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[ 福音のテーマのエッセイ(論文)]
「福音のテーマ」の論文は、聖典内の記述はもちろん、日曜学校の手引きなどにも反映されない模様である。総大会でその言及がなく、2017年の日曜学校読書課程「教義と聖約」の手引きが差し替えられることもないことから予測できる。2017年元旦に、SS「福音の教義クラス」1課でJSの最初の示現が早速登場した。
七十人で教会歴史家のスティーブン・E・スノー長老は、教会員の90%が福音のテーマの論文を読んでいない、と述べた。(2016.07.16のある書き込み)。
結局、宗教組織としてのlds教会は、自らを描き語るのに矛盾した過去のことや好ましくないことをわざわざ触れることはないのであり、従来通りの形でゆくものと思われる。私は最近そう感じるようになった。
そのことについて考えられる説明は、「epoche[エポケー] つまり<現象学的留保>*」という現象学的・哲学的な考え方で見るよう教会側が外部に期待して、従来の説明(語り、narrative)を続けてゆくのではないか、ということである。
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[左はギリシャ語エポケー、右はカッコに入れること]
(*「現象学的留保」とは現象学とか哲学の用語で「判断停止」という意味で、『複雑なこと、面倒なことに直面したときには、エポケーこそが心の平静を保つための最良の態度』であるいう考え方)(逃げ口上に聞こえるかもしれないが、一般に宗教の起こり[神の顕現を伴う]についてこの立場にたって記述がなされる。)
私としては何か複雑な、すっきりしない思いである。最初の示現、JSの多妻の実態、BofM翻訳に聖見者の石が果たした役割、人種問題(黒人差別)、アブラハム書の問題など多くの微妙な問題にほうかんむりすることになるからである。R.L.ブッシュマンは教会の起こりに関する物語を再構成しなければ、宗教として生き残れない、と述べている。
企業の幹部が自社の過去の不祥事については承知して、同じ愚を繰り返さないように注意するのと同様、教会の上級指導者、そして末端でも監督会や教師も弁えていなければならないのではないか、と思う。
私は数年の年月が経過するうちに、一連のエッセイがlds.orgからさえ姿を消して、もっと見えなくなるのではないかと懸念を抱いている。
日曜学校の聖徒資料は手引きと聖典のみじゃないし、一般会員への啓蒙は徐々にでいいと思います。
今の時代はひとたび公式HPで公表したことは、世界中に引用されて言い広められるので、たとえアーカイブ化となったところで、20世紀のように書籍は絶版後、発禁のような具合にはいかなくなってしまいました。
つまり今までのような悲劇、つまりローカルな「善意の」歴史家が証拠によって反論することで、ローカルな原理主義者の策略によって不勉強な善意のビショップリックやステーク会長会を誘導して、破門されてしまうリスクがなくなってしまったことを意味しているからです。
については、全教会員のうち、果たして何%が毎月の大管長メッセージをちゃんと読んでいるのかという回答との比較論があって、初めて実態が分かってくるものかと思います。
スノー長老の<教会員の90%が福音のテーマの論文を読んでいない>とのコメントは私の想定を超えての数字となっており、驚きであります。
会員の90%というのは活発会員の9割を示すものなのか分かりませんが、日本の聖徒でも読んでいない人は多いと思います。
信仰に必要のない事柄と捉えている人もいるかもしれません。
ただ宗教に対する周囲の目は厳しくなっていますので、<教会の起こりに関する物語を再構成しなければ、宗教として生き残れない>というブッシュマン氏の意見は正鵠を射たものであると感じます。
公にした以上、過去の説明を完全に通していくことは難しくなります。
私もまったくの同意見です。
おそらくは教会はゆっくりと周囲の反応を見ながら対処し、今のままで通せる部分は残しておくものと思われます。
突っ込まれた時の対応も考えているでしょうが、あえて自分からは深入りしていかないのでしょう。
ただ求道者もあらゆるところから情報を仕入れていくことができる時代ですので、誠実な対応をしないと生き残れません。
30年前は、クリスチャンセンターに行かないと反モル的な記事を目にすることもなかったですし、それさえも
<誤解・無知>の一言で済まされていました。
今は教会内部にある資料から論拠を挙げて説明されています。
誠実に対応するより、聖徒に<信仰から得られる良い物>(これは確かに存在します)を強調する方が楽ですので、その道を選んでいくのでしょう。
しかし、宗教は誠実さを求められますので、真っ向勝負ができない組織は敬遠されていくことでしょう。
これは宗教界全体の問題ですが、残念ながらモルモンもその枠の中に入っていると感じます。
でもすべてを公にしたら先進国では改宗率はまた低下するのでしょうね。
後進国に、福音の良い部分のみを福祉プログラムとセットで伝えていく方向に進むと考えています。
教会幹部の方は、自分たちが信じていない「ジョセフ・スミスの最初の示現」を、そのまま放置しておく。つまり、「そう信じている人が居るんだから、それで良いじゃない」って事なんでしょう。
教会員の90%は読んでいないという論文も、教会幹部の100%が読んでいるんでしょうからね。
日曜学校でも、神権会でも、何か真理を求めて勉強しているのではない。ただ、「テキストに書かれてあることを皆で再確認しよう」と言う場でしかない。
とりあえず、「真理」なんてめんどくさい事は横によけておいて、モルモンと言う集団を維持する事だけを考えている。
その矛盾点を指摘しようものなら、「乱す者!」と言う視線を向け、抑え込むか排除しようとする。
その論点について考えようとはしない。
全く、ざんげの値打もない。
ただ、もう変革の芽は出始めているようにも見えるんですよね。
例えば復活祭に行われた、ロバート・ヘイル長老の信教の自由の説教
>わたしたちには末日聖徒として頼り,守るべき信教の自由の4つの隅石があります。
第1の隅石は,信じる自由です。いかなる人も,神について信じていることのために個人や政府から批判や迫害や攻撃を受けるべきではありません。それは非常に個人的で、非常に大切な事柄です。信教の自由に関するわたしたちの信条について,教会の初期の時代に,次のように宣言されています。
「良心の自由な行使……を各個人に保証する法律を制定し,かつ固く守らないかぎり,いかなる政府も平和に存立することはできない。…
https://www.lds.org/general-conference/2015/04/preserving-agency-protecting-religious-freedom?lang=jpn
については、外部にだけでなくて教会内部の美妙な信仰の差と不寛容についても警告されているようにも読み取れるからです。
さらに別の視点から見て、「……文官は犯罪を阻止すべきであるが,決して人の良心を支配すべきではない。……〔また,〕決して心の自由を抑圧すべきではない。」
については一見保守的に無害のような表現ですけれども、政治的な裏を知っている知識人たちならモルモンが良く言うよと笑える説教だからです。
笑える説教を現役の十二使徒が大会で述べ始めたということは、教会の意識が急速に変革している証拠と思うんですよね。
福音の回復はジョセフスミスの時代で終わったことではないという説教の強調(一昔はそんなニュアンスではありませんでした)と合わせて、教会の意識が急速に変革しています。
物語の再構成については、急にやったら分派する恐れがあるから、慎重になるのもしょうがないかも知れません。
でも、重複が多かったり[D&Cの本文がそのまま出ていることが多い]、ほかの所で読めたり[割合紹介されている]、「教会歴史」そのものの価値を考えたりすると、教会も翻訳志望者も二の足を踏むような気がします。