2016-03-07の記事の再掲です。
その時は写真を載せていなかったので,
私が撮影した写真も載せます。
(ここまで,2018.10.23記す。写真から下は,2016.3.7に書いた記事。)
何日か前,たまたま,鰐口をネットで調べていました。
すると,
「ベルギーから姫路・魚吹八幡神社に「鰐口」戻る 明治期流出か」
という,産経新聞の記事を見つけました。
詳しい事は,産経新聞(2015年12月1日)を見てください。
というわけで,今日,魚吹八幡神社に行って見てきました。
お払いをする人のための待合室(?)の所の事務室で尋ねると,
神主さん自ら「こちらですよ。」と鰐口をおいている部屋に案内してくれました。
部屋の隅,棚の上に,どっしりした大きな鰐口が置いてありました。
神主さんは,テーブルの上に持ってきてくれて,お話しをしてくださいました。
「盗難にあったのか,神仏分離の時に流出したのかよく分からない。
新潟からロシアを通って,ヨーロッパに行ったのだと思うけど,わからない。
たまたま,ベルギーのベネディクトの教会の神父さんが,
その教会の宝物の整理をしていた。
するとこの鰐口が,モンゴルのものとしておかれていた。
向こうの人には,日本もモンゴルも同じように思うかもしれないが,
その神父さんは相生出身の方だった。
鰐口には,『播州揖東郡福井庄津宮』と書いてあったため,
播州の津宮(つのみや)と言う事は,この魚吹八幡神社ではないか,と思った。
向こうの神父さんとかと話をし,返そうと言うことになり,
法事で相生出身の神父さんが帰ってくる時,日本に持ち帰り,
この魚吹八幡神社に届けてくれた。」とのことでした。
そして,
「魚吹八幡神社は秀吉の播磨攻めの時焼かれ,
江戸時代初期,(新聞によると,正保2年(1645年))本殿が再建されたと言われている。
しかし,建築専門の大学の先生が,江戸時代半ば以降の建物だろうと言ったので,
文化財としての指定が遅かった。
しかし,この鰐口に,宝永8年(1711年)の文字があり,
この鰐口奉納以前の建築とすれば,やはり江戸時代初期の建物ではないか。
そう言う意味でも,この鰐口の存在は大きい。」
鰐口を裏向けて,
「この『願主 藪内万右衛門』という人がどんな人だかわからない。」
とのことで,
私が鰐口に書かれている文字をメモしていると,
薄い紙と鉛筆をとってきてくれて,拓本のように写してくれました。
再度,鰐口を表向けて,
「用事があるから,後は自分で写して」・・・と神主さんは部屋に私一人を置いて出て行かれたので,
メモと写真をとってきました。(写真は神主さんがとっていいとおっしゃいましたから。)
鰐口がベルギーから返ってきた事はもちろんすごい事です。
これだけでも,ビックリです。
でも,・・・神主さんが言うように,『藪内万右衛門』ってどんな人だったのでしょう。
苗字があると言う事は,それなりの地位があったはずです。
それにこんなに大きな鰐口を納めたのですから。
神仏習合という観点からもすごいです。
神主さんは,「神と仏がいっしょだった頃」とおっしゃっていました。
それにもう一つ。
「播州揖東郡福井庄津宮」の文字。
荘園制が終わって荘園がないはずの時代に「福井庄」とは?
(中世には,今の魚吹八幡神社の氏子の範囲が,ちょうど福井荘だった。)
また,わくわく大発見がありました。
と同時に,分からない事と調べたい事が増えました。
魚吹八幡神社の神主さん,
私のようなただの歴おばさんにお時間を割いてくださり,本当にすみませんでした。
また,丁寧な解説,ありがとうございました。
網干に住んで50年余り,
昭和天皇の事でお祭りがなかった年を除き,
毎年,魚吹八幡神社の秋祭りに行っています。
テスト中であっても,教育実習中であっても,かならず,行っています。
年に1回,祭を見ないと・・ね。
(祭と聞いただけで,血が騒ぎますので。)
息子と壇尻についてまわったこともあります。
(子供会から,息子は壇尻曳きに出ましたから。もちろんまわしを締めて。)
今回,祭とはまた別の意味で,津宮にいっそう興味がわきました。
本当に,ありがとうございました。
PS.福井庄(2018.10.23追記)
福井荘は現大津区・勝原区・網干区と一部太子町に及び、
氏神魚吹八幡神社の氏子24か村の範囲である。
当荘の文献の初見は仁平2年(1152)のことで領主は藤原頼長であったが、
頼長はこれを興福寺に寄進。
間もなく起こった保元の乱によって頼長が戦傷死すると勝利した平氏がこの地を得るが、短期間に終わった。
平氏政権の後は後白河院領となり、高野山に寄進されることになる。
この時、荒廃していた洛西高雄の神護寺再建に努めていた文覚は院に懇請し
当荘を神護寺領にすることに成功(1185)。
以後福井荘は荘域を拡大しながら荘園時代が終わるまで神護寺領として続く。
(姫路市のホームページより)
*平家物語は、文覚が頼朝に父義朝の髑髏をみせて挙兵を迫ったと伝える。
(神護寺ホームページより)
その時は写真を載せていなかったので,
私が撮影した写真も載せます。
(ここまで,2018.10.23記す。写真から下は,2016.3.7に書いた記事。)
何日か前,たまたま,鰐口をネットで調べていました。
すると,
「ベルギーから姫路・魚吹八幡神社に「鰐口」戻る 明治期流出か」
という,産経新聞の記事を見つけました。
詳しい事は,産経新聞(2015年12月1日)を見てください。
というわけで,今日,魚吹八幡神社に行って見てきました。
お払いをする人のための待合室(?)の所の事務室で尋ねると,
神主さん自ら「こちらですよ。」と鰐口をおいている部屋に案内してくれました。
部屋の隅,棚の上に,どっしりした大きな鰐口が置いてありました。
神主さんは,テーブルの上に持ってきてくれて,お話しをしてくださいました。
「盗難にあったのか,神仏分離の時に流出したのかよく分からない。
新潟からロシアを通って,ヨーロッパに行ったのだと思うけど,わからない。
たまたま,ベルギーのベネディクトの教会の神父さんが,
その教会の宝物の整理をしていた。
するとこの鰐口が,モンゴルのものとしておかれていた。
向こうの人には,日本もモンゴルも同じように思うかもしれないが,
その神父さんは相生出身の方だった。
鰐口には,『播州揖東郡福井庄津宮』と書いてあったため,
播州の津宮(つのみや)と言う事は,この魚吹八幡神社ではないか,と思った。
向こうの神父さんとかと話をし,返そうと言うことになり,
法事で相生出身の神父さんが帰ってくる時,日本に持ち帰り,
この魚吹八幡神社に届けてくれた。」とのことでした。
そして,
「魚吹八幡神社は秀吉の播磨攻めの時焼かれ,
江戸時代初期,(新聞によると,正保2年(1645年))本殿が再建されたと言われている。
しかし,建築専門の大学の先生が,江戸時代半ば以降の建物だろうと言ったので,
文化財としての指定が遅かった。
しかし,この鰐口に,宝永8年(1711年)の文字があり,
この鰐口奉納以前の建築とすれば,やはり江戸時代初期の建物ではないか。
そう言う意味でも,この鰐口の存在は大きい。」
鰐口を裏向けて,
「この『願主 藪内万右衛門』という人がどんな人だかわからない。」
とのことで,
私が鰐口に書かれている文字をメモしていると,
薄い紙と鉛筆をとってきてくれて,拓本のように写してくれました。
再度,鰐口を表向けて,
「用事があるから,後は自分で写して」・・・と神主さんは部屋に私一人を置いて出て行かれたので,
メモと写真をとってきました。(写真は神主さんがとっていいとおっしゃいましたから。)
鰐口がベルギーから返ってきた事はもちろんすごい事です。
これだけでも,ビックリです。
でも,・・・神主さんが言うように,『藪内万右衛門』ってどんな人だったのでしょう。
苗字があると言う事は,それなりの地位があったはずです。
それにこんなに大きな鰐口を納めたのですから。
神仏習合という観点からもすごいです。
神主さんは,「神と仏がいっしょだった頃」とおっしゃっていました。
それにもう一つ。
「播州揖東郡福井庄津宮」の文字。
荘園制が終わって荘園がないはずの時代に「福井庄」とは?
(中世には,今の魚吹八幡神社の氏子の範囲が,ちょうど福井荘だった。)
また,わくわく大発見がありました。
と同時に,分からない事と調べたい事が増えました。
魚吹八幡神社の神主さん,
私のようなただの歴おばさんにお時間を割いてくださり,本当にすみませんでした。
また,丁寧な解説,ありがとうございました。
網干に住んで50年余り,
昭和天皇の事でお祭りがなかった年を除き,
毎年,魚吹八幡神社の秋祭りに行っています。
テスト中であっても,教育実習中であっても,かならず,行っています。
年に1回,祭を見ないと・・ね。
(祭と聞いただけで,血が騒ぎますので。)
息子と壇尻についてまわったこともあります。
(子供会から,息子は壇尻曳きに出ましたから。もちろんまわしを締めて。)
今回,祭とはまた別の意味で,津宮にいっそう興味がわきました。
本当に,ありがとうございました。
PS.福井庄(2018.10.23追記)
福井荘は現大津区・勝原区・網干区と一部太子町に及び、
氏神魚吹八幡神社の氏子24か村の範囲である。
当荘の文献の初見は仁平2年(1152)のことで領主は藤原頼長であったが、
頼長はこれを興福寺に寄進。
間もなく起こった保元の乱によって頼長が戦傷死すると勝利した平氏がこの地を得るが、短期間に終わった。
平氏政権の後は後白河院領となり、高野山に寄進されることになる。
この時、荒廃していた洛西高雄の神護寺再建に努めていた文覚は院に懇請し
当荘を神護寺領にすることに成功(1185)。
以後福井荘は荘域を拡大しながら荘園時代が終わるまで神護寺領として続く。
(姫路市のホームページより)
*平家物語は、文覚が頼朝に父義朝の髑髏をみせて挙兵を迫ったと伝える。
(神護寺ホームページより)