[καὶ πνεύματα προφητῶν προφήταις ὑποτάσσεται]
「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。」(新共同訳)
「預言者の霊は預言者に服従するものである。」(口語訳)
先日、この聖句の意味について日曜学校のクラス(成人、新会員)で問答があったが、その場ではよく分からなくて宿題にさせていただいた。この一文だけ読んでいては、末日聖徒としての普段の理解では釈然としなかった。預言者に働きかける霊は神からのものであるとすれば、どうして人である預言者に服するのか、という思いがしたからであった。後で少し時間をかけて14章全体を読んで全貌とこの一文の意味も解かってきた。
「異言と預言」が、3, 4, 22, 27, 29節で対比され、「霊と知性」が15節で、「異言と知性」が19節で対比されている。霊の賜物のうち、当時異言が語られることが顕著で、14章ではそのことにどう対処するべきかが一つのテーマとなっている。そして全般的に見て、異言という形の霊の現われに慎重ないし、批判的な調子が窺われる。「霊」は霊的現われ、霊的現象と関連づけられて用いられていることがわかる。
そこで、32節は次のように言い換えると分かりやすくなるのではないか。
「預言者の霊的な資質(異言を語るなど霊的な現われを発しようとする思い)は、預言者の本分(冷静な知性に近いもの。[異言と対比すべき]「預言」をする人)に従う」。(沼野敷衍)
リビングバイブルは27, 29-31, 33節を参考に、更に次のように敷衍訳を行なっている。
「神様からことばを与えられている人は、自分の番まで自制して待つ能力も与えられていることを忘れてはなりません。」
これは新国際版(NIV),新英語聖書(REB)、「現代人のためのよい知らせ」(TEV)、マシュー・ヘンリーの注解も同じ方向で書いていて妥当である。Iコリント14:32は文脈、前後の流れをよく読めば的確な意味が分かってくる好例である。
註 1
I コリント 14:32 ギリシャ語本文(ネストレ・アラント28版)。訳と文法的説明。
καὶ πνεύματα προφητῶν προφήταις ὑποτάσσεται
καὶ, and そして、接続詞
πνεύματα, [the] spirits 霊は(複数)主格
προφητῶν, of prophets 預言者の(複数)属格
προφήταις, to prophets 預言者に(複数)与格
ὑποτάσσεται, is (are) subject ・・に従う 受動態現在、三人称単数(カッコ内は主語[複数]に合わせて are となっている)
2 普通、聖文の解釈 [釈義] は、1) 問題となる語句の原語の意味、2)慣用句を含めた構文分析、3) 段落あるいはそれ以上に広げた文脈、4) 並行記事や引用関連からの検証、5) 背景、文化をも含めたコンテキスト、の順で精査して的確な解釈に至る。
3
英訳聖書3種の訳文と注解書の引用
・“The spirits of prophets are subject to the control of prophets.” NIV
・“The gift of speaking God’s message should be under the speaker’s control.” Good News for Modern Man
・“It is for prophets to control prophetic inspiration.” REB
・The man inspired by the spirit of God may still act the man, and observe the rules of natural order and decency in delivering his revelations. Matthew Henry Commentary
預言者は聖霊(預言者に働きかける霊)から言葉を賜ることがあるけれども、その内容を教会員に明らかにするかしないか、あるいはいつ明らかにするかを決定する権能を授かっているということなのか。
言い換えると預言者は(聖霊より上位の権威はないが)民に向かっていかに語るかは預言者に任されている。
否定的に相対的に評価されているように読める異言については、予言の霊の上位に来ることがない。
つまり当時の現実問題として、皆が教会でトランス状態みたいになって、預言者そっちのけで、外国語で口々に勝手なことを言うべきではない。 という気持ちがバックグラウンドにあるのではないでしょうか。
ただ、「預言者そっちのけで」のあたり、われわれが大管長(及び副管長、十二使徒など教会幹部)を頭に描くのに対し、該当聖句の背景には一般信徒も予言のみたまを受ける者がいた、という点が違っていると思います。やはり時間や社会背景の隔たりが大きいと思います。
I コリント 14:32 ギリシャ語本文。訳と文法的説明。
καὶ πνεύματα προφητῶν προφήταις ὑποτάσσεται
καὶ, and そして、接続詞
πνεύματα, [the] spirits 霊は(複数)主格
προφητῶν, of prophets 預言者の(複数)属格
προφήταις, to prophets 預言者に(複数)与格
ὑποτάσσεται, is (are) subject ・・に従う 三人称単数(カッコ内は主語[複数]に合わせて are となっている)
「一時に一人を語らせて、すべての者が彼の言うことに耳を傾けるようにしなさい。・・・互いに教化し合うように・・」
καὶ πνεύματα προφητῶν προφήταις ὑποτάσσεται
and
[the] spirits
of prophets
to prophets
is (are) subject
英語風に並べ替えたらたしかに
And (the sprits of prophets) (is subject) (to prophets)
何も考えずの直訳なら、「預言者たちの霊は予言者たちに服従させられている(ものだ)」になりますね。
(the sprits of prophets)に対比されているのが「異言を語る者のみたま」であるならここは「預言者のみたま」となって、
(預言者のみたまは預言者の理性で制御されているものだ)のような解釈となって
↓
預言者の霊的な資質は預言者の本分に従うものだ。
当時の混乱しかかっていた状況(万人祭司に近かった、異言がやたら発生していたらしい)を考慮すると、最終的に
「神様からことばを与えられている人は、自分の番まで自制して待つ能力も与えられていることを忘れてはなりません。」リビングバイブル
↓
D&C88:122
にいきつくわけですね。 おかげさまでちょっともやもやが晴れました。
列王記上18章には、バアルの預言者450人、アシラの預言者400人、と言う記述が有り、エリアの時代主の預言者も百人規模で居たことが書かれています。
これらの預言者は、預言者と言っても、モーセやエリア等、その時代を代表する預言者とは明らかに違います。言葉を換えれば「祭司」祭事をつかさどるもの、あるいは占いをする人、呪術による医療行為をする人、だったのかと思われます。
旧約聖書に出て来る、モーセやエリアのような預言者は、キリストがこの世に来る前に、キリストの出現を世の人に知らせ、同時に神の言葉を伝える、絶対的な存在感を持った預言者だったと思われます。
しかし、キリストがこの世に来て、神の言葉を語り、その言葉が「聖書」として存在するようになると、当然「預言者」の意味合いも違ってきます。
エペソの4章に書かれているように、キリスト以後の預言者は、「キリストから賜る賜物」としての「預言の御霊を持つ者」に成ったのではないでしょうか?
キリストご自身が、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、・・・」
このスレッドで話題にされている、コリント1の14章の聖句も、モーセやエリアの様な預言者の事では無く、その場に一緒に集まったものの中で「預言の御霊を感じた者」のの事です。
14章の26節~を読めばそれは明らかです。
29節には、「預言をするものを吟味するべきである」と書かれています。
32節も、その話の流れですので、32節に書かれている「預言者」を、モーセやエリア、現代の大管長の様な「預言者」と同一視するのは、間違っていると思います。
ですから、「預言した人の霊はその人に服従する」すなわち、「その預言は、その預言を語った人の思いである」と言う意味に解釈すべきだと思います。
そして、それを聞いた人は、聖書の言葉や、自分の感じた霊感によって、「吟味」すれば良いわけです。
そもそも、口語訳の聖書を編纂するにあたって、どれだけの専門家が携わったかは、想像できます。
そして、その集大成の結論として、その聖句が日本語で読めるわけです。
私は日本語しか理解できませんが、今自分が読んでいる、日本語の聖書で、充分その意味を理解できると考えます。
その聖句だけを取り出して、言語学的に掘り下げて行くよりも、聖書全体をよく読んで理解し、そのうえで、一つの聖句の意味を考える方が、正しい理解につながると思っています。
今回の場合も、「預言者」にも色々あると言う、聖書全体の流れを理解しないで。ただ「預言者」と言う絶対的な存在だけを前提にして考えるので、変な方向に話が進むのかと思いますが。
私は一般会員でも「予言の賜物」はあり、かつ予言もできる。
しかし、教会全体にかかわる預言者の権威は預言者にしかないと解釈しました。