この画像と同じ写真が「啓示と翻訳第三巻」に「聖見者の石」として掲載・出版され、末日聖徒の知識層の間で話題になっている。これはジョセフ・スミスがモルモン書をこの世にもたらすに際して用いたとされている。教会が出してきた評論「モルモン書の翻訳」(2013/12/30) に沿う見方である。この度の写真と新刊の公開(8/4 S.E.スノー長老らが記者会見)について、エンサイン誌10月号で教会歴史事務所のR.E.ターリー歴史家補佐らが記事「聖見者ジョセフ・スミス」を掲載することになっている。この新刊「啓示と翻訳第三巻」は「ジョセフ・スミス文書企画」の11冊目の刊行で、モルモン書の「印刷業者の原稿」を掲載している。("Revelations and Translations: Volume 3, 11th publication of Joseph Smith Papers Project)
従来、古代の金属版を前にジョセフ・スミスが翻訳に取りかかっている挿絵が紹介されてきたが、上記「評論」の一つは彼が地中の遺失物(宝物)を探し当てるのに石の力を借りていて、後にスミスがその石を使ってモルモン書を翻訳したことを認めていた。その時の石がこれであると理解される。これがモルモン書翻訳に使われたことの説明として、ダニエル・ピーターソン、リチャード・ブッシュマンなどは、今日の i-phone のような小さい装置と考えればよい、という。しかし、このニュースは教会の識者の間でここ数日、大変な話題となっている。ある人はこんなイメージではないか、と厳しい見方をしている。
私としては、すでに既知の事柄であって、大騒ぎするほどのことでもない筈であるが、やはり遣る瀬無い気持ちを拭い去ることができない。
Source:
Mormon Church Releases photos of ‘seer stone’ used by founder Joseph Smith
参考
当ブログ 「公表されてきた『福音関連の評論』が一段落」の(3)モルモン書の翻訳
R.E.Turley and others, "Joseph the Seer" in Ensign October, 2015
まじかに見なければ分からないが、一見したところ天然の虎目石のように見えます。
多くの人は「スミスがこの石を使って翻訳していたことを認めた」との話は簡単に信じるのに、「ジョセフが金版から翻訳した」との話は複数の人により証言されているのになかなか信じようとはしない。
子供のころから「神様が地球を作られたの、お花や、動物も」とプライマリー教師から教えられ素直に信じていたのに、中学生くらいになると進化論を信じ始めるんですよね。進化論は間違いだと予言者も言っておりますし、そもそも聖典の記述とも合致しません。
なのに教会に来て聖餐を祝福し、スカウトやら教会の活動に参加し、BYUへの留学を計画していたりします。でも神が万物を創造したことを信じているかと言えば、進化論が正しいと思っているんですよねぇ・・・
面白いものだと思います。
モーセの杖と同じで、預言者の杖や石の内部にミラクルパワーがあるわけではなく、啓示を引き出す触媒のようなものに過ぎないと理解してるから。
100年前のJフィールディングスミス大管長は進化論を信じるなら教会を信じていないことになるなどと、極端なことを述べているが、それから科学は進歩してダーウィンの進化論自体が、細かく間違いは訂正されてきているわけですし、今の信者は進化をそこまで全否定必要がないと思われる。
現代の信仰生活に、進化論の受容がそれほど重要でないから現代の預言者は避けよ否定せよと教えないのです。
重要なのは生物学者の多くが生物が偶然ではないと発言している点であり、大管長の言わんとすることは、生物は純粋な偶然の積み重ねの結果ではなく、神の意思の現れであるということだけであって、現代の教会員はその点だけ抑えておれば、自然科学を受け入れても、なんら罪悪感なく模範的な会員と受け入れられています。
人間の努力でネズミの品種改良を何代重ねても別の生物が産まれないのは確かにそうだろうが、神の御心と神権が一致したならば、わけなく出来ることでしょう。
<聖見者の石>を<ウリムとトンミム>と同一視していた方もいるようですが、別物であることが理解されると思います。
石を帽子の中に入れて何が見えるのか判りませんが、
従来の翻訳スタイルとのギャップが大きすぎるので
翻訳という概念が変わってくる可能性もあります。
翻訳という作業はやはり元となる文章を目にすることが基本ですので、翻訳というより、石を覗いて浮かんでくる言葉を記録したのであれば、翻訳という言葉を当てはめてよいものか理解に苦しみます。
この作業からは<霊感によって意味を捉えたという表現>がしっくりくる気が致します。
この石を使って何割ぐらいの翻訳がなされたのか判りませんが、ほとんどの作業がこのような形であったとしたら、挿絵も替える必要がありますね。
誠実という言葉が重くのしかかってきます。
預言者にとっての必需品かどうかは判りませんが、石を覗いて導きを受けるという方法は<魔女の水晶玉>
と共通するイメージですので、教会外からどう受け止められるのでしょうね。
その当時から翻訳の様子を描いたイラストにはウリムとトンミムも描写されてなく、違和感を持っておりました。まぁしかしダビンチの有名な『最後の晩餐』も実際のイエスの時代の食事風景とは異なるわけですからね。
他のものと違い、この石は天使から授かったわけでもなく、箱の中に安置されたものでもなく、井戸掘りをしていて見つけたものというところが、特徴的です。
石を覗いてというのでは、どうしてもオカルトのイメージが付きまとうので、教会はそれを嫌って、ウリムとトミムを強調していたのかも知れません。
最終的にはジョセフスミスもアブラハム書の元パピルスを一目見てその場で翻訳してみせたそうですから、その頃には聖見者の石さえ必須でなくなっていたようですし。
現代の大管長は啓示を受けるのにこのような石は不要と思われます。
要は啓示を受ける為の媒体はジョセフが精神集中できればなんでも良かったんでしょうね。
どうもこの「聖見者の石」は啓示を受ける為の練習の効果があって金版を受けるずいぶん前から使用していたとか。
だとすると、金版を受けてから短期間で翻訳した奇跡にも疑いがかかるかも。
つまり、モルモン書の物語は数年かけてジョセスに啓示としてもたらされた可能性もあるかも。
モロナイの口伝とか。