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暫く前からイエスが自分のことを「人の子」と称しているのを読んで、一体どんな意味なのだろうかと思っていた。ここで少し調べてきたことをまとめておきたい。
まず、言葉の意味は文字通り「ひとりの人」くらいの意味である。しかし、福音書を読んでいくと、何かそれ以上の意味が含まれていることがすぐ分かる。例えば、マタイ10:23では将来の来るべき「人の子」について述べられている。福音書に80回以上イエス自身が用いた言葉として現れ、それ以外には使徒行伝と黙示録に計3度出てくるだけである。
この表現が気になっていたのは、ダニエル書7章に同じ言葉が出てくるのと、旧約聖書外典のエチオピア語エノク書に6か所出てくることである。紀元前2世紀中ごろに書かれたダニエル書では、終末論的な人物として「人の子(のような者)」が幻の中に現れるのが描かれている。エノク書の方では黙示思想の特徴であるが、天的な終末的審判者ないし救済者が「人の子」として表現されている。これらの先行する用法や伝統がイエスの用いた「人の子」という表現に受け継がれていった可能性が高い。ユニオン神学校のフラー教授[1960年代当時]は言葉を換えて、「人の子は審判者及び救済者として神のために働く者として先在した存在」で、紀元前のユダヤ黙示文学に登場していたと述べる。
このような背景を知って福音書を読む時、慣れない聖書用語の難しい印象が軽減されることになる。あるカトリックの研究者ケレスズティ(Roch A. Kereszty)はさらに次のように、イエスの用法を分類できると見ている。
1. 一般的・総称的な「人」、「死すべきこの世の人」を指す場合がある。遠回しな一人称「私」。
2. 第二イザヤの「僕」がダニエル7:14につながっていくもの。拒まれ、苦しみに遭う「人の子」がこれに該当する。マルコ10:45など。
3. ダニエル7:14と詩篇110:1の「神の右の座につく」主が結びつくもの。マルコ13:26など。
参考にした資料:
・Reginald H. Fuller, “The Foundations of New Testament Christology.” Collins, 1965
・岩波書店「福音書」1996年
・岩波書店「新約聖書」2004年
・http://www.slideshare.net/BibleAlive/bible-alive-jesus-christ-011-the-mystery-of-christ-in-the-apostolic-church 「人の子」についての優れたレジメ. Keresztyを含む
・G.N.スタントン、松永希久夫監訳「福音書とイエス」ヨルダン書 1988年
・Obert C. Tanner, Lewis M. Rogers, Sterling M. McMurrin, “Toward Understanding The New Testament.” Signature Books, 1990
✐ 「人の子」、英語 the Son of Man
...............ギリシャ語 ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου
...............ヘブライ語 בן–אדם, ben-'adam
確か壷から発見されたクムラン文書群の多くがエッセネ派のものであり、そこにエノク書(の断片)が含まれていたのと、バプテスマのヨハネが属していたのがエッセネ派だったし、イエスはエッセネ派の教義をベースにしかし、アーミッシュのような方向にはノーという立場をとっていた可能性はあったのかも知れませんね。
マタイの福音書にはこうありますよね。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。
バプテスマのヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々に「蝮の子ら」と呼んでおり、イエスもまた「蝮の子ら」という言葉を使ったようだ。