いつの頃からか私は境界線を越えることに抵抗を覚えないようになってきたようだ。
もちろんある程度ということであるが、日本から外国へ、また他の言語の世界へ、lds(末日聖徒=モルモン教徒)である身で他のキリスト教会の世界へ、キリスト教の世界から他の宗教の世界へ入るのに割合い抵抗を覚えないで訪れることができる。
また、宗教的に保守的な人々にもリベラルなサークルにも接することができる。
背景には、自分にとって新しいもの、変わったものに興味があり、刺激や冒険、変化を求める自分がいることがあるのだろう。世界を見ようとしている。探求により視野が広がり、変貌(evolve, grow)してやまない自分が境界を越えることを可能にしているのかもしれない。
具体的には、外国語が少し使えることもあって、学生を引率してシアトルやオーストラリアへ、また韓国へ行った経験は楽しかった。現在中国ハルピンにいて楽しく暮らしている。将来中東のアラビア語世界へ行きたいという夢がある。ここ中国にいてプロテスタントの教会を訪れることが楽しみである。違和感なくひと時そこに溶け込んでいる。これまでに仏教(中国)やイスラム教(イスラエル、日本)、ヒンズー教(インド)の施設を訪れたこともあった。
ただ、社会の階層について言えば、大学や教会の運営に一部携わり、身近に見てきて、組織の行政、執行に理解を持つようになったものの、権力者層、富裕層とはごく表面的な接触、観察を越えて往来があるわけではない。これは低所得・貧困層とも同じである。ただ心情的には権力と縁遠い、一市民、底辺にある庶民の野党的視点が居心地がよい。階層という面ではほとんど境界線を越えることができていない。
「日付変更線を越えるように文学と歴史の境界線を越える私」 ドナルド・キーン氏
本文と関係がないが共感を覚えたので掲載させていただいた
「境界線を越えてはならないということはないと私も思う」(沼野)
もちろんある程度ということであるが、日本から外国へ、また他の言語の世界へ、lds(末日聖徒=モルモン教徒)である身で他のキリスト教会の世界へ、キリスト教の世界から他の宗教の世界へ入るのに割合い抵抗を覚えないで訪れることができる。
また、宗教的に保守的な人々にもリベラルなサークルにも接することができる。
背景には、自分にとって新しいもの、変わったものに興味があり、刺激や冒険、変化を求める自分がいることがあるのだろう。世界を見ようとしている。探求により視野が広がり、変貌(evolve, grow)してやまない自分が境界を越えることを可能にしているのかもしれない。
具体的には、外国語が少し使えることもあって、学生を引率してシアトルやオーストラリアへ、また韓国へ行った経験は楽しかった。現在中国ハルピンにいて楽しく暮らしている。将来中東のアラビア語世界へ行きたいという夢がある。ここ中国にいてプロテスタントの教会を訪れることが楽しみである。違和感なくひと時そこに溶け込んでいる。これまでに仏教(中国)やイスラム教(イスラエル、日本)、ヒンズー教(インド)の施設を訪れたこともあった。
ただ、社会の階層について言えば、大学や教会の運営に一部携わり、身近に見てきて、組織の行政、執行に理解を持つようになったものの、権力者層、富裕層とはごく表面的な接触、観察を越えて往来があるわけではない。これは低所得・貧困層とも同じである。ただ心情的には権力と縁遠い、一市民、底辺にある庶民の野党的視点が居心地がよい。階層という面ではほとんど境界線を越えることができていない。
「日付変更線を越えるように文学と歴史の境界線を越える私」 ドナルド・キーン氏
本文と関係がないが共感を覚えたので掲載させていただいた
「境界線を越えてはならないということはないと私も思う」(沼野)
中国の教会を訪問されたら歓迎されると思います。
あるいはせっかくの機会ですから中国語でも礼拝に参加されれば、観光の一部になり土産話にもなるのではありませんか。もちろん礼拝の気持ちも満たされると思います。