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モルモン教徒ノーブー脱出の理由

2013-09-09 22:11:12 | モルモン教関連


1844年6月27日、末日聖徒イエス・キリスト教会を興した預言者ジョセフ・スミスが、カーセージ牢獄で殺害された翌々年1846年2月、教徒は再び脱ノーブーの大移動を開始する。こんにちの教会員にとって何度も聞いてきた話であるが、ジョセフ・スミスが亡くなってヤングに引き継がれた教会がなぜまたすぐ移動を開始したのか、その理由がただ周囲からの「迫害」という以外、具体的にはよく分かっていないのではないか。昨日の日曜学校の成人クラスでその感を新たにした。私も確認のためラドロー編、「モルモン百科事典」(1992年)を開けてみた。

出ノーブーに至る長期の、また直前の詳細な経緯はおいて、直接的な理由が二つあった。それは、「ノーブー憲章」(居住、都市建設などの許可状)が州議会によって1845年1月に廃止されたことが一つであった。それによってノーブー市民(末日聖徒)の身の安全が保障されなくなった。もう一つは1845年9月、反モルモンの暴徒によって教徒に対し襲撃が行なわれたことであった。29軒の家が焼かれ全焼した。襲撃の理由として、ノーブーが、またその住民が続いて繁栄している様子を見て周辺の住民の間に敵意が再び醸成されたとB.H.ロバーツは記している。モルモニズムが揺籃期にあって伸びていることを、ウィリアム・E・ベレットは三つの分野で見られたと書いている。1、ノーブー神殿の建設が順調に進んでいたこと、2、伝道が米国内、カナダ東部、英国に行なわれ、改宗者がノーブーに次々流入していた、3、産業の発展。資本家がノーブーに招かれ、工場誘致が行われた。実際数々の工場が建設され、移民による人口増加を受容できていた。しかし、上の理由に加えて、政敵や教会を分裂させた者が教会の終焉を予告し、離反者が反対する中にあって、教会は1845年10月の大会で翌年春に脱出する計画を発表したのであった。

なお、ロッキー山脈のそびえる西部に安全を求めて移住することについては、ジョセフ・スミス自身が既に以前に言っていたことで、ノーブーにいた間スミスは情報を収集しロッキー山脈の高みにシオンを築く準備していたことが分かっている。(ロナルド・K・エスプリン)。

参考文献
ウィリアム・E・ベレット、「回復された教会」末日聖徒イエス・キリスト教会 東京ディストリビューション・センター 1975年

Reed C. Durham, Jr., “Westward Migration, Planning and Prophecy.” In Daniel H. Ludlow, ed., “Encyclopedia of Mormonism,” Macmillan Publishing Company, 1992.

Ronald K. Esplin, "A Place Prepared": Joseph, Brigham and the Quest for Promised Refuge in the West." Journal of Mormon History 9 (1982): 85-111.

沼野治郎「モルモン教をどう見るか 第三の視点をさぐる」せせらぎ出版、2013年

B.H.Roberts, “A Comprehensive History of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints.” Published by the Church; Brigham Young University Press, Provo, Utah 1965

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