これに先立つ記事に厳しいコメントが寄せられた。この引用はそれに答えるものである。訳は私の試訳である。The blessing of diversity (Genesis 9:16)というもので、Many voices. org に掲載されていた。
[画像の文 「長く生きれば人生は美しくなる。美を無視するなら、自ら美を放棄するなり。F.L.Wright」]
--- --- 以下引用 --- ---
「人が持つ美と賜を真に見抜くことは深淵な霊的経験である。信仰が増し加わって明晰な視点が得られんことを。」
めぐみ深く慈悲に満ち、生命の創造主なる神、
あなたは目をとめられる。
多様性のうちに美しく映える人々を
ひとりびとり。
その違いが文化、年齢、性差、
性向、国籍、人種、信条、その他いずれであれ。
それらの実態が刷新され、
聖化され、
さまざまな祝福、平和と相互理解を
もたらす手立てとならんことを。
人々をあるがままに尊重し
人々に対して寛容であり
人々の表現の発露を受容する建設的な心があれば、
神が洪水後天にかけられた虹が
象徴する如く、
わたしたちは新しい契約の夜明けに
手引きされるであろう。
ポール・ルイエ作
[美しい世界は人々の多様な手の内にある]
original
The blessing of diversity (Genesis 9:16)
Truly seeing the beauty and gift of each person is profoundly spiritual. May our faith increase to have clear sight.
"Gracious and merciful God, Creator and Author of Life":
you see people as persons,
beautiful in their diversity
whether it be cultural, age, gender,
sexuality, nationality, race, creed, or other.
"We pray that these realities may be lifted up"
and made holy
that they will become channels of blessings
peace and understanding.
"A positive spirit to respect others for who they are"
and to be forbearing towards others
and their self-expressions
will bring us closer to the dawning
of the new covenant symbolized by God’s
setting a rainbow in the heavens after the flood.
"We pray this in the name of Jesus the Christ."
"Amen."
Contributed by Paul Louie
http://www.manyvoices.org/blog/resource/the-ble...
--- --- 引用終わり --- ---
詩の翻訳は難しい、文字通り拙訳になってしまった。
[補] 多様性の意義について、渡辺明元岡山ステーキ部長が優れた見解を述べている。1992年「岡山ステーキ部史」第二部, p. 120, 「不等点の意義」。
もし意図的に、誤訳が行われれば、そのまま信じてしまうわけです。
誤訳じゃなくても、誤解しやすい言葉に成っていることも有るようです。
英語力ゼロのブタが書くことですから、真偽のほどは不明ですが。
最近よくニュースで聞かれる「TPP」と言う言葉ですが、報道機関では政府が使っている日本語の「環太平洋パートナーシップ協定」と表記されています。
しかし、ある意見では、「TPP”は、“Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement”の略であり、正しく日本語に翻訳すれば、“環太平洋戦略的経済連携協定”となる。」
らしいです。
そんなの、どちらでもそう違ってないでしょ?って言う声もありそうですが、なんで、「戦略的」って言葉が消えてしまったのかな?って疑問が残りますね。
こんな事例は外交文章ではよくあることらしくて、同じ協定文章なのに、互いの国民は別の意味に解釈している。て事が有るようです。
モルモン教会の聖典も、少しづつ変わってきているようですしね。
新聞と同じで、各紙読み比べて、最後は自分で判断するしかないのでしょうね。
「完全な」と「もっとも正確な」は、違うと思うんですけど。
ま、初めから、完全だとは思ってなかったですけどね。(笑)
契約の虹が多様性を象徴していたとは!新たな視点が開かれました。
7色とか6色と言われる虹も実は無限のグラデーション。
しかも、人間の目では識別できない紫外線も赤外線も含まれています。
昨今話題のLEDで作られた白色光をプリズムを通してスペクトルを見るとかなり歪です。
逆に言えば「自然な白色光」を作り難い。
モルモンもまだまだ純粋な白ではないのでしょう。
もっと多くの色を混ぜてこそ太陽光のように輝くのだと思います。
1コリント12
ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。
目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要
そういうこと言う人って、自分の決意表明をしてるんじゃないんだよね
周りの人にそうさせたいから言ってるだけなんだよなぁ
というのはもちろん違いますよね。
これは多様性なの?悪口雑言なの?
それと上記のような考え方が間違っているから、そんな出来事はないよ、デタラメだよ、信じちゃダメよって伝えることは破門の対象になるの?
答えてよ、知的モルモンの皆さん!
私の考えでは、多様性でも悪口雑言どちらでもないと思います。
それは「背教」とは、末日聖徒にとって、福音の回復の根本的な“教義、教理”だからです。これなくしては、教会が組織する意味が無くなってしまうからと言えるでしょう。(福音の原則第16章、第17章参照)
そして、背教と福音の回復があることで“末日聖徒”と“伝統的(聖書的)キリスト教会”との和解がないと神父さんや牧師さんの中でよく言われていることがありますね。
私は、NJさんが、アイデンティティ・ポリティクスの傾向があるのかなと感じています。
確固としたアイデンティティーを持っていないと、やれやれさんが経験したような指導者のように、八方美人や二枚舌のようなことになってしまいますし、その逆に強すぎると、鈴木さんのような律法主義的と言いますか、閉鎖的と言えばいいのか、そういう風になってしまうことがあります。
さて、後者の質問ですが、私の場合、そのような立場になったことがありませんので、コメントをお控えさせてもらいます。
数日前にIS(イスラム国)が遺跡や博物館の所蔵物を破壊したことがニュースになっていましたが、旧約聖書を読んで居る人なら、それを正当化する論理をすぐに理解できるはずです。
異教の神を信じるものは、殺されて当然と言う表現がいくつも出てきます。
「唯一神信仰とは、そう言うものなのだ」とまず理解すべきです。
部族宗教の段階ではそれはそれで正当化できたのだと考えます。
しかし、時が過ぎ時代が変わった現代では、その信仰的思考は、人間社会の幸福の妨げになる、と豚は思う。
イエスも、ユダヤ教の教えをそのまま広めたわけではない。神がモーセに授けた律法を旧来の解釈のまま世に広めたのではなく、部族宗教から世界宗教へと移行する中で、教義や教義解釈を変えたからこそ、他の地域の人にも受け入れられたのだと思う。
バナナもミカンも、皮を含めて、バナナでありミカンだと認められる。しかし、バナナの皮やミカンの皮を食べる人はほとんど居ない。
まずい皮ははぎとって捨てれば良い。美味しい中身だけ食べれば良いのだ!と豚は思う。
ま、剥きにくいとは思いますけどね。
それが無くなると存在価値がなくなるようなモルモン教会なら、消えて無くなれば良いんじゃないですか?
ビジネスの世界で例を挙げると、「富士フィルム」と言う会社が有る。デジカメ全盛の今、フィルムなんて売れるわけがない。しかしこの会社は上場企業として生き残っている、それどころか、最近の話題では、エボラ熱に効きそうな抗ウイルス薬を開発していることで、注目を集めた。
もしこの会社が「我が社はフィルムを作るのが本業でずっとそれを中心に営業する」としていたら、とっくに倒産していたことでしょう。
豚は、モルモン教会も、くだらない事に固執しない方が良いと思っています。
知的モルモンと自称している連中ですが
彼らは一種の歴史修正主義者でありまして、真実探求の敵対者だと思います
きちんと事実に目を向け、教会と幹部が責任を果たさないのであれば、モルモン教会などなくなってしまったほうがいいと思います
私にとって新しい言葉でしたので、調べてみました。
identity politics は「社会的不公正の犠牲になっているジェンダー、人種、民族、性的指向、障害などの特定のアイデンティティに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動」を言う。
ただ、「社会的に抑圧されているアイデンティティ集団に属する人々は・・個々のアイデンティティ集団に特有の問題は基本的に自分たちの手で解決すべきである」ともありました。(ウイキペディア)
確かにその傾向があることは、承知していますが、ただ、活動とまではいっていないのが現状かと思います。
日本語では「判官贔屓」って言うんじゃないですか?
青菜が好きかもしれない(笑)
>そんな排他的なことは言ってない、全ては
>会員達の誤解なのだ」などと言うデタラメ
>を落とし処にしようという人達がいるワケ
>でして・・・
>知的モルモンと自称している連中ですが
あれ、知的モルモンってそんな定義でしたっけ。 歴史的資料を縦横に分析して神に召された大管長でさえ、時代の中では完璧ではないよねと確認する集団のはずではないの?
ミカンやバナナの譬は素晴らしいですが、
私は、あえて豚を譬にします。豚の腸の皮はソーセージに利用され、また豚の皮はスエードとして使うことができます。しかしながら、バナナやミカンの皮だって飼料に使えるのです。食べなくでも、別の何かに貢献できるのです。
豚は役に立っているのです。豚さんこそ、「判官贔屓」です。思いやりがある、頭がいい、そして、顔がイケメン、見たことはないけどね。
さて、ISの話がありましたが、私から言わさせていただければ、イスラム教の教えを自分たちに都合のよく、勝手な解釈する人たちと、そう考えています。
イスラム教自体、偶像礼拝だからといって、文化財を破壊することはありません。そういうことが、コーランに書いてあったはず。
私は、この末日聖徒だけではなく、他の宗教もそうですが、誤った解釈や勝手な解釈する人がいるのです。そして、末日聖徒の中でも、そういった解釈で話す人がいます。
今回、背教に関してありましたが、私が、ワード宣教師だったころは、レッスンに参加した時には、“福音の原則”を使うようにしていました。誤った言葉や言葉足らずにして理解不足にならないように、必要に応じて使うようにしていました。また、宣教師のレッスンの時は、なるべく会員の方に参加してもらうようにとお願いすることがありました。
バプテスマを受けるにしても、ある程度と言いますか、正しく教えてからではないとならないからです。
UKさんの最新のコメントを読んで、1つ感じたことは、分からないこと素直に分かりませんと言うべきだなと感じました。
>ミカンやバナナの譬は素晴らしいですが、
この話は、日曜学校の先生から聞いた話のアレンジです。
師曰く
「みなさんは、ミカンを食べるときに、美味しくない皮は捨てて美味しい実だけを食べるのに、どうして人間を見るときに、皮ばかり見るのでしょう」
確かに、他人を見るときは、よい点より欠点の方を見てしまいますね。
本題
>私は、豚さんとか違って、“回復された真理”を時代の流れで変えていくのでしたら、それこそ、末日聖徒の教義、教理の意味が無くなってしまうので、もし変えていくなら、教会自体“廃教”したほうがよろしいでしょう。
確かにそれが正論です。
そしてその正論につくなら、私はとっくの昔にモルモンを背教しています。
私の場合、名前を付けるとしたら、「隠れ背教者」ですね。
私は、ジョセフスミスが神と会ったという確信を持っていませんし、イエスが神の子であるという信仰も有りません。この事は、以前に教会の聖餐会で表明しています。
しかし、だからと言って、教会を離れるつもりは有りません。今になって思うと、元々改宗の時に、ジョセフスミスの見神も、半信半疑で、唯一真実の教会と確信したわけでもなかったので。
そういう状態で入会しましたが、その後教会で過ごした時間が無意味かと考えると、あながちそうとも思えなくて、そのまま居座っています。
人が、その集団に属するには、色々な経緯や思いが有っての事でしょう。
初期のモルモンの開拓者たちも、全員が「唯一真の教会」を信じていたわけではないと思います。ある人は、家族の為、ある人は、アメリカへの移住の手段として、モルモン教徒の群れに入って居たのではないでしょうか?たまたま、その工程の中で命を落とした人を、今の私たちは、殉教者として持ち上げますが、私には、全員がそうであったとは思えません。それは、経験的に、そんな集団は存在しないことを知っているからです。
イエスと一緒に行動した使徒の中にも「ユダ」が存在しました。裏切者として語られますが、すこしばかり、イエスとその集団の考えと違っていただけかもしれません。
アダムとイブの話、ノアの箱舟の話、バベルの塔の話、モーセが紅海の水を分けた話、さらには、イエスが死者を生き返らせた話、その様な話を、作り話と考えながらも「クリスチャン」を続けている人は、世界中に億単位で存在するのではないでしょうか?
モルモン書を物語と思っているモルモンも居ても良いのではないでしょうか?
私は、モルモン書を「神からの啓示によって翻訳された、最も正確な書物」とは信じていません。しかし、ある部分を除いては、良い事が書いてあると思っています。
ま、豚がイケメンだと思うのは正しい信仰ですけど(笑)
そういうことを信じてるからキリスト教会から除外されているわけだけど、それをキリスト教会には愛がない、なんて怒ってる人はいてもいいの?
と・・いうのが悪口雑言ですね。
末日聖徒の信条や実情の理解も多様性があって、教会も多様性は強さです。的なお話もあるわけですが。
往々にして背教している方は正規分布の端の方に本来の教会の姿を見ているような気がします。
いわば虚構に対して嫌悪しているのかなと。
仮にそう言った方々の方針で教会が運営されていれば現在のモルモンは気にも止められない宗教になっていたでしょうね。
ところで有害物質の拡散は発生源の周りが高濃度で遠ざかるに従って加速度的に薄まります。
普通に平均したのでは正しい評価が出来ない。
いわゆる正規分布しないんですね。
それを求めるのに幾何標準というの平均方を使いますが、なんとこれ、経験による近似。まぁ一応理屈はあるようですが。
背教者の影響も幾何標準したほうが良さそう。
モルモンの将来は益々明るい感じがします。
この意見は多様性ということでm(__)m
>現在のモルモンは気にも止められない宗教になっていた
>でしょうね。
これは例えば「彼女が人気者なのは彼女が正しい人だからだ」という文章と同じですね。
全くの主観であり個人的な気持ちではあるけれど、客観的な事実が何もない、ということです。
「虚構に対して嫌悪している」というけれど、ご自分もまた虚構に対して好意を抱いているのです。
それが無理なら自分を変えるしかない。
多様性ですからね。
普通に平均化してみると実像より悪く評価しがちで嫌悪と好意の中間にはない。
「もし、他人を変えたいと思うなら、世の中全部を変えるしかない。それが無理なら自分を変えるしかない。」
の事ですか?
他人は変えようがないので、そのまま受け入れるしかない。そのまま受け入れられるようになるには、自分が変わるしかない。
と言った意味です。
話は変わりますが、先日テレビの経済番組で、「LGBTにビジネスチャンス」と言う特集が有りました。
日本でも6兆円規模の市場なのだそうです。
「その推計市場規模は……アメリカで約77兆円、イギリスで約7兆円、そして我が日本でも約6兆円で、世界全体では軽く100兆円を超えるとされる。今、世界のビジネス界でもっとも注目を集めているのが、LGBT市場なのである。」
http://president.jp/articles/-/12585
商売人ていうのはすごいですね!
宗教者が善だ悪だってくだらない議論をしている間に、商売人は、とっくに受け入れて、LGBTの方のニーズを調査して、顧客にしようとしているんですから。
一番多様性に富んでいるのは、商売人かもしれない?
むしろ変わるべきでしょう
でも変わる時には今までデタラメぶっこいてきた事の責任とらなきゃね
でもさ、教会にも幹部にも何ら責任はございません、全ては会員達の勘違いです~~~
なんて事言ってる連中がいますよね?そう自称知的モルモンですわ!
キリストが、私の罪をかぶってくださったので、私は、過去の罪に対して何の責任も取らずに済みました。
そう言うわけで、私には、過去の責任をとれと言う資格が有りません。
過去は水に流すというのも、解決を早める方法かと思います。
私が他人から受けた不当な扱いを全てゆるします、って
何を期待しているんでしょうね
本来、イエス・キリストの福音とは、主の教えによって、善い人になることですから、直ぐには変わることができないとしても、諦めず前に進む希望や勇気、そして周りからの愛や思いやり、励ましといったことで成長しあうことだと思います。
私も、その番組を視聴していましたが、豚さんと意見の違う部分はありますが、本来、宗教と商売は違います。だけど私が商売人であるならば、彼らのために必要な商品・サービスを提供しますが。それが多様性とはこういう意味があるのでは。また、イスラム教徒の方々のためにハラル食を提供することも、それは日本人から見たら多様性と言えますよね。
宗教を商売と同じ様にしてしまうなら、先の拙速伝道のようなことが起きるでしょう。ノルマという商売的伝道が起こってしまうでしょう。初期の時代と同じ様に完全だった福音を変えてしまうこともある。
私が知るかぎり、拙速伝道ではないのですが、2世の兄弟が言うには、ノルマみたいなものがあって、達成しないと色々と言われて、その兄弟は帰還して少したったら、教会を遠退いでしまったを私は知っています。
そうならないためにも、伝道会長は、宗教と商売は違うことを認識すべきです。
ビジネスは出した金に応じて物やサービスが提供されますが、宗教は、いくら金を出しても、物やサービスが提供されないことも有る。
提供されても死んだ後のと言う話で、何の保証も有りません。
さて、どちらが良心的なんでしょうか?(笑)
金も労力も充分出してるのですから、それに見合うだけの、幸福感とか、充実感とか、提供してほしいものです。
幸福感や充実感、達成感を求めるなら、
四国霊場歩き遍路が一番良いかも知れませんね。
歩いたことのある兄弟の話からですが。
それに多様性も増すことができるから。
神は人間を工場生産の規格品のようにお造りになったでしょうか?
陶器師が作った作品は、ひとつひとつ違います。そして、陶器師は作品それぞれに思い入れを持ち愛するのです。人間はそのように創造されました。そしてひとりひとりは神の理性と良心の雛型を与えられている、多様性の中でも神が期待しておられるように生きることができるために。
イエスは異質なものを排除されたでしょうか?
ハシディームは弟子に議論を奨励しました。より核心に近づかせるために。もし、弟子たちが自分から離れて行くならば、そのままになされました。「てめーら、勝手にせい!わからんちんめ!」という態度ではありません。お責めにはならなかったのです。それはなぜでしょうか?興味深くありませんか。
もしも、多様性が尊重されるなら、教会で「隠れ背教者」でいる必要性がありますか?
多様性を尊重する雰囲気はあるんです。でも、異質なものを発見するやいなや、矯正や非難など非寛容が始まる。
イエスの教えはとてもシンプルです。人に自由を与えるものです。
もし、キリストだけを求めているのなら、その人は魂に自由を味わっているはずです。
複雑にするからキリストが見えなくなって、おかしくなるのです。とマリアは思っています。