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日曜学校でパウロの書簡を読み始めているが、二つの疑問が生じた。それは、いつどこでこのような強い確信を持つに至ったのかということが第一である。自信にあふれ、明確な書信が展開されるのを読んで心に生じた思いである。もう一つは、第一に関連するが、一体彼の回心はどのようなものだったのかという点である。今まで使徒行伝にある通りだったのだろうと思って、改めて考えることもなかった。
まだ関心を持ち始めて、下調べを少ししたにすぎない。ごく暫定的なことしか書けないが、記録しておきたいと思う。
第一のパウロはいつどこで、パリサイ派のユダヤ教から転向して、何通もの書簡に現われているような、復活したイエスを救い主として受け入れ、その教えに帰依するに至ったのかについて、なるほどと思う説明を佐藤研(みがく)の「旅のパウロ」に見出した。それによると、パウロはエルサレムに行ってペテロをたずね、彼のもとに15日間滞在した時(ガラテヤ1:18)、イエスについて教わった(情報収集活動を行なった)、そしてイエスの兄弟ヤコブにも会っている、二週間は長い時間である、と言う。そして、また後にバルナバに呼ばれてアンティオキアに行きそこに滞在するが(使徒11, 14章)、そこにおける比較的長い時間が研鑽の時期だったのではないか、と見る。
第二のパウロの回心について、今はただ、伝承をもとにしているとはいえ、「できるだけ劇的に描きたい作者ルカの」「潤色を強く受けた」もの(p.36)である可能性に気付いたことを述べるにとどめたい。この回心について改めて解説を読み比べてみたいと思っている。(合わせて彼の人物像も興味深いので描き出してみたい。)
パウロが新約聖書で大きな比率を占め、後のキリスト教を規定するほどの力を持つに至ったことについて、佐藤研は簡潔に次のようにまとめている。(p. 243)
エルサレム炎上 AD70
↓
イエス派の右翼的保守派、無力化
↓
キリスト教とユダヤ教が分離、決裂
↓
パウロのトーラー批判を借用、書簡収集
↓
パウロの聖人化、英雄化
納得できる説明である。
そのほか、小さなことであるが、書簡は長いものから順に並べられていることを知った。(クルアーンも同様である)。そのようなこともあって、パウロの生涯を整理した年表を手元において読むと分かりにくさがある程度解消される。(パウロの手紙の読みにくさは書簡に背景や執筆の動機などが十分与えられておらず、物語性が欠如していることが大きい。また彼の抽象度の高い信仰論が次々展開されるため、丁寧な解説を必要とするからである。)
パウロの生涯(年表)
1 http://nowaksvd.net/jp/pdf/pauro.pdf 1ページで便利
2 http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/paul/age.htm 色分けしていて分かりやすい 2ページ相当の長さ
3 http://www.ohta.link/shuchou/iyashi/paul.htm 上に同じく、色分け、2ページ相当の長さ
4 R.L.アンダーソン(LDS)「パウロを理解する」より年表、和訳 http://www.translatedmaterials-for-jpselds.com/ のその他資料 12
参考
上村静「宗教の倒錯、ユダヤ教・イエス・キリスト教」岩波書店、2008年、14章パウロ
大貫隆「聖書の読み方」岩波新書、2010年、I -2 – 11 難渋なパウロの手紙 pp. 59-62
佐藤研(みがく)「旅のパウロ:その経験と運命」岩波書店、2012年
織田信長が書いた手紙とか言うやつですけど。
これまでいくつもの古い手紙が出てきましたが、そのすべてが、個人に宛てたものです。
例えば、「豊臣秀吉から、中国地方の人々へ」等と言う手紙は見たことが有りません。
これは、手紙と言うのが、個人と個人の連絡手段だからです。
ところが、新約聖書の書簡は、すべて「・・・の人々へ」なのです。ちょっと考えれば、こんな変な手紙は有りません。郵便屋さんが何処に配達したらいいのか迷うじゃないですか。
それに、手紙と言うのは、受取人の手元に残るものです。バラバラの受取人、しかも受取人の名前が無い手紙が、どうして、一つの書物に集まっているのでしょうか?
ペテロの第二の手紙の最後には、ペテロの手紙の内容をパウロが知っているように書いてある。それも、みんなが当然それを読んでいるように書いてあります。
実に不自然だと思いませんか?
Eメールはもちろん、印刷技術もなく、紙そのものが貴重な時代に、1枚の手紙を多くの人が読むことがいかに困難なのか、そもそも、みんな字が読めたのか?
その辺のところを考えると、パウロの書簡の実在性を疑わざるを得ません。
実際に、パウロが書いた手紙が残っているのでしょうか?パウロの筆跡が残っているのでしょうか?パウロの指紋でもついているのでしょうか?
パウロの書簡のすべてをパウロ本人が書いたとすれば、その様に思えるでしょうが、実際のところは、誰が書いたのかはっきりしないものが多いのではないですか?
マタイの福音書を書いたのが、マタイ本人ではなく、「マタイ学派」(と呼ばれたかどうかは知りませんが)の創作である。と言う説も有りますし、パウロの書簡の多くは、後の時代に書かれたもので、パウロ自身が書いた物ではない。と言う説も有ります。
特定の意図をもって、創作されたものは、文章に迷いは無く、自信にあふれ明確な展開がなされるのも当然です。
私も、最初に読んだときは少なからず感動したのですが、何度か読んでいるうちに「押しつけがましい」と感じることが多くなりました。
例えば、男はこうあるべき、女はこうあるべき、親は、子は・・・・さらに、人間はこうあるべき、信仰はこうでないといけない!
もっと押しつけがましいのは、「愛とはこうである!!」と大上段に構えるところです。
愛も、人間も、こうあるべきなんて基準は無いし、生きているうちに自然に生まれて身につくものです。
結局、パリサイ派から一歩も踏み出していない。
やかましい鐘や乳鉢と言うのは、それを書いた人たちだと思いますね。
「静かにしろ!!!!」と言う声が一番大きいのは、水戸黄門だけじゃないなぁ~・・・。
ジョセフ・スミスもパウロをリスペクトしていた!
「実じつに、わたしたちはパウロの勧告に従したがうと言いってもよい。」信仰箇条13
新約聖書で多くを占めるパウロの書簡ですが、確かに素晴らしい。
ですが個人的には他の使徒達以上の見識があったとは思えない。
むしろキリストを失った使徒達が生まれながらのローマ市民でギリシャ語に堪能なサウロをヘッドハンティングした。という感覚を持っています。
他の使徒達もヘブライ語で教えを書かせればパウロ以上に名文を書いたと思います。