[タイトルの石川立(りつ)氏は同志社大学神学部教授、春日いづみ氏は歌人、日本語担当翻訳者]
5月11日(土)カトリック大阪司教区のセンター聖堂で行なわれた対談「詩文の魅力を語る」に出席した。昨年末出版された新しい日本語訳聖書について、翻訳に携わった担当者から興味ある話を直接聞くことができて、大変興味深かった。これまでの投稿記事と重なるところもあるかと思うが、概要を記したいと思う。
まず今回の翻訳は、礼拝に適した - - 朗読を聞いて分かる格調のある - - 訳を目指している。このように目的に沿った翻訳はスコポス理論(スコポスσκοπόςはギリシャ語で「目的、目標、役割」)に基づいた翻訳である。それで、会衆が聞いて味わい、知らず知らずのうちに身に付いていくような、訳文の文学性が重んじられることとなった。
先行する新共同訳が、米言語学者ナイダの動的等価を目指す考えに沿って解りやすさを求めていたのとは、方針が異なっている。説明的になる傾向を抑えて、信徒を対象とした翻訳を目指している。
そして翻訳の進め方が、初めから原語の翻訳者と日本語担当者がチームとなって進める体制を取り、早い時点から調整が図られた。率直に遠慮なく検討がなされたという。これまでは原語担当者初動で、聖書学者の独壇場であった。(訳語が決まってから日本語担当者が取り組んだ)。今回の大きな特徴であった。
新しい翻訳の特徴を具体的に見ていきたい。まず1) 必要以上の敬語を使わない、2) 代名詞も不必要なものは除く、3) 同音異義語は紛らわしくならないように配慮する、という方針が取られた。
日本語として良ければ、古い訳語も用いられた。例、「さいわい」(「さきわい」からきた。詩篇1:1)、「汀(みぎわ)」(同23:2)、「奇(く)しき業」(同145:5)など。 なお、「おまえ」は神が人に語りかける時に使われていたが、「あなた」に変えられた。「はしため」は「仕え女(め)」に。
今回の翻訳で最大の課題は、「重い皮膚病」(KJVでは leprosy, ハンセン病)とされていた語をどう訳すかということであった。ツァラアト(Heb. צָרַעַת )といった音訳ではなく、必ず日本語にという考えで臨み、代案が多数出されたが最終的に「規定の病い」(レビ13:3)とされることになった。
またギリシャ語ピスティス・クリストゥ πίστις Χριστοΰ は、「キリストへの信仰」と訳されてきたが、この語は「キリストの真実」をも意味しており、ロマ3:22, ガラ2:16, エフェ3:12, フィリ3:9ではその訳が充てられた。
末日聖徒もこの共同訳 (私は「JBS共同訳」と略称している) を参照して、ますます聖書に親しみ理解を深めていくことができればと願っている。
当ブログ参考記事
・2018.4.19 聖書協会共同訳の特徴 ・・飯謙氏の講演より
・2015.4.19 新共同訳の次の聖書 - - 講演会から
・2015.10.17 信仰義認論に変化の可能性?その行方 I pistis Christou について
・2015.10.28 信仰義認論に変化の可能性?その行方 II 同
韻を踏んだキャッチーなコピーですね。
https://www.bible.or.jp/contents/soc/pdf/kondankai2019.pdf
東京でも5/24に教文館でありますね。
大阪の半分以下の規模ですが、関西の方が聖書に興味のある方が多いのでしょうか。
確か、共同訳→新共同訳だと思ったら旧共同訳は新約だけだったようですね。
いずれにしても最新の「共同訳」ということでこれからの標準を担う聖書になりそうです。
>末日聖徒もこの共同訳 (私は「JBS共同訳」と略称している) を参照して、ますます聖書に親しみ理解を深めていくことができればと願っている。
近くにバイブルセンターがありますので購入しようと思います。
初版特別価格で安くなっているとか。
教文館はおひざ元(同じビル)で開催するということで、座席数が少ないのでしょう。大阪は大勢という程ではありませんでした。
「聖書引用:口語訳聖書 日本聖書協会
21:28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
21:29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
21:30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
21:31 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
聖書引用:新共同訳聖書 日本聖書協会
◆「二人の息子」のたとえ
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
」
「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
「 イエスはもっとも大切な掟とは何かと問われたとき、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」 という 掟こそ、第一のものであると言われた。しかしわたしはこの日本語訳に不満を覚える。「心」と「精神」と「思い」とはどこがどう違うのか。ギリシャ語原典では明らかに違う3つの言葉が使われており、その違いは明確に訳出されなければなるまい。「心」と訳されるカルディアは、本来「心臓」を意味し、「感情・意志・内面生活の中心」の意味で用いられる。従って「心」と訳すのは妥当であろう。「精神」と訳されるプシュケーは、普通「命」と訳される。「永遠の命」などを表すゾーエーに対してプシュケーは、地上の生物学的命を表す。従って「精神を尽くして」は、「命を賭けて」とするべきだろう。「思い」と訳されるディアノイアは、「~を通って」「~を経て」「~に基づいて」を意味するディアに、「思い」「心」を意味するヌースから派生したノイアが合成されている。つまりディアノイアとは「心から発せられるもの」「思いを経て出てくるもの」というような意味で、私が翻訳するとすれば「心からの行為を尽くして」となる。
こうしてみると・・・」
http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/youshi02%2709_29.htm
「ところで、「心を尽くす」「精神を尽くす」とはどういうことなのでしょう。ヘブル語の「心」(「レーヴ」לֵב)は、知性や意志の働きと強くかかわり、むしろ理解力や悟りを意味します。心情的、情緒的なニュアンスの強い日本語の「心」とは少々異なります。日本語の「心」は情緒に重きが置かれますが、ヘブル語の心(「レーヴ」לֵב)は、どちらかといえば、理解力、洞察、悟りといった知性や意志の働きと強くかかわっています。「計画・意図・良心・決断」といった意味が含まれています。ですから、自発性、主体性、自立性といった意味合いが含まれます。「心を尽くす」とは、しなければならないからするといった義務からではなく、自ら進んでするという自発性を意味することばです。
「精神を尽くす」とはどういうことでしょうか。これは原語の「ネフェシュ」ということばをどう理解するかにかかっています。「ネフェシュ」は「霊、息、たましい、いのち、自分自身」とも訳されますが、この語彙の特徴は、目に見えないものすべてを意味することです。「目に見えないもの」とは、愛、誠実、正義、悔い改め、霊的な貧しさ、信頼、・・など。使徒パウロは「目に見えない」ものを「内なる人」と表現しています。したがって、「精神を尽くして愛する」とは、目に見えない精神的、霊的、内的なすべてのものを尽くして、神を愛することなのです。
」
これは名訳ですね。
末日聖徒の全体の伝統として、語源にまでさかのぼって本来の意味を考えるという手法をあえてしない、あるいは嫌ってる、あっても稀なこと(プロテスタントの牧師さんはその逆)なのは何故なのでしょう。
と思ったら、4月の大会でネルソン管長が「行いを改善し、より良くなれます」の説教のところで、悔い改めの語源であるギリシャ語に遡って解き明かしをされていて、やっぱり理系の大管長は伝統を気にしないからこうなるのかなと思ったりしました。
ギリシャ語の新約聖書で悔い改めに当たる言葉は,「metanoeo(メタノエオ)」です。接頭語の「meta(メタ)」は「変わる」という意味です。接尾語の「noeo(ノエオ」は,「思い」「知識」「霊」そして「息」を意味するギリシャ語に関連しています。5
ですからイエスは皆さんやわたしに「悔い改めよ」とお求めになるとき,思いと知識と霊と,さらに息の仕方までも変えなさいと勧めておられるのです。
分かりやすいお話しでしたが、息の仕方までも変えなさいのところは、文学もへったくれもなくて、元外科医だからこなるのか、さすがに直訳過ぎではないだろうかと、余計なことを考えてしまいました。
瞑想 呼吸
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E7%9E%91%E6%83%B3%20%E5%91%BC%E5%90%B8
・・・
聞いた話ですが、東京には二つ伝道部がありますが、この6月、北の伝道会長は、南の伝道会長として移転に(場所 武蔵野市吉祥寺、南の会長は3年の任期終え帰還)。で、現在の北の伝道本部の建物は不使用に(隣の宣教師アパートのみ使用される、人数も二人の長老だけに)、そして宮城県仙台市の現仙台伝道会長は仙台に滞在したまま引継いで東京北伝道部会長にって。
支部の指導者は支部会長
じゃなんで教会会長でなく大管長?
こんないい加減な翻訳を認めているモルモン教会に、聖書の語源やらギリシャ語での意味など、まじめに考察する気持ちなどありゃしませんて
主がジョセフ・スミスに啓示されたのは,原記録者がかつて記録した真理そのものである。この点で,ジョセフ・スミス訳は世にある他の聖書翻訳と趣を異にする。この意味から,ここでの「訳」という言葉は,通常の場合よりももっと広義の,異なった意味で用いられていると言える。ジョセフ・スミスの翻訳は,ある言語から別の言語への逐語訳ではなくて啓示だからである。ジョセフ・スミス訳についての詳細は,ガイドの「ジョセフ・スミス訳(JS)」の項を参照されたい。
http://scriptures.lds.org/jpn/jst/contents
ローマ 11:21 ◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう
ここは実質的には二重否定ということになると思います。そこに仮定がついていますので難読文章です。つまり、「切り捨てることをしないことをしないことをするとすれば」という文です。「神が自然に生えてきた枝を切り捨てにしたのなら、おそらくあなたをも切り捨てにしてしまうでしょう」とすることができるでしょう。
「恐らく」は「おそらく」のほうがよいと思います。
コリント第一 11:9 ◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
前半と後半とで文体を合わせようとしたのだと思いますが、かえって不自然です。ここは「女が男のために造られたからです」でよいでしょう。文法論を杓子定規に実践するからこういうことが起こってしまうのでしょう。
コリント第一 14:4 ◇ 聖書協会共同訳聖書 ◇ (カトリックとプロテスタント)
異言を語る者は自分を造り上げますが、預言する者は教会を造り上げます。
聖書には、「集う人々」を意味し、後の時代に「教会」を意味するようになった語があります。現代の聖書の大半はこの語に「教会」という訳語を充てているため、多くの聖句で文意が変わってしまうという問題があります。
最初の「造り上げる」は、おおかた「励ます」の意味です。文脈でパウロが指摘するとおり、異言を語る人は自分の語る言葉の意味を理解できません。つまり、自分に聖霊の奇跡が起こっていることを自覚することしかできませんので、その人の中で何かが成長するということにはなりません。一方、後半部分の「造り上げる」は「教えられて成長する」の意味です。そこでパウロは、異言よりも預言のほうがよいと結論するわけです。
仮にもパウロは、教会が建てられることや、設立されることについて述べているのではありません。「異言を語る者はその人だけを強くしますが、預言を行う者は教会の全員を強くします。」などとするなら、原文の文意を正しく示すことができます。また、コリント第一 14:2の「誰も聞いていないのに」は「誰も聞き取れないのに」か「誰も理解できないのに」としたほうがよいでしょう。
」http://biblia.holy.jp/thesis011.html
うぅぅんん、なぁんか、いろいろあるんでしょうかん??