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帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

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仏教の話 ☆ 番外編 ≪我想≫

2011年06月24日 16時32分00秒 | 神・仏教・民俗の話

≪これは本の紹介ではなく私の勉強の一つと思ってくださいね≫

 


最近、

瀬戸内寂聴さんの「五十からでも遅くない」っていう本を読んだ。
彼女は51歳で出家したという。

 

実は宗教がらみの本は興味が沸かなく、
というより嫌いが勝っていて読む気がしなかったのである。
しかし、この一年ほど少しづつ仏教を勉強し始めたのは、
嫁ぎ先の宗教が違うので何れ見守って行かなければならぬ仏壇の
ために、一応知っておこうということからの始まりだった。

勉強すればするほど、思っていた本来の釈迦仏教とは違うものへと
成長(?)=葬儀仏教=日本人が得意とする日本化独自のものになって
しまっていたことにも驚いたが、今また、瀬戸内寂聴さんの本からも
はっきりと、親・妻子は慈悲をかける他人の仲間には含んでいない
(私にはそういってるようにしか思えなかった)
ということがわかって、やはりそうだったのかと落胆した。

どおりで、親を一番に考える儒教国、韓国には根付かなかったわけだ。

 

それに、なぜか俗世を経験してから出家なさる方々は、
様々な煩悩に悩み人生に悩み、死ぬほど悩みぬいた結果、
死ぬか、仏道に入って人のために生きるかを考えるらしい。。。
しかも、人から指を指されるようなことをも経験なさってきた方が多いのです。

釈尊しかり、一遍上人しかり、親鸞聖人しかり。。。

寂聴さんもそうだったようだ。
だから、昔は故郷や実家には帰れなかった時代があったが
当時と今と考えは根本的には全く変わっていないのに、
今はどうぞ来てください、ありがとう、と喜ばれる、
おかしなものだとおっしゃっている。

 

そして出家するということは、全てを捨てなければならない。
人のために慈悲を持てというのが仏教だと思っていた私は驚愕した。

親・妻・子は他人ではないから捨てよ!・・・なのである。

昔の私は、捨てるのは煩悩の全てと思っていたのだったが、
勉強してからはココのところにどうしても嫌悪感が生じてしまうのだった。
全て・・つまり家族(親・妻子)や兄弟までもなのだ。

人間界からしてみれば、親を捨てるとはなんという非業だろう!
今の高齢化社会でそんなことを全ての人間がすれば大変である。

注意しておくが、全てを捨てるというのは出家する(仏道に入る)人で
あるからして、私たち人間は凡夫だから、それとは関係なく家族を大事
にするのが普通なのだと教わってきたはずある。


今では妻帯するのは跡継ぎのために許されることとなっているところが多い。
妻帯の僧の先駆けである親鸞聖人に私は惹かれる。
聖人の本当の良さは人間としての僧のあり方を示されたことだろう。
世の常に合わせながらに変化するのは、最初はいつも異端者なのである。

 

  

私の持論、「神も仏も人間が創ったものである」

つまり、自分自身の心の持ち方一つなのである。

この本を読んだ後も それは変わらない!! 

 

 

 

関連ブログ、私の過去ログはこちら→ 『私の中の神仏』2009年9月30日.記

 


  

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コメント (7)
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