
モルモン書に偽善売教という言葉が出てくるが(IIN26:29など)、前からどう受けとめればよいのだろうかと思っていた。モルモン書は「偽善売教とは、利益と世の誉れを得るために説教をして自分自身を世の光とすること」と説明している(同上29節)。モルモン書が描く場面に合わないように思われ、現代の末日聖徒の信仰生活にもしっくりこないと感じていたからである。そこで少し調べてみた。
まず偽善売教は英語のpriestcraftの訳語であるが、このpriestcraft は15世紀末に使われ始め、17世紀末にプロテスタンティズムが興り啓蒙主義の時代に至って、軽蔑的な意味で「野心に満ちた聖職者が現世の権力を得て社会を支配しようと画策すること」と言う意味を持つようになった。この語の納得できる説明である。なお、priestcraft という語は旧約聖書のヘブライ語にも新約聖書のギリシャ語にも相当する語が存在しない。
そして、人々(教区民)の心を支配するのに恐怖を起こさせるという手段が用いられたことがあった。例えば、・・しなければ永劫の罰を免れない、など。また宗派によっては「行ない」を強調することも、それができない聞き手にとって恐れを生じさせるもので、priestcraft に当たるという。このように恐れを起こさせて人々を統御することは、よいのだろうか。もちろんその答えは否である。あるサイトがあげているように、「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださった」(IIテモテ1:7)からである。(cuttingedge.org)
末日聖徒による解説では、日本に伝道しBYU教授となった故ディロン・井上の文が分かりやすいので紹介したい。「偽善売教というのはお金が関わっているのではなく、動機が問題なのである。・・末日において福音を教える多くの人 - - 教会幹部、伝道部長、セミナリー教師 - - を教会は財政的に支えているので、偽善売教は福音の教師が金銭を受けることに関わって生じることではない。その人が自ら目立つ存在になって称賛や利益を得ようとする動機がある時問題なのである。聖任され、または任命された教師であっても動機が純粋でない時 priestcraft (偽善売教)の咎を免れない。」
なお、同じくBYUのチャールズ・D・テイトは文学に描かれた例をあげて priestcraft をオーソドックスな形で解説している。ダンテの paradiso 、チョーサーのカンタベリー物語、ミルトンのリシダス(ll. 114-15、25-27)を引いている。テイトはpriestcraft の結果「物質(実利)主義」に陥ることも指摘している。ミルトンの文はこうである。
羊たちの檻に厚かましく
割り込み,よじ登って私腹を肥やす連中
飢えて眼を上げる羊たちには餌もなく
風にさらされ,毒露を吸って腫れてむくみ,
身内より腐りはじめ,疫病をまき散らす。
[稲用(Inamochi) 茂 夫訳 大分大学教育福祉科学部研究紀要 2009. Oct ]
以上のことを考えると日本語の翻訳は「聖職濫用」とでもする方が的確であるように思われる。(中国語では「祭司権術」となっている。2008年訳「摩尔門経」)。

皮肉なことに新興宗教嫌いの日本の環境の中では、あえて教会の名前を利用して対外的に地位や名誉を高めようと画策する者は皆無でしょうね。 その点では心配がないわけだ。
内向きの偽善売教のほうは警戒したほうがいいかもしれませんけれども。
でもこの問題はジョセフ・スミスの最初の示現は間違いでしたってことにすれば解決ですよ。
欧米人って聖書と『失楽園』、あとダンテの『神曲』の内容かゴッチャになって全部聖書に書かれていると思い込んでいると聞いたことがあります。
これはモルモン独自の教義などではありません。黙示録12章にしっかり書いてありますんで。
さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。
この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。
さらに言えばその戦いで臆病だったものは、相応しくないので、神権を受けられない黒人の血統に生まれてくるのだと言う人種差別容認思想もモルモン独自のものです。
「ルシフェルが天父に背いて反乱を起こし、敗退して地に投げ落とされるって言うモルモン教義ですが」と書いてあって、そこは別にモルモン独自の教義ではないよと指摘させてもらっただけです。
ミルトンの『失楽園』をジョセフスミスがぱくったのなら、サタンは天から地獄、地獄から地上、そして地上から地獄のはずでは?
モルモンの教義では、サタンは天から地上に落とされ、そして最期の審判で地獄に落とされます。 そして黙示録もジョセフスミスの通りの順番になってます。
それから、キリスト教における前世のような論は原始キリスト教ではそれほど珍しくなく、たとえばアリウス派が唱えていたりします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
スローガン「御子が存在しない時があった」
ロゴスは全被造物よりも前に、最初に無から創られた被造物で、このロゴスを通じて神は全被造物世界を創ったが、それでもロゴスは被造物である。
残念ながらニカイア会議で異端とされて、迫害されて、その教義は滅ぼされていったんですけどね。
モルモンの教義はアリウス派に似ています。
子の霊は父なる神によって創造された。(つまりそれ以前に子は霊でない時期もあった。)
霊たちは全被造物よりも前に、最初に英知から創られた被造物で、この霊たちを通じて神は全被造物世界を創ったが、それでも霊たちは被造物である。
ミルトンがどうのと言う話は前々から私が感じていたことです。他人がどう感じたかにさえ目くじら立てるとは随分狭量なのですね。
アリウス派と言うのは良く知りませんが、キリスト教会で異端認定されたんですよね?だったらそれにモルモン教義が似ているならモルモンは異端だと言うことです。あなたは自分で証言しちゃってます。
今日、多妻結婚をした人はモルモンから破門されるんでしょ?その判断が正当で尊重されるべきなら、異端であるモルモンを遠ざけているキリスト教会の判断も尊重されるべきなのでは?
自分史たちの勝手ばかり主張してモルモンをキリスト教だと認めよと言うのはワガママだと思います。
ブログの広告料で余生を豊かに暮らすのを画策しているのでしょうか?(笑)
と言う事で、このスレッドの意味するところは二つ。
その一つは、「偽善売教」と言う言葉は、実にジョセフスミスが、モルモン書を書くきっかけとなったと主張する、当時のキリスト教の状態を批判する言葉。
つまり、それぞれの宗派が、「自分たちが正しいのだ!」と主張し合っていたことへの批判を、モルモン書に反映させた事を示している。
二つ目は、ニーファイの時代には、「偽善売教」と言う言葉も、考え方も存在しなかった。
と言う事ですね。
この二つから導き出される答えは、一つしかありません。
少なくとも、モルモン書のこの言葉を含む部分は、ジョセフ・スミスの考えで書かれたものである。
え?何かこの私の書き込みに問題が有りますか?
いえね、私はいつも、ブログの書き込み数を上げるために応援してるだけですよ!いやほんま・・・。
この発言はジョン・ドゥ氏の個人的な感想・決めつけということで結構です。
アリウス派は別聖典も持っていたそうなのに、異端であってもキリスト教です。 「モルモンはキリスト教ではない」は、暴言というものです。抗議することが当然でありワガママでも何でもないことです。。
会議と迫害ででアリウス派を滅ぼした一般的キリスト教は、前世のようなものを認めないのは当然でしょう。
しかし一般的なキリスト教においては黙示録12章は、サタンに脅かされるイスラエルの民の歴史の象徴のシーンと理解されているのです。
地に落とされたサタンの執拗な攻撃とエジプトに売られたヨセフの歴史から、モーセの紅海渡りを経て、イエスが生まれてクリスチャンの牧者になる、そして終末で勝利することを示しているという見方が一般論です。
一説には大きなふたつのわしの翼とはモーセとヨシュアのことだったり、イスラエルとユダ王国と解釈されていたりと誤差は色々あっても、12章の最初から全部が終末予言であるという解釈の方が珍しいです。
赤い龍が天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。 については前世ではないとしつつも、赤い龍はサタン、「天の星の三分の一」は「サタンに味方する霊たち」と解釈している点では、末日聖徒の教義と同じ解釈となっているところも度々見られます。
豚さんへ
モルモン書の中にジョセフスミスの言いたいことや解説がたびたび反映されているという結論については私も同じ思いです。
「偽善売教」の警戒については、福音書の中でイエス自身の説教中に、偽善者のように~するな云々(偽善とは動機不純が原因だ)と述べていたように思われます。