老人の真夏の昼の夢
「ふと気づく 開催したい イザヤ研」
コロナ禍後、来春か来年秋、東京かどこかでイザヤ書に関する研究会を開催できないものだろうか、と思案しています。あくまで目算でしかありませんが、実現できれば素晴らしいと思っています。フェイスブックではZoomでできないかという希望が出ています。
このようなアイデアが浮かんだのは、イザヤ書に関する本(邦訳)が今年5月に出版されたことや、フェイスブック上にイザヤ書について頻繁に投稿している人(lds)がいますので、時機到来かと感じたわけです。(以上、FBの二つのグループに投稿済)。
出版された本: アブラハム・ギレアディ著、下川健一訳「終りのことを初めから: イザヤが見た終末の示現とイザヤ書の翻訳文」
・時機到来と書いたもう一つの意味は、私に残された時間があまりない、ということです。早速、私なりにイザヤ書について書かれた資料のおさらいをしています。
[こんな本を画像の頁から見つけました]
[左の本に同じ、英語原本]
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教会に留まっている会員や信じている教会員を揶揄するような、意地悪に聞こえる表現は控えていただきたいと思います。
私が希望するのは、宗教社会学的なスタンスで、ある宗教の欠点や短所と見えることがあってもそれをあげつらうのではなく、客観的な表現で議論することです。
ここはlds教会の存在や所属教会員を全般的に肯定的に見た上で(暗黙の前提として)、意見交換や観察を行なう場としたいと思います。
アメリカのlds関連で言えば、ダイアログ誌やサンストーン誌、他のもっと新しいリベラルな出版社の論調を見ても、相手をやりこめるような物言いを見かけることはなく、きちんとしたメディアの節度は守っていると思います。
発言の自由は貴重ですが、発言の仕方にはマナーがあります。主宰者の意図やこのフォーラムの性格も尊重されねばなりません。
乳に浸して
戴きます
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>「ふと気づく 開催したい イザヤ研」
わー。素晴らしい!素晴らしい。小聖書!
パリオリンピック、大阪万博、イザヤ研。
楽しみと希望いっぱいの人生終盤になりそうです。
是非実現を。
>教会に留まっている会員や信じている教会員を揶揄するような、意地悪に聞こえる表現は控えていただきたいと思います。
承知して発言をしてきたつもりです。
私も、教会に留まっている会員の一人です。
>ある宗教の欠点や短所と見えることがあってもそれをあげつらうのではなく、客観的な表現で議論することです。
おっしゃる通りで、モルモンが言われて嫌なことを他の教会に言うべきではないと常々思います。私の他界した叔父がプロテスタントだったので、モルモン会員同士で他の教会について話題にするとき彼を想います。
私は「最初の示現」に記載された、他の教会に関する部分は今の時代では必要ないだろうと考えています。もし仮にその部分を削除したとしたら教会内外で大きな話題になるでしょうが、好意的に受け止められるのではないかと想像しています。
もし、そう言う意図があったとしても解釈変更でいけるんじゃないでしょうか。
個人的にはJS当時多くの教派がうちの教会が正しい、他は間違っている。という流れの中で
「どこが正しい?」という素朴な疑問の中で「全て正しくない」という天啓が降ったもので、その後のJSの他教会への寛容な態度はそれを示しています。
削除ではなく「モルモンは最初の示現で全てのキリスト教を正しくないと揶揄してますね?」と問われる時に肯定的に説明する知識を身につけて欲しいと思います。
一方、現代の思想にに照らせば相応しくない表現もモルモン書にはありますね。それは解釈変更で対応していくべきだと思います。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/26967/20141016155623736116/BRCTR_5_h13.pdf
ジョセフ・スミスの語りが『モルモン書』の物語の語り手の語りと重なってくる、もう一・つの例をあげよう。
第1ニーファイ1 3章と1 4章で、 ニーファイの見ている示現の中に現れる「悪魔の教会」の語られ方である。
この反キリストの教会は、あらゆる偽りの宗教一般を普遍的に意味したはずである。
宗派の違いに対して理解と寛容を示す現代の末日聖徒にとっては確かにそうでなければ困るはずだ。
そしておそらく ーファイ自身にとってはそうだった、と考える方がより原文の価値を高めると考えられるだろう。
ところが、マーク・D・トマス(Mark D- Thomas)が論じているように、
ジョセフ・スミスと1 9世紀初期の『モルモン書』の読者にとっては、
明らかに個別の、特定の教会を指す表現が使われて語られているように思われる。
ジョセフ。スミスが実際に生きた宗教世界は、議論の余地なくプロテスタントの福千年思想に支配された世界であり、
その思想的文脈の中では、反キリストとは、ローマ・カトリック教会を意味した。
そして、黙示録やその他の箇所に現れる「獣」や「娼婦の母」、「多くの水の中にすわっている大淫婦」(黙示録1 7章)は、
かなり明確にカトリック教会を意味し、ジョセフ・スミスが第1ニーファイ1 3章3 4節で
「また、あの娼婦の母であるあの忌まわしい教会が、小羊の福音の大変分かりやすくて尊い部分[を】差し止め」た、
('the most plain and precious parts of the gospel of the Lamb … have been kept back by that abominable church, which is the mother of harlots')と翻訳し、
同書1 4章1 1節でニーファイが「あの全地の淫婦を眺めてみると、彼女は多くの水の上に座を占め、
すべての国民、部族、国語の民、民族の中にあって全地を支配していた」('And it came to pass that I looked and beheld the whore of ail the earth, and she sat upon many waters; and she had domimon over Ⅱ the earth, among all nations, kindreds, tongues, and people. ,)と語るとき、
翻訳者ジョセフ・スミスと彼の同時代の末日聖徒の頭の中には、大背教の基であるカトリック教会が思い浮かべられていたことはほぼ間違いない。
トマスは、1 8 2 0年、3 0年代のアメリカへの大規模なカトリック教徒の移民が、
アメリカ1 9世紀初期の終末思想の中で反キリスト教会がカトリック教会と同一視される傾向を増長させたと指摘している。
少なくとも『モルモン書』初版出版時の末日聖徒たちにとって、
ニーファイの語りは、ジョセフ・スミスのプロテスタント目線の語りと重なっていたと考えられる。
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なので、日曜学校やセミナリーで「特定の教会を指すのではなく。。」と教えるのではなくそういった歴史も含めて教えて欲しいんですね。
「留守がちな 老人宅は 気が付けば
訪う(とう)客が 住民の如(ごと)」
いろいろ重要な話題(項目)が交わされていますが、それぞれに対応できないもどかしさを感じています。申し訳なく思っています。(目は通しています。)
(1)必要ない
・伝道活動の上でも他の教会との交流を考える上でも、この部分は障害になることはあれ、友好関係を損なう内容をはらんでいる。
・最初の示現をテーマにした伝道用フィルムで、何十年も前のものでも、最近のものでも、他の教会を非難する部分は表現されていない
・ヒンクレー大管長が、この部分を教会外の人に伝える必要はない、との発言がリアホナ(総大会?)であった(教会のライブラリーetcで確認とれず)。
(2)「一切関係ない」件との均衡
伝統的キリスト教会が「当教会はモルモンと一切関係ない」との表記をすることに憤慨する末日聖徒がいるのに、末日聖徒側がモルモン教義を顧みないとすれば、アンバランスとなること。
(3)ジョセフ・スミス・ペーパーズ
https://www.josephsmithpapers.org/articles/primary-accounts-of-first-vision-jpn#a1832
現在、ジョセフ・スミス歴史の最初の示現として知られている部分は、1938年に書かれたものであるが、その原型は1832年のジョセフ・スミスの日記。その中にも「彼らは福音からそれ,わたしの戒めに従わない。 彼らは唇をもってわたしに近づくが,その心はわたしから遠く離れている 」という部分は存在するが、それは他のキリスト教会を非難する内容ではない。どちらかと言えば、世の人はみな罪の中にいるという主旨である。
推測ですが、当時ジョセフの教会が拡大し既存のキリスト教会との対決姿勢を深める中で、教会の優位性の根拠を過去の神秘体験に求めた文書をジョセフが書いた、ということだと思います。現在では他のキリスト教会とそうする必要はなくなってきております。
こう書きますと、お前は預言者ジョセフを信じないのか?と詰問されそうですが、そもそも最初の示現の宗教的意義は、誰しもが個人的に神からの答えを受けられるという点である、との理解が私の信仰であります。彼の文書の一言一句を神からの絶対真理と受け止める立場を私は取っておりません。ですので、いや、末日聖徒ならそうすべきである、と求めてくる方がいたとしても、私には同意できかねるのです。
また、解釈の仕方でなんとかする、肯定的に説明する、という提案につきましてですが、アルビン・ダイヤー長老の「何の目的で」という文書が黒人への神権を禁じた理由を彼なりに肯定的に説明しようとして、完全に失敗しているという前例があります。副管長となる人物でさえそうなのですから。無理な理屈を作り出すよりも、多妻結婚や黒人への神権禁止と同様に、必要でなくなったものは捨てる、のが一番いいのではないかと考えます。
私とは意見が違いますが、ひとつのありかたかも知れませんね。
ニーファイはイザヤ書に「喜びを感じる」と書いていますが、
それこそインステやセミナリーの解釈を鵜呑みにしてきた感があります。
わたしの場合はイザヤ研に向けて恥をかかぬよう「予習」をしたいと思います。
紹介して頂いた書籍
『教会はイザヤ書をいかに解釈してきたか 七十人訳から現代まで』
クリスチャン新聞さんに書評がありました。
旧約聖書イザヤ書は新約につながる預言を多く含む。
キリスト教会では古来多くの注釈がほどこされ、預言の解釈法も多様だ。
本書はイザヤ書を具体例にした聖書解釈史の入門書。
著者は、時代をこえて一貫する解釈の方向性や「系統的類似」があるとして、
歴史的批判解釈、ポストモダン解釈の限界を指摘し、旧新約全巻についての正典的解釈を回復させていく。
単に「教条的」になるのではなく、聖書解釈の営みが聖書をとらえる「苦闘」の歴史であることが、
各時代や各神学者の解釈例から伝わってくる。
現代の教会にとって励みになるものだ。
その「感動」は、かつてまい進していた歴史批判研究から方向転換したという訳者のあとがきに現れている。
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もしかして私のことを言っておられます?
私も教会に集っている末日聖徒の一人ですよ(昨日は用事があっていけませんでしたが)。
プロト、デウトロ、トリトの問題があるのでイザヤ書は末日聖徒にとっては鬼門でしょう。これはほぼ常識レベルで学術的に広く浸透しており、長年この説に対してモルモン教会は学術的に回答する手段がありませんでした。
近年になって、イザヤ書の一貫性を信じるアブラハム・ギレアデの著書が評価を得ていることを受け、FAIRなどの護教主義グループは彼の説を利用して対抗しようとしているようです。しかし FAIR はギレアデの発表した説が、従来のモルモン指導者の説明とも異なっている点に関しては度外視しているように見受けられます。
どうしても私にはセプテンバー・シックスだった人物を護教のために再加入させたと見えてしまうのですね。いずれにしても、末日聖徒が本気でイザヤ書に取り組むのであれば、イザヤ書3部構成説とモルモン書の整合、そしてアブラハム・ギレアデは押さえておきたいところですね。
どのような説得力のある発表がなされるのか期待し、注目しています。