[改訂版 2021.04.01]
この「主は生けりと知る」という文について、私は「けり」という言葉が過去の助動詞で、正しい訳ではないのではないかという思いがありました。それでこの度、何冊かの辞典で調べ、インターネットで検索した結果、次のような結論を得ました。
古語「生く」の命令形「生け」+「り」(完了の助動詞終止形) → 「生けり」
結論は今の訳「主は生けりと知る」に日本語の問題はなく、「主は生きています」を意味することを確認できました。私の誤認識でご迷惑をおかけいたしました。
註、「り」には動作・状態が現に継続し進行していることを表す。「生け」が命令形であっても、直接に命令という機能にかかわりを持つわけではない。「生ける預言者」「生ける屍」など連体詞的な用法は今日でも見られる表現である。
参考にした資料:小学館「日本国語大辞典」13巻2002年,1巻 2006年。旺文社「古語辞典」。「広辞林」六版。
[改訂前] コメントを9件受けているので、元の掲載を残すことにした。
ずっと昔、間違っているのではないかと感じたことがあった。今年、復活祭を迎えるに当たって再度調べてみたが、「生けり」と言う部分が非文法的であると分かった。
この表現はヨブ記19:25の英語訳 I know that my redeemer lives (or liveth). 「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」を賛美歌の題にしたものである。日本語賛美歌75番。
文法的に成立しない文(非文)であるというのは、「けり」という助動詞には過去と詠嘆の二つの意味があり、この場合詠嘆であると思われるが、いずれにしても活用語の連用形に接続するという形になっていないからである。「生きる」「生く」(文語)の連用形はどちらも「生き」であるから、正しくは「生きけり」となるはずである。(参考、「竹取の翁といふものありけり」。)
あるいは「けり」を用いないで、「我を贖う者は活く」(文語訳聖書) とすべきであろう。
正しい訳は末日聖徒にとって、全く馴染みがなく変に感じられることだろう。私の妻は「生けりと知る」という表現に何の違和感も覚えないと言う。しかし、この有名な文(英語)は賛美歌の題としてよく知られており、日本語では「キリストは生きている」と訳されている。「主は生けりと知る」は末日聖徒だけのようである。
私の推測: 「iki + keri → ikeri 」 ki と ke が融合して ke 一つの音に短縮してしまったのではないか。「けり」は馴染みがあり、自然に聞こえる。ただ、この場合「生きる」の語幹が「い」だけになってしまう。
また、「けり」は過去の意味もあるので、原語、英語、邦訳いずれも現在形であることと矛盾して聞こえるのでまずいのではないかと考える。
生け + り じゃないですか?
「り」は動作が完了して継続していることを現す助動詞だったと思いますが?
理系なんで、いい加減ですけど・・・。
き き きる きる きれ きろ・きよ
「生く」「活く」の活用は
か き く く け け
です。
「り」という助動詞が文語にあって、指摘されたように過去、完了、存在態(てある、ている)を表します。ただ、接続が動詞四段の已然、サ変の未然に続くとあって、「生け」(そんな動詞があるとして)との接続が難しくなります。
私も詳しい筈はなく、「新国語必携」国語文化研究所編昭和29年発行によっています。
わたくしも違和感ないのですが、
https://www.hello-school.net/haroajapa009003.htm
げにあはれなるものの隈ありぬべき世なりけりと…(源氏物語・橋姫)
(なるほど、趣き深い、人知れない場所が確かにありそうな世の中であったなぁと…)
ーーー
主は生けり。キリストは生きていらっしゃるんだなぁ。という詠嘆というのも変ですしね。
”生けり”で検索しても末日聖徒の讃美歌くらいしか出てこないですね。
思い込みとはげに恐ろしきかな。
鯉の生け作り(活け造り)
花を生ける(活ける)
足りる → 足れり
ta ri ru を ta re ri と表現するときには「足」の次の文字を「り」ではなく、「れ」に変化させて、続けて「り」と付けます。
同様に
生ける → 生けり
は、「生きる」は「生ける屍」の様に「生ける」と言う使い方も有ります。
「生けり」は、「現在生きている」と言う意味を持たせるために最後に助動詞の「り」を持ってきますと、「生」の次の「き」を「け」に変えた方がつながりが良いんじゃないですか?
足りる → 足れり を 「足りり」ではなく「足れり」と言うのと同じでは無いでしょうか?
これで沼之川関には、通算15勝15敗の五分に。
河津掛け
https://www.youtube.com/watch?v=7pwL93r2dHU&t=2s
衾道を 引手の山に 妹を置きて
ふすまぢを ひきでのやまに いもをおきて
山路を行けば 生けりともなし
やまぢをゆけば いけりともなし
柿本人麻呂
巻2 212
かにかくに人のなさけに我れ生けり手にとりて見る珠数の一房 土田耕平
生ける屍と柿本人麻呂の文、貴重な例と見て、出直します。(敗色が漂ってきたか?)
”金沢大学” アスペクトから見た
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E2%80%9D%20%20%E2%80%9D%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%88%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E2%80%9D&ei=UTF-8
他には・・
原文: 後遂尓 妹将相跡 旦露之 命者生有 戀者雖繁
よみ: 後(のち)つひに、妹(いも)は逢はむと、朝露(あさつゆ)の、命は生けり、恋は繁(しげ)けど
意味: いつかはあの娘が逢ってくれるだろうと思って、朝露(あさつゆ)のようにはかない命を保っているんです。恋心は絶えることはないけれど。
昨晩大阪は、朧月夜でした。 春霞と言うのは霞過ぎでして、考査の影響でしょうね。
朧月夜と言えば、有名な叙情歌が有りますね。
菜の花畠に 入り日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて におい淡し
里わの火影も 森の色も
田中の小路を たどる人も
蛙のなくねも かねの音も
さながら霞める 朧月夜
この最後の「霞める」ですが、たぶん動詞で「霞んでいる」の意味かと思います。
しかしながら、意味的には、朧月夜に対する「形容詞」にも見えなくもない。
形容動詞と言う品詞が有るとか無いとか?
「主は生けり」は「主は生きている」と言う名詞と動詞の組み合わせなのでしょうが、「生ける預言者」と言うと、「生ける」は「生きている」と言う動詞と見るより、「預言者」を現す(形容する)言葉とも取れます。
私には、「生ける神」の「生ける」は「神」の枕詞の様な使われ方とも思えます。
ですから、「主は生けりと知る」も、言葉そのままでは、「主は生きている事を知っている」なのですが、モルモン信仰の中で「生ける主」「主は生ける」と言う慣用句になっているように思います。
「生きる」と言う動詞で、「主」「神」「預言者」の特徴を現している(形容している)のじゃないかと思います。
枕詞、掛詞に近いように思います。
と、全部私の憶測にすぎません。
ちゃんとした国語学者さんの見解を聞いて見たいものですね。
↓
春霞と言うには、霞過ぎで、黄砂の影響でしょうね。
それで、大阪府では義村知事の発案で「まん延防止等重点措置」の略語「まん防」にちなんで、大阪南港にある水族館「海遊館」の魚の「マンボウ」をイメージした「マン坊」と言うキャラクターを登場させて、心斎橋でコロナ予防のキャンペーンをするらしいです。
吉本とOSKが協力して「ヘイ!マンボー」って踊りながら練り歩くらしい。
ちょっと悪乗りしすぎだと思いますが・・・?
よけいに密になりそう。