[明治訳モルモン經]
モルモン書は1909年に日本で翻訳された時、文語体(当時の「文章体」)であった。当時、日本伝道部をヒーバー・J・グラントに次いで管理していたアルマ・O・テイラーは、1904年7月からモルモン書の日本語訳に着手していたが、テイラーの訳文は言文一致体(口語と文語の混合体)で2年弱で終了し、1907年12月にその改訂も終了していた。
しかし、いくにんかの日本人に相談したところ、宗教の聖典に相応しいのは文章体(文語)であると提案され、ニーファイ第一書1章を神戸と仙台に住む日本人に見てもらったところ、やはり文語に直して返送してきた。それでモルモン書の翻訳をやり直すことになった(二コルズ論文, p. 46)。
その結果、初め早稲田大学の平井広五郎(1907.9.2-1908.3.31契約)、ついで夏目欽之介(漱石)の推薦で生田長江(本名弘治、)と契約して(1908.7.29-) 1909.4.3生田が文章語の翻訳を終了している。(平井は途中契約違背のため、契約破棄に至っているので、生田が最終稿を教会に提出したと見る。) それをテイラーが点検し、平井や河井幸三郎(号醉茗、作家、詩人)など数人の日本人の意見を聞いて、1909.7.24 原稿が完成している。そして、最終的に1909.10.10印刷を終えている。
[生田長江、1903年頃。日本の作家、翻訳家]
後に昭和訳の翻訳を行なった佐藤龍猪はこの明治訳について、「その訳はまことに立派なもので、必ず名のある専門の英学者の手によって成ったものであることを確信させられました」と語っている(「聖徒の道」1957年7月号)。この評の通り、格調高い優れた訳であって、佐藤の言葉は明治訳が日本人の手によっていることを示唆している。
[明治訳冒頭の部分]
私は、アルマ・O・テイラーがヒーバー・J・グラントなどに比べて、語学に秀でモルモン書の日本語訳に数年の年月をかけ、努力を傾注した貢献に敬意を表する者であるが、ここで田川建三風に辛口で言えば、明治訳は彼の力量を越えたできで、実質日本人の手になるものであると考える。彼は滞日8年になるが、自由に日本の新聞雑誌、書籍を読み、文を書いたりして、聖典を邦訳できる能力を具えていたとは考えられない。研究職や大学の教職に就いていたあるいは日本語で文筆活動をしていたわけではなく、布教活動をしていた状況を考慮すべきであろう。現に彼は原稿をローマ字で書いている。* また、翻訳の自然な姿は日本語を母国語とする翻訳者が英語から日本語に訳す方向である。(まして、ヘブライ語やギリシャ語が介入せず、英語が原文であれば、日本の英学者の力量は既に十分であった。)
明治訳「モルモン經」の見開きページに、和訳主任者アルマ・オー・テイラーとあるのは、翻訳監修者と読み替えるべき肩書であろう。末尾の頁に発行者、教会の代人として自分の名前を記していることも彼の立場を表している。
註
*アルマ・O・テイラーが初めに翻訳を完了した言文一致体の原稿が残っていれば、是非文語訳と比較検討するべきであるが、破棄されている(高木、マッキンタイヤ、1996年、104頁)。BYUに保管されているのは、完成された原稿と印刷業者渡しの二種である。(生田が託された仕事は文体の変更であると伝えられているが、一日5時間従事するという契約で責任ある仕事をするとすれば、オリジナルの英文を把握した上で、格調ある訳文を自ら構成して作業を進めたと考えられる。)
明治訳(文語)は委託された生田の翻訳によるもので、アルマ・O・テイラーが翻訳したとは言えないのではないか、と高木信二氏に話したところ、言下に彼(アルマ・O・テイラー)にはできない、との反応であった。(2016.11.12、於大阪)。
参考文献
Reid L. Neilson, “The Japanese Missionary Journal of Elder Alma O. Taylor, 1901-10” BYU Studies and Joseph Fielding Smith Institute for Latter-day Saint History, 2001
Murray L. Nichols, “History of the Japan Mission of the L.D.S. Church 1901-1924” (Thesis, Provo, Utah, 1957)
Jiro Numano, “The Japanese Translation of the Book of Mormon: A Study in the Theory and Practice of Translation” (MA Thesis, Provo, Utah, 1976)
高木信二、ウイリアム・マッキンタイヤ「日本末日聖徒史」ビーハイブ出版、1996年
モルモン書は1909年に日本で翻訳された時、文語体(当時の「文章体」)であった。当時、日本伝道部をヒーバー・J・グラントに次いで管理していたアルマ・O・テイラーは、1904年7月からモルモン書の日本語訳に着手していたが、テイラーの訳文は言文一致体(口語と文語の混合体)で2年弱で終了し、1907年12月にその改訂も終了していた。
しかし、いくにんかの日本人に相談したところ、宗教の聖典に相応しいのは文章体(文語)であると提案され、ニーファイ第一書1章を神戸と仙台に住む日本人に見てもらったところ、やはり文語に直して返送してきた。それでモルモン書の翻訳をやり直すことになった(二コルズ論文, p. 46)。
その結果、初め早稲田大学の平井広五郎(1907.9.2-1908.3.31契約)、ついで夏目欽之介(漱石)の推薦で生田長江(本名弘治、)と契約して(1908.7.29-) 1909.4.3生田が文章語の翻訳を終了している。(平井は途中契約違背のため、契約破棄に至っているので、生田が最終稿を教会に提出したと見る。) それをテイラーが点検し、平井や河井幸三郎(号醉茗、作家、詩人)など数人の日本人の意見を聞いて、1909.7.24 原稿が完成している。そして、最終的に1909.10.10印刷を終えている。
[生田長江、1903年頃。日本の作家、翻訳家]
後に昭和訳の翻訳を行なった佐藤龍猪はこの明治訳について、「その訳はまことに立派なもので、必ず名のある専門の英学者の手によって成ったものであることを確信させられました」と語っている(「聖徒の道」1957年7月号)。この評の通り、格調高い優れた訳であって、佐藤の言葉は明治訳が日本人の手によっていることを示唆している。
[明治訳冒頭の部分]
私は、アルマ・O・テイラーがヒーバー・J・グラントなどに比べて、語学に秀でモルモン書の日本語訳に数年の年月をかけ、努力を傾注した貢献に敬意を表する者であるが、ここで田川建三風に辛口で言えば、明治訳は彼の力量を越えたできで、実質日本人の手になるものであると考える。彼は滞日8年になるが、自由に日本の新聞雑誌、書籍を読み、文を書いたりして、聖典を邦訳できる能力を具えていたとは考えられない。研究職や大学の教職に就いていたあるいは日本語で文筆活動をしていたわけではなく、布教活動をしていた状況を考慮すべきであろう。現に彼は原稿をローマ字で書いている。* また、翻訳の自然な姿は日本語を母国語とする翻訳者が英語から日本語に訳す方向である。(まして、ヘブライ語やギリシャ語が介入せず、英語が原文であれば、日本の英学者の力量は既に十分であった。)
明治訳「モルモン經」の見開きページに、和訳主任者アルマ・オー・テイラーとあるのは、翻訳監修者と読み替えるべき肩書であろう。末尾の頁に発行者、教会の代人として自分の名前を記していることも彼の立場を表している。
註
*アルマ・O・テイラーが初めに翻訳を完了した言文一致体の原稿が残っていれば、是非文語訳と比較検討するべきであるが、破棄されている(高木、マッキンタイヤ、1996年、104頁)。BYUに保管されているのは、完成された原稿と印刷業者渡しの二種である。(生田が託された仕事は文体の変更であると伝えられているが、一日5時間従事するという契約で責任ある仕事をするとすれば、オリジナルの英文を把握した上で、格調ある訳文を自ら構成して作業を進めたと考えられる。)
明治訳(文語)は委託された生田の翻訳によるもので、アルマ・O・テイラーが翻訳したとは言えないのではないか、と高木信二氏に話したところ、言下に彼(アルマ・O・テイラー)にはできない、との反応であった。(2016.11.12、於大阪)。
参考文献
Reid L. Neilson, “The Japanese Missionary Journal of Elder Alma O. Taylor, 1901-10” BYU Studies and Joseph Fielding Smith Institute for Latter-day Saint History, 2001
Murray L. Nichols, “History of the Japan Mission of the L.D.S. Church 1901-1924” (Thesis, Provo, Utah, 1957)
Jiro Numano, “The Japanese Translation of the Book of Mormon: A Study in the Theory and Practice of Translation” (MA Thesis, Provo, Utah, 1976)
高木信二、ウイリアム・マッキンタイヤ「日本末日聖徒史」ビーハイブ出版、1996年
然(さ)れば身に居(を)るも身を離るるも、ただ御心に適(かな)はんことを力(つと)む。
参ニーファイ17:20-21
「汝等は其(その)信仰の故に福(さいはい)なり。見よ、我喜悦今満(わがよろこびいまみ)ち溢る」と彼等に言ひて涙を流し給へり。
ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。(2コリント5:9)
あなたがたは信仰があるので、幸いである。見よ、わたしの喜びは満ちている」と言われた。 (3ニーファイ17:20)
「分かりやすくて大変貴い多くの部分を福音から取り去り、また多くの聖約も取り去った」(IN13:26)について、ブログに新しい記事[メモ]として掲載しました。
付け加えると、霊感訳の「霊感」はスピリチャルということですので、「翻訳」自体があくまでも預言者によるスピリチャルな作業であったと理解されるのが妥当ではないでしょうか。
キリスト教外典について教会は、書かれた当初はまぎれもない聖典であったが、改ざんされてしまったため、意味が変わってしまい現在では研究目的にしか用いられないテキストであるとコメントしています。
また、ジョセフスミスはエチオピア語版のだったのかどうかまでは不明ですが、外典の「エノクの書」を非常に重視していましたが、明らかに現在の聖書からゴッソリ抜かれてしまっており、それは私でも豚さんでも誰でも確認できることです。
ジョセフ・スミス訳(霊感訳)は、欽定訳聖書を見ながら彼が行った注釈的改訂です。このように理解すればよいのではないか、と「霊感」によって書き替え、補足、拡張したもので、オリジナル本文を回復したものではありません。従って、
> 彼の生きた時代に読んでいた聖書を元にして、自分なりの解釈を行ったのではないか
そのとおりです。末日聖徒はジョセフ・スミス訳に対して、実像を知らないで高すぎる信頼を寄せて参照しています。どんなものか自分で調べて見てほしいと思います。当ブログ2014.3.1 「ジョセフ・スミス訳 I, II 」に例をあげてやや詳しく書いています。
いや、誰も底本などと言ってないし、追求もしてないけどなぁ?
NJさんが嫌がるのでホントのこと言うのは遠慮してるんだけど、ここまでデタラメを吹聴されると言わざるを得ませんね。
霊感訳聖書も、モルモン書もジョセフ・スミスが思いつきでデッチ挙げ・・・やっぱり言うのは止めときます。
ですから、この事が事実なのかどうかを検証すべきだと言ってるんですよ。
250年前のアメリカの片田舎では、その様な話で、多くの人が納得したかもしれませんが、現代の情報社会で、その様な言い分が通用するのかどうか?って事です。
Rさんも、思い付きじゃなく、具体的な根拠を示して頂ければ、豚なりに検討のしようも有るのですが、まったく根拠のない思い込みの話をくどくどと書かれても、読む気にもなれません。
例えば、どの部分が排除されて、どの部分が異端として焼かれたのですか?
又、それをジョセフはどの部分で補っているのですか?
ジョセフの霊感訳聖書で、抜き去られていた部分を復活させたのはどの部分ですか?
本当に惜しい方を亡くしました。
http://www.babelbible.net/pdf/pdfmari.cgi
http://www.babelbible.net/pdf/manual/morjb.pdf
これ以上、底本底本と追求したところで、何も出てこないでしょうね。 無駄だと思います。
と読めるように思われます。
どちらにせよ教会は、モルモン書と霊感訳マタイによってその問題は解決され、聖書のこの書がこう書き換えられたとかこの書を入れるべきとか、学術的には示してこなかったようです。
ジョセフU+200BはU+200B1833U+200B年U+200B7月U+200BまでU+200BにU+200BこのU+200B翻訳U+200BをU+200BほとんどU+200B終えてU+200BいたU+200Bが,出版U+200BのU+200BためU+200BのU+200B原稿U+200BをU+200B準備U+200Bしながら,1844U+200B年U+200BのU+200B死U+200BにU+200B至るU+200BまでU+200B加筆U+200B訂正U+200BをU+200B続けた。
https://www.lds.org/scriptures/gs/joseph-smith-translation-jst?lang=jpn
『翻訳』って言ってるやん、しかも神から命じられたと。この便利な時代にネットで検索もしないで思いつきで好き勝手喋るヒトがいるらしい
ジョセフスミスは霊感によって読者が正しく理解する目的で修正を加えたりしたのであって、何かを底本にして翻訳などしていません。
したがって聖書の正確な翻訳であるとも述べていなかったと思われます。
前に、webで見つけてダウンロードいたのですが
pcが壊れてなくなってしまいました。
なかなか見つけられなくて
ご存知のお方がいらっしゃいましたらURLを教えてください。
ジョン・ドゥさんの尻馬に乗ったようで恐縮なんですが、私も、聖書の翻訳にどれほどのミス(意図的なものも含めて)が有ったのか、非常に疑問を感じます。
先日の日曜学校でも、聖典に詳しいと評価されている会員の一人が、「現在の聖書は、正しくない(正確ではない)」との発言が有りました。
しかし、仏教の経典などもそうですが、宗教の経典と言うものは、それを書き写すときに非常に注意を払て、正確に書き写すもので、近年新たに見つかった古い資料でも、現在の物とほとんど変わりがない、と聞いています。
ジョセフは、独自の霊感訳を出していまして、モルモンンではそちらの方が正しいとしていますが、そもそも、霊感訳の基に成っている文章がどのようなものかはっきりしません。
正確に翻訳した、と言うからには、翻訳の元になる資料が有ったはずなのですが、どの資料からの翻訳だったのでしょうか?
私は、ジョセフは、彼の生きた時代に読んでいた聖書を元にして、自分なりの解釈を行ったのではないかと思っています。
モルモンの会員は、そもそもの聖書の成り立ちにつて大きな誤解をしているように思えます。
私の思うところを書きます(レスは結構です)。
他言語への翻訳とはほとんどの場合、異なる文化の伝達を行う必要が出てまいります。一つの単語についても伝達元と先の文化や歴史的背景を知らないと意味が全く伝わらなかったりします。
そこで読書が迷わず済むように翻訳者が様々な工夫をこらして意訳したり、新しい単語を作ったり、注釈を加えたりすることがあります。ところが他方で、そう言う余計な作業は翻訳の過程ですべきでなく読書が迷うか理解に苦労するとしても、その解決は読書に任せればよいとの考えがあります。
このどちらの方法にも正統性がありますが、それぞれの考えに基づいて出来上がったものは、全く異なる結果となります。ではどちらが正確なのか?たぶんどちらの翻訳者も正確だと言うでしょう。
では末日聖徒の信仰箇条で言うところの『正確に翻訳されているかぎり聖書を信じる』の『正確に翻訳』とは何なのか?そもそも末日聖徒が聖書にこうした条件をつけるのは『翻訳』ミスがあると本気で思っているのか?
改宗当時は無批判に信じていましたが、学ぶほどにこの奇妙な言い回しに苦笑することがあります。
>聖餐会のお話で翻訳の話をさせていただき文語訳を朗読したことも。
>正統派では古い訳も販売していますからモルモンも是非販売して欲しいです。
>著作権が切れているから勝手に販売しても良いのかも。
著作権が切れてパブリックドメインになった文章は、聖書であれ誰が何をしても自由なんですよ。
ネットにアップするのも自由だし、自分たちで朗読した音声をユーチューブに流すもよし、(古物販売許可を受けたならば)聖書を中古で仕入れたり、自分たちでコピーして印刷したものを、マージン載せて転売しても違法でもなく、本当に全然かまわないのです。
教会組織を利用して売ったら怒られるというだけです。
いやわれわれが、慣れっこになって気づかないけれども、キリスト教なんてものは、誰か指導者に指導されてああせいこうせい、と言われたりするものではないのだから、正常化プランの第一弾として、自分なりの善を好きにやってよろしいというのも、十分に評価できるものかと思われます。
牧師(ビショップリック)が生まれた歴史を考えてみればわかるけれども、ああせいこうせいという指導が目的ではなくて、地元で発生する信者同士のトラブルを円満に解決する目的だったはずですよね。
>ある書物を他言語に『正確に翻訳』って、実際問題として可能な作業だと思うか
可能だと思います。・・翻訳には直訳的なものから、等価の範囲を広く取る意訳的なものまで幅があります。目的や翻訳者の考え方などによって異なってきます。それで、仰るように名著の訳が幾種類かあっても正確、不正確といった評価はあまりみかけません。
ジョセフ・スミスが言う「正確」というのは、普通に使われるのとは違った意味のように思われます。私はおそらく「神の力によってもたらされた、確かなもの」と彼が感じて言った言葉なのではないだろうか、と思っています。
それはプラントは言わない。(笑)
>ある書物を他言語に『正確に翻訳』って、実際問題として可能な作業だと思われますか?
横からすみません。
ウリムとトリムとか、改訳器とかを使えば可能かと思います。
モルモン書は完全な書物ですからーーー!!
それはまあその通りで、要するにキリストの福音にあって喜びを見出せる行動ならば、何をやってもかまわないってことでしょう。
そう言うヒトの精神構造には非常に関心があります。まぁ単に精神的に未熟なだけだったりしますが。
ところでNJさんにお訊ねしたいのてすが、ある書物を他言語に『正確に翻訳』って、実際問題として可能な作業だと思われますか?
ジョセフ・スミスはそれをしたと言ってますが?
例えば英語の Good morning は「良い朝ですね」とすべきか、「おはよう」とすべきか、Tank you は「感謝します」か「ありがとう」なのか? おそらく、文脈を考えて判断するとか、どちらでもいいとか回答されると思います。
過去の有名著書では複数の翻訳者の手によるものがあったりしますが、それって『正確』かどうかとは捉えないでしょう?
外国語を学べば学ぶほど『正確な翻訳』と言う言葉の奇妙さを感ぜずにはいられません。勿論、誤訳の有無と言う観点はありますよ。しかしモルモン教会の『正確な翻訳』はそう言う意味ではないですよね。
これはNJさんがどう考えておられるのか前から聞いてみたかったことなのです。
>まぁ、それはモルモン会員が不勉強すぎるんちゃいますのん?
それは、スタートが同じ地点の場合です。
例えば、モルモン書は英語の方が理解しやすいから、と言っても、英語の分からない人には読めないでしょ?
文語体も、それなりに勉強した人なら理解できますが、そうでない人にはまず、文章が理解できない。
最近はお経でも一般の話し言葉でわかりやすくなってるようですよ。
>あのエリアプランのアニメ化はまあ評価できるかな。
私は、「アニメにしても、理解しがたい事には変わりがないな~」と感じました。(上に書いてることと矛盾しますが 笑)
一体何がしたいのか?地域幹部の意図がよく分からないですね。(たぶん、豚だからでしょうけどね)
ただし、せっかく自発的に出たユニークなアイデアを、相変わらずあれダメ、これダメと頭から家長がつぶしてまわってる点で、日本モルモンがいまひとつ成長できない理由を絵に書いたような作品に終わってしまって残念であった。
猫を愛するというアイデアが想定外であり規格外なのは明らかであっても、理由を聞いて対象を広げて肯定的に動機を探れば容易に、キリストの隣人愛に到達できるだろうから、単純に否定してしまって終わりではもったいなく、日本人信者の実態がそのまんまに結局メディアを変えてみただけだったな、という後味の悪さだけが残ってしまいました。
アメリカ人モルモンのお父さんにも(あれダメこれダメいうタイプはいるけれども)、平均的にたいがいのお父さんはそのへんの機転や柔軟性は、うまいものがあるので、本気で現状から発展したければ、謙遜に学ぶべきでしょうね。
まぁ、それはモルモン会員が不勉強すぎるんちゃいますのん?
いくら分かり易い文体にしても不勉強は補えないと思います、あ、勿論ややこしい事柄たくさん覚えないと理解できない聖典と言うのもよろしくありませんが。
もうモルモン聖典は漫画でエエかもですね。
いや、もっと今風に『スマホゲームで読むモルモン書』とか?
私が手にした最初の教義と聖約も文語体で、読みにくいし、理解しにくい。
はたして、今聖典を文語体にしたら、どれだけの人が理解できるか?
上にも書きましたが、二重否定三重否定が多くて「どっちやねん!!」と言いたくなるようでした。
個人的には、単純で肩が凝らないのが良いです!
エリアプランも漫画に成ってるぐらいですからね(笑)
一読しただけでは首を傾げることもありましょう。
聖典を人生のトラブル対症マニュアルとして考えれば、平易で明快な文体が好ましいです。しかしながら宗教上の聖典は、何度も読み返し、学び、暗証し、やがてその人の思想や行動のベースとなり、いずれは信者たちが何らかの文化を形成していくだろうと思います。
そうした流れの源泉となるべき書物の文体としてはどうかな、と私は考えます。多分に個人的な好みの問題ではありますが、文語体の聖書は格調高いです。
モルモン書の文語体は読んだことがないのでどうかは知りませんが、そもそもモルモン書においては意味が分かりやすいかどうかなんて些末な問題でしょ?だって同じ聖典から僅か数十年でまるっきり逆の解釈を言い出す人たちが・・・おっと、これ以上はやめときましょう。
生田長江は若いころから、無教会主義の内村鑑三の書籍を読み、ユニバーサル教会(原理的三位一体と対極である三位三体よりの宗教観の教会)からバプテスマを受けており、聖書の異稿を収集するなどして、クリスチャンとして聖書に親しんでいたという裏事情があったようです。
彼の家は与謝野鉄幹夫妻の隣であり、与謝野晶子に英語を教え、成美女学校の英語教師になるなどしている。
そのせいか典型的な男性社会であった戦前の日本で彼は女性の人権についてまじめに考えており、女性の人権と対極であると世間で揶揄されている一夫多妻主義の歴史を持つ教会の宣教師に興味を引かれたであろう。
彼はモルモン経の翻訳を完成させた後、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の翻訳に着手している。 主人公ツァラトゥストラは異教とされているゾロアスター教の司祭であり、その司祭が善人と悪人に関する哲学を語る形式である。彼がニーチェの翻訳に着手したのはその辺にあるものと思われる。
ニーチェの翻訳が終わると、マルクスの「資本主義」を翻訳し、次第に社会主義に傾倒していくようになる。
彼の到達した最終的な結論は、晩年近くに執筆した、「宗教至上」という著書で述べられていると思われる、読んだことがないので、(オムナイさんの方法にならって)図書館で勉強してみたいと思います。
しかして、世の者神の言葉を聞こうとするに、難解にては理解しえず、聖典を読みしも、理解せざるるなからん。
難しき言葉の聖典は、世の多くの人の理解を深めるに能わず、受け入れらるることなし。
聖典たるもの、容易に理解を得る事こそその使命と知るべし。
特に、過去の聖典にて使われし、多くの二重否定は万民に誤解を生まざる事なし。
聖典の難解なるは、世の人に聖職者の権威と特権を能うるにすぎず、万人の利益に有らずなり。
愚者はその言葉を難解にし、賢者は容易に理解しやすき言葉にて物事を語ると知る。
聖書も文語体が良いですね。
私はモルモン教会伝統の『正確な翻訳』と言う観点には反対、と言うか少しでも外国語を学んだら、そんなことは無理って解ると思いますけどねぇ。
手に入れようと神田を古本巡りしましたが手に入らず、国会図書館へ。
(モルモンフォーラムの記事もこの時コピーしました^^)
その後ネットで2点、もらったのが2点と集まってます。
そのうち1点は初版本、1点は珍品で小サイズのモルモン經。
聖餐会のお話で翻訳の話をさせていただき文語訳を朗読したことも。
正統派では古い訳も販売していますからモルモンも是非販売して欲しいです。
著作権が切れているから勝手に販売しても良いのかも。