても)
日本のワインだって頑張ってるし、ステキなストーリーがある
どうかこの素晴らしさと美味しさが、皆さんにも伝わりますように。