聖書やモルモン書を読んでいて、たびたび遭遇する問題である。読者は自分がどう考えているかその姿勢が大体定まっていても、人から問われるとどう答えたものか思案することがあるのではないだろうか。
そこで奇跡に対する立場を二極に分け、その中間にくると思われるものを順次列挙してみた。なお、私は奇跡を信じる人たちを理解し尊重しているが、自身は冷静、慎重であり、むしろ批判的である。以下、奇跡および関連する言葉の数々を短い説明を添えてまとめてみた。(あくまで粗いメモのレベル。読みにくくてすみません)。
◎ 奇跡。
奇跡を初め類する話を字義通り、実際に起こったものと受けとめる。(単純明快、末日聖徒など原理主義的キリスト教徒に多い。)
・しるし
・不思議
・啓示(真理や神の御心が知らされる。身に迫る危険を直前に予知する力など個人的なものも含む)現実にはそれが得られなくて、当惑・落胆することが少なくない。
・神話 創世記の多くの記述。極端な長寿や巨人が地上の降り立つ話など。
・歴史的・批判的方法
・物語り 読者が物語りの中に加わり、救いを身近に感じることを可能にする。しかし、
「信頼できない語り手」
「敬虔な贋作」(がんさく、『偽物』、pious fraud)という場合もある。
・創作 マルコから他の福音書に進むにつれて奇跡が増え、拡大されている、など。
〇 非神話化 新約聖書を時代的に制約された表現形式や世界像から解放し、その本質的内容を近代的実存の立場で理解・説明しようとする。超自然的記事を神話的物語りと見る。
・ 不信の一時停止、一時棚上げ(suspension of disbelief, bracketing) を行なうことによって、聖書などに込められたメッセージを読む。
◎ 聖書に記されている奇跡を合理的に説明することは無益である。(田中理夫、旧約聖書略解、1957年、ヨシュア記の担当者。10:13 日が天に留まったくだりの注釈。)
ただ、聖書を読む姿勢として、次のような指摘もある。
- 「近代科学の知識に照らして奇跡物語り(イエスの癒しなどを含む)を『嘘』だと断定することほど、幼稚で不毛な読み方はない。」(大貫隆「イエスという経験」2014年)。背後にある背景を知り、物語りの主旨を汲み取るべきであるという警句。
私は現代に生きる者として、直解主義を越え最先端の研究成果を踏まえて、聖典の知的な読み方をしたいと努めている。
後の紅海先に立たず、と言うのは、この話から生まれたとか???
こういう言葉ってオムナイちゃんとかが好きそうw
それで優勝だ!!!!
なんて、大阪の虎党って人達は、起こるはずがないと自覚しながらも、そんな話をして毎日を楽しんでる。
そう言う奇跡なら信じるのも良いかも知れない。
ただ、奇跡は起こるって信じ込ませて、金儲けをするのは止めてほしい。
奇跡は、一筋の希望、奇跡なんて信じないって人も、長い人生のどこかで信じたい気持ちになることは有るんでしょうね。
>それで優勝だ!!!!
毎年開幕からマジック140ですからね、阪神タイガースは!
>ただ、奇跡は起こるって信じ込ませて、金儲けをするのは止めてほしい。
まぁモルモン教会は、金を持ってこいなんて言いませんよ、什分の一の原則を教えてるだけです、って言うのだろうなぁ(笑)
ジブリの紅の豚と奇跡がどんな風に結びつくのか?
魔女の宅急便に絡めてくるのか?
と、思ったら。老眼のせいでしたw
奇跡。
たとえば山上の垂訓での「パンと魚」の奇跡。
あれは分かち合いの奇跡だと思います。
奇跡は人類の軌跡。
告白者
「私は罪を犯しました。大きなウソをついたのです」
教誨師
「ウソをついたくらいで気にすることはありません」
告白者
「しかし聖書はウソをついてはならないと書かれています」
教誨師
「だからです。聖書に書かれているからこそ気にすることはないのです。聖書にはありもしないこと、創作、神話、事実の歪曲で溢れています。その事実を庇いきれずに有名な聖書学者でさえこう教えているのです。
『近代科学の知識に照らして奇跡物語り(イエスの癒しなどを含む)を『嘘』だと断定することほど、幼稚で不毛な読み方はない。』」
告白者
「それでも聖書は多くの人が信じているのではないですか?」
教誨師
「そうですね。つまり聖書に書かれているウソを超えるレベルのウソでなければ罪には値しないということです」
告白者
「それはどんなことですか?」
教誨師
「神が生きている、神の子供が罪を贖う、正しい者は天国へ行き悪人は地獄に行くと、何億人もの人間に信じ込ませるレベルのウソをついて始めて罪があるとされるのです。あなたはそれほどのウソをついたのですか?」
告白者
「したかも知れません・・・ひょっとしたら・・・」
教誨師
「ほう、あなたはいったい誰で、何をしたのですか?」
告白者
「私はジョセフ・スミスと言います。モルモン書を書きました。」
意外に思われるが、実際にトマスがそうしたかどうかについて福音書は言及していないのである。「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われたとき、トマスは、即座に「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と言ったとされる展開である。衣のひだまで克明に造形されているこのブロンズ像では、トマスの右手、衣を寄せるイエスの左手、そして、高く掲げられたイエスの右手、それらの描写も細やかである。人物像の描き方としては、15世紀フィレンツェの人物を想像したくなるほど、日本の文化伝統の中にいる我々から見れば西洋人のスタイルともいえるかもしれない。この時代、写実的表現が彫刻や絵画でも盛んになってくると、その時代、その地域の人物描写法が適用されているためか、我々から見ると、イエスの姿も使徒たちの姿もマリアや女性たちの姿も、いかにもヨーロッパ人らしいと感じられてくるようになる。ただ、それをそのままキリスト教のものと考えると、キリスト教=西洋のものというイメージがいつまでも残存することになる。この作品は、イエスとトマスの出会いの出来事を、15世紀フィレンツェで心の中で受けとめ反芻し想像した、いわば一つの黙想の実りだというところに意義があろう。その点も併せて、その時代の精神性や信仰心の姿にも心を向けると、我々自身の時代への目も深まると思われる。
イエスのこと、その復活を信じられるかどうかわからないでいるトマスは、あえて疑いを表明した後に、イエスから「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」とまでのことばを受ける。即座にトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白したとすれば、それはまさしく召命のことばだったことになる。人がいかにして信仰者となっていくか。そのプロセスを先んじて歩んだ者といえる。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20・29)ということばは、彼のあとにイエスと出会うことになるすべての人(我々も含む)へのイエスの祝福であり、招きである。このことばをすべての人のためにもたら・・
」https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2019/st190428.html
「トマスの反応は神に対する、畏怖というよりも単純な驚愕だ。次に来るのは、自分の懐疑に対する悔悟や狼狽ではなく、神の存在に対する感激だ。彼の不信仰は誠実で、その懐疑は信仰を排除しないからだ。
私はこのトマスの率直さが好きだ。そして、その率直さを良しとするキリストが好きだ。
実際に見るまでは信じない、と言ったトマスを、他の弟子たちは咎めない。ましてや、「不信心な罰当たりめ」とか「お前以外の者は全員信じているんだぞ」とかとは詰らない。
キリスト本人も、トマスが疑ったことを叱りも責めもしない。トマスのほうも、自分が疑ったことを恥じたり謝ったりしない。
このエピソードから、私の想念はてんでに勝手な方向へと広がってゆく。
一、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で述べたこと。無理強いされた信仰には何の意味もない。信仰に、物的証拠などナンセンスだ。聖トマスにはもともと信仰があったから、復活を信じたのだ。現実主義者は物質主義者ではない。そして現実主義と理想主義とは・・
」https://blog.goo.ne.jp/chimaltov/m/201212
トマス 不信 復活
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%20%E4%B8%8D%E4%BF%A1%20%E5%BE%A9%E6%B4%BB&ei=UTF-8
「10 「見よ、わたしはイエス・キリストであり、世に来ると預言者たちが証した者である。
11 見よ、わたしは世の光であり命である。わたしは、父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み、世の罪を自分に負うことによって父に栄光をささげた。わたしは世の罪を負うことによって、初めから、すべてのことについて父の御心に従ってきた。」
12 さて、イエスがこれらの御言葉を語り終えられると、群衆は全員地に伏した。彼らは、キリストが天に昇られた後、自分たちに御自身を現されることが預言されていたのを思い出したからである。
13 そこで、主は彼らに言われた。
14 「立ってわたしのもとに来て、あなたがたの手をわたしのわきに差し入れ、またわたしの両手と両足の釘の跡に触れて、わたしがイスラエルの神であり、全地の神であること、そして世の罪のために殺されたことを知りなさい。」
15 そこで群衆は進み出て、主のわきに手を差し入れ、また主の両手と両足の釘の跡に触れた。彼らは一人ずつ進み出て、全員がこのようにし、自分の目で見、自分の手で触れ、この御方が、将来来られると預言者たちによって書き記された主であられることを、確かに知って証した。
16 彼らは全員進み出て、自ら確認した後、一斉に叫んだ。
17 「ホサナ。いと高き神の御名がほめたたえられますように。」そして、彼らはイエスの足もとに伏して、イエスを拝した。
01 さて、イエスはこれらの御言葉をニーファイと前に召された人々(召されてバプテスマを施す力と権能を授けられた人々の数は12人であった)に語り終えると、見よ、群衆に手を伸ばして、大きな声で言われた。「わたしがあなたがたの中から選んで、あなたがたを教え導き、またあなたがたの僕となるようにしたこの12人の言葉に注意を払うならば、あなたがたは幸いである。わたしは水であなたがたにバプテスマを施す力をこの12人に授けた。あなたがたが水でバプテスマを受けた後、見よ、わたしはあなたがたに火と聖霊によってバプテスマを授けよう。あなたがたはすでにわたしを見ており、わたしが実在することを知っているので、わたしを信じてバプテスマを受けるならば、あなたがたは幸いである。
02 さらにまた、あなたがたがわたしに会ったと証し、わたしが実在することを知っていると証するとき、あなたがたのその言葉を信じる人々は、なおさら幸いである。まことに、あなたがたの言葉を信じて、心底謙遜になってバプテスマを受ける人々は、幸いである。彼らは火と聖霊を授かり、罪の赦しを受けるからである。
03 まことに、わたしのもとに来る心の貧しい人々は、幸いである。天の王国は彼らのものだからである。
04 また、悲しむ人・・・
29 わたしの愛する同胞よ、キリストがこのように行われたので、奇跡はやんでしまったのであろうか。見よ、そうではないと、わたしはあなたがたに言う。また天使たちも人の子らに働きかけることをやめてはいない。
30 見よ、天使はキリストに従っており、深い信仰と確固とした心をもって、あらゆる方法で神を敬う者に自分自身を示し、キリストの命じられる御言葉のとおりに教え導いている。
31 天使の務めは、人を招いて悔い改めさせることと、御父が人の子らに立てられた聖約の業を果たして実行することと、主の選ばれた器にキリストの御言葉を告げ知らせることによって彼らがキリストについて証を述べるようにして、人の子らの中に道を備えることである。
32 このようにして、主なる神は道を備えて、残りの人々もキリストを信じる信仰を持ち、聖霊がその力によって彼らの心の中に宿られるようにされるのである。このような方法で、御父は人の子らに立てられた聖約を果たされる。
33 キリスト・・・
02 また彼らは、打ち砕かれた心と悔いる霊をもって進み出て、自分のすべての罪を心から悔い改めたことを教会員に証明した者でなければ、だれにもバプテスマを認めなかった。
03 また、最後までキリストに仕える決心をしてキリストの名を受けた者でなければ、だれもバプテスマを認められなかった。
04 そして人々はバプテスマを認められ、聖霊の力が働いて清められると、キリストの教会の民の中に数えられ、その名が記録された。それは、彼らが覚えられ、神の善い言葉で養われ、そして彼らを正しい道にとどめるため、また絶えず祈りを心に留めさせ、彼らの信仰の創始者であり完成者であるキリストの功徳にだけ頼らせるためである。
05 教会員は断食し、祈るため、また人の幸いについて互いに語り合うためにしばしば集まった。
06 また、主イエス・・・
11 預言者たちによって述べられた聖文はここまで成就した。
12 このときに命を助けられたのは、ひときわ義にかなった人々である。彼らは預言者たちを受け入れた人々で、預言者たちに石を投げつけなかった。また、聖徒たちの血を流したこともなかった。
13 彼らは命を助けられ、地の中に沈められることも埋められることもなかった。海の深みにおぼれることもなく、火で焼かれもせず、落ちて押しつぶされて死ぬこともなかった。また、彼らは旋風に運び去られるこ・・
」
聖書に創作が含まれることと、モルモン書が創作が含まれることは事実だから。
いまだに地球は平面だと思い込んでいる人たちが、そうでない人たちを「地球は球体派」と呼ぶようなものだと思うよ。
自分たち以外を「~派」と呼ぶことでさも自分たちのトンデモ主張がまっとうな派閥であるかのように粉飾するのはやめて欲しいのね。
しかし「地球」って言葉、素晴らしいね。アホな議論をすっ飛ばして「球体である」ことを高らかに断定しているから。この言葉を造った人ってイエズス会の人らしいです。
質問
(Question)
「地球」という言葉が日本で初めて使われたのがいつ頃か。
回答
(Answer)
『日本国語大辞典(第2版)』8(小学館 2001 p.1313)の「地球」の項の語誌に、「明末中国を訪れたイエズス会士マテオ=リッチによる造語。「天球」からの類推で考案か」とある。江戸期にイエズス会士らの書物を通じて日本に伝わり、蘭学書に用いられ、対訳辞書にも収録され一般化したようだ。
『歴史から生まれた日本語語源詮索辞典』武光誠著(創拓社 1992)、『なるほど語源辞典』(講談社 1999)など語源の辞典に記載なし。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000040427
モルモン教会員もこういう人類のためになることしなきゃねw
三流小説みたいな本を真実だの、金版は実在しただの愚にもつかないこと言ってちゃダメだよ・・・
聖書に創作が含まれることと、モルモン書が創作が含まれることは事実だから。
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聖書に創作が含まれることと、モルモン書が創作であることは事実だから。