確かにその通りと思った言葉を昨年見つけた(本のひろば、9月号)。それは次の言葉である。
「会衆も聴くことにより説教に参与し、説教者と会衆はひとつとなって福音を宣べ伝える者となる。会衆は聴くことにより説教しているのだ。」
(石田順朗[よしろう]、1928-2015年。ルーテル教会世界連盟神学研究局長)
集会の出席者が熱心に説教に耳を傾け、頷いたり、時に瞳が涙で潤んでいるのが分かると、話し手は励まされ、引き込まれる。そして共鳴を受けて話すようになる。話は自然に聞き手の心に伝わり、会場の空気が渾然一体となっていく。
私は以前から話し手に注目して、軽く反応しながら聞くようにしていたが、この文を読んで、聴衆も説教していることになるという見方が好きになった。石田師は伝道していることになるとさえ言う。
話も、半分は聞く側の責任かとは思いますが、それでも、面白くない話を聞いているのは、苦痛以外に何もありません。
いや、それ以前に、聞こえない話は、聞きようがない。
歳のせいか、どうも最近は聞こえにくくなって、「補聴器でもつけろ!」って言われるとそれまでなんですが、聖餐会の話がよく聞き取れない。(寝てるせいでもあるんですが、すみません)
モルモン教会の聖餐会の話し手は、普通の会員ですから、仕方ないとは思ってるのですが、話す訓練が出来ていない。
まず、人前で話すときは、「声を張る」のが普通だと私は思ってるのですが、ほとんどの話者はそれが出来ていない。(どなれって言うのではなく、普通の会話より、少し声を張る、さらに口をはっきりと開けて、語尾をしっかりと聞こえるように話す。
話の内容も、ステークの評議員レベルですら、自分の旅行の話だとか・・・、そこからきちっと福音の話につなげていけてれば良いんですが、終わっても、何を伝えたかったのか理解できないような話が多い。
ま、トレーニングされていないから仕方ないんですけどね。
それで、「聖餐会に友人を誘ってください」って言われてもね、恥ずかしくて連れてこれない、連れてきたとしても、「何だこの教会は・・・」って思うでしょうしね。
来年から、2時間に成って、聖餐会のウエイトも大きくなるのにね、会員を集めて、話し方の講習会ぐらいやったらどうかって毎度思います。
ま、こんな嫌味な豚の話は、誰も聞きたくないでしょうけどね。