「多数の被害者」から「身近に感じる人々」へ
大規模なテロや途方もない自然災害で死傷者が多数
出ている昨今である。遠くで見知らぬ人々が被害に
遭うとき、私たちは気の毒に思い心を痛める。しか
し、時間の経過とともに人の記憶は薄らいでゆき、
ただ顔の見えない数字で捉えるようになり勝ちであ
る。
私は広島の原爆の被害について、かつて二人の被爆
者にインタビューした。また、広島に移り住んで、
身近に被爆者や被爆二世を知るようになった。その
人たちから、また語り部から話しを聞くようになっ
て、よく爆心地からそんなに近いところにいて生き
延びることができたものだと、驚き、彼らが生かさ
れてきたことの意義をかみしめることが何度もあっ
た。それは、テレビで放映される番組でも同じであ
った。私が考えるに、原爆が炸裂する前の個人の生
活を知り(これは亡くなった人たちのも含めて)、
またあの恐ろしい核爆弾をくぐりぬけて生き延びた
被爆者の、奇跡のような運命というか生命力を目の
当たりにして、私にとって(また多くの日本人にと
って)広島の原爆の被害者はもはや決して数字で表
わされる顔のない「多数の被害者」(数字)ではな
く、顔の見える「身近に感じる人々」(感情移入で
きる対象)になっている。
最近8月29日テレビドラマで見た「広島昭和20年8
月6日」という題の三姉妹の物語も登場人物を身近
に引き寄せるものであった。生き延びた弟役を演じ
る語り部の西田敏行が「あんな恐ろしい魔物を、人
々の頭上に落とすということはあっちゃならないこ
とだ」と嗚咽のうちに結んだ。私はその言葉に固く
頷いた。
人は犠牲者やその遺族の話を直接(またはメディア
を通してでも)聞くとき、「多数の死傷者」は「身
近な個人」の集まりに変わっていく。私にとって最
も重要なそのような例は広島の原爆投下という人類
が犯した残虐行為 (atrocity)である。
(同じことがどんな災難や残虐行為の被害者につい
ても言えることは承知している。東チモールの活動
家が昔山口県にアムネスティの招きで来た。韓国か
ら慰安婦であった老婦人が日本各地に招かれその証
言も聞いた。パレスチナ人の苦境も耳にした。アフ
リカの諸紛争、ボスニア・ヘルツエゴビナでの民族
浄化の激しい憎悪と戦闘など枚挙に暇がない。人類
は如何にも愚かな、どうしようもない面 [DNA] を
持っているのだろうか。)
大規模なテロや途方もない自然災害で死傷者が多数
出ている昨今である。遠くで見知らぬ人々が被害に
遭うとき、私たちは気の毒に思い心を痛める。しか
し、時間の経過とともに人の記憶は薄らいでゆき、
ただ顔の見えない数字で捉えるようになり勝ちであ
る。
私は広島の原爆の被害について、かつて二人の被爆
者にインタビューした。また、広島に移り住んで、
身近に被爆者や被爆二世を知るようになった。その
人たちから、また語り部から話しを聞くようになっ
て、よく爆心地からそんなに近いところにいて生き
延びることができたものだと、驚き、彼らが生かさ
れてきたことの意義をかみしめることが何度もあっ
た。それは、テレビで放映される番組でも同じであ
った。私が考えるに、原爆が炸裂する前の個人の生
活を知り(これは亡くなった人たちのも含めて)、
またあの恐ろしい核爆弾をくぐりぬけて生き延びた
被爆者の、奇跡のような運命というか生命力を目の
当たりにして、私にとって(また多くの日本人にと
って)広島の原爆の被害者はもはや決して数字で表
わされる顔のない「多数の被害者」(数字)ではな
く、顔の見える「身近に感じる人々」(感情移入で
きる対象)になっている。
最近8月29日テレビドラマで見た「広島昭和20年8
月6日」という題の三姉妹の物語も登場人物を身近
に引き寄せるものであった。生き延びた弟役を演じ
る語り部の西田敏行が「あんな恐ろしい魔物を、人
々の頭上に落とすということはあっちゃならないこ
とだ」と嗚咽のうちに結んだ。私はその言葉に固く
頷いた。
人は犠牲者やその遺族の話を直接(またはメディア
を通してでも)聞くとき、「多数の死傷者」は「身
近な個人」の集まりに変わっていく。私にとって最
も重要なそのような例は広島の原爆投下という人類
が犯した残虐行為 (atrocity)である。
(同じことがどんな災難や残虐行為の被害者につい
ても言えることは承知している。東チモールの活動
家が昔山口県にアムネスティの招きで来た。韓国か
ら慰安婦であった老婦人が日本各地に招かれその証
言も聞いた。パレスチナ人の苦境も耳にした。アフ
リカの諸紛争、ボスニア・ヘルツエゴビナでの民族
浄化の激しい憎悪と戦闘など枚挙に暇がない。人類
は如何にも愚かな、どうしようもない面 [DNA] を
持っているのだろうか。)
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DUによる被害は、米兵、英兵にも及んでいることが伝えられています。自衛隊員に及ぶ可能性も皆無とは言えません。流言蜚語には極力注意しなければなりませんが・・
同じく北朝鮮の人民も弾圧されています。生存権さえありません。餓死か収容所での粛清か脱北してつかまるか、の選択しかありません。
ロシアの対チェチェン軍事攻勢も激しいものがあった
ようです。
北朝鮮の状況についてもドキュメンタリー番組や報道
に注目しています。
ベトナム戦争でアメリカは北爆で多くのベトナム人を爆死させました。また枯葉剤も撒きました。ベトちゃん、ドクちゃんはその犠牲者です。一方でソ連は北ベトナムに武器援助をしていたのです。アメリカ軍のソンミ村虐殺事件が大々的に報道されましたが、あれと同じことをベトコンもやっていたことは知られていません。そして四者和平協定が結ばれたのに北ベトナムは侵略を再開し、ついにサイゴンは陥落されました。
常に戦争では弱者が犠牲になります。
人間の歴史は戦争の歴史でもあります。
モルモン書のなかに、武器を土の中に埋めた、という記述がありますが、世界中の国々が武器を捨てたら...夢の又夢でしょうか。
1丁の銃が100人の兵隊の代わりになる、と彼は言っていたそうです。
今まで私の知っているモルモンのアメリカ人宣教師で「ベトちゃん、ドクちゃん」を知っている人は一人もいませんでした。
そんな話は聞いたことが無い、本当ならアメリカで報じられているはずだ、と彼らは言ってました。
これはアメリカが「子供たちに栄光のある祖国の歴史」を教えてきた結果なのではないでしょうか? 日本は決してそうなって欲しくは無いものです。
報道しなければならなかったのは当然です。
でも、このことでアメリカの全体を観たくありません。像の排泄した糞をみて「これが像だ」と観る様なものです。
報道できなかったならば、あとから証拠を示して報道すればいいかも知れません。ほかにも正す方法はあるでしょう。
このことのためにアメリカを「闇の帝国」がごときに分析するのは荒唐無稽ですね。
いずれにしても感情的になってすべてそうだというのは議論や思考の停止につながります。
日本での教育は、今バランスのとれた教科書が現れています。決して軍国主義や過去の戦争を賛美などしていません。きちんと戦争の事実を書いています。
感情的になるのは思考停止につながるというのはそうかもしれませんが、「噴飯もの」という言葉を多用された書き込みからは、大変感情的になっているなぁと言う印象を受けてしまいます。
バランスのとれた教科書とは何のことか不明ですが、事実を正しく伝えていることが大切でしょう。
それが残念ながら現在でも現実でしょう。しかし、戦争にも戦争法や国際法の制約があることを考えるべきではないでしょうか。そういうことは起こってしまう、仕方がない、という言い方は乱暴に聞こえます。
それから「帝国」という表現は、現在のアメリカに用いられる場合、領土拡大や昔の姿の帝国でなく、軍事力や経済力などを駆使して、世界の警察よろしく傍若無人に振舞うかの国を比喩的に指すわけです。
全くそのとおりです。仕方がないことが起こる前にあらゆる努力をすべきです。何の罪もない婦女子、市民が殺戮されるのは敵も味方もあってはならないことです。
でも、ある日突然、起きる侵略には、前もってあらゆる努力ができません。そのときには既に理不尽な殺戮が起きてしまっています。
それ以上の殺戮を阻止するには、その瞬間瞬間には、反撃という選択肢しかないと思います。残念なことですが。そこには神学論争や仏法を説いているゆとりはありません。
<それから「帝国」という表現は、現在のアメリカに用いられる場合、領土拡大や昔の姿の帝国でなく、軍事力や経済力などを駆使して、世界の警察よろしく傍若無人に振舞うかの国を比喩的に指すわけです。>
言わんとしておられることは分かります。それならば、昔のソ連、東ドイツ、現在の北朝鮮は、それ以上ですね。自国民に対しても傍若無人に弾圧していましたからね。
そういう事実をバランスよく、表現したいものですね。
でないと、単なる「反米」と、とらえられてしまいます。
そこで、私も社会主義圏の独裁の暴虐を糾弾する一方で、アメリカの一部の暴虐をも糾弾します。原爆投下などはその例です。
塾長も、是非、そういう議論の仕方に変えられることをお勧めします。一体、何を正したいのか分からない部分が多々ありますので。
数年前に現れた教科書です。事実を、あることないことを避けて、正しく伝えています。まだ、十分な分析や断定も済んでいない「南京事件」については、「疑問の部分がある」というような表現ですね。慰安婦強制連行についても、既に虚構と判明しているのに、事実とばかりに他の教科書では書いていますが、この教科書は事実を書いています。
そして拉致問題については真っ先に書きました。
ですから「事実」という部分では一番の教科書です。安心ですね。
そして何よりも、日本に誇りを持てる教科書です。
日本に誇りをもてない教科書で教えられて子供たちはどんな大人になるでしょうか?