日月紋
(じつげつもん)
日月紋は、太陽と月とを組み合わせた紋。
日月信仰は大昔からあり、現在も続いている。
日は昼を司どり、万物に光と生命を与える。
月は又、夜を司どり、影と死を与える。
天武天皇の御代、大宝元年(701年)正月一日に大極殿で
朝賀を受ける時、正面に烏形の幢、左右に日象幢、月象幢の
旗を立てた。のち、これが例になって、歴代の天子が
御即位のときには、必ずこの習慣に従うのである。
正面の烏はカラスを意味し、太陽を意味する。
それに対し、月は兎で表すこともある。
これは中国の「論衡」の説日篇に「日の中には三羽烏がおり、
月中に蟾蜍(ひきがえる)がいる」の語からきている。
事実、この金烏玉兎(きんうぎょくと)を日章旗の代わりに用いた例もある。
日月紋は、同じ大きさの円を二つ描いたので、
錦の御旗につける場合は、日を金に、月を銀にして区別した。
しかし、渡辺氏の日月紋は、色で区別しないで
円を二個描いたために判別がしがたい。
それゆえ後世、月を三日月にあらわしている。
明治元年(1867)、鷲尾隆聚に下賜した錦の御旗の
据紋は三日月になっている。
日月紋がはじめて文献に表れるのは、「太平記」で、同書の笠置陣
の条に「城中をきっと見上げると、日月を金銀で打った錦の御旗が
白日にひるがえり、光り輝いている」とある。足利時代には将軍義教
が朝廷から錦の御旗を賜ったが、日月紋についての記述はない。
戦国時代には、毛利・波多野の二人がご紋章を下賜されたことは
有名である。しかし、のち、朝廷では菊花紋を多く用いたので、
日月紋は特別な場合でない限り使わなくなった。
日月紋は、
皇室の紋章ゆえ本来、錦の御旗にのみつけられるべきものであったが、
皇室の勢いが衰えるとこれを潜用するものも出てきたし、
錦旗以外でも付けられた。「羽継原合戦記」には、
飛騨の国司が日光・月光の紋を用いたことが出ている。
明治維新になると、再び日月紋が歴史の表面にあらわれた。
鳥羽伏見の戦いでは、
日月紋が多く用いられ錦旗の中に据えられた。
「家紋総攬図鑑」より