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< 郷土料理 > 茨城 干しいも

2024-05-29 08:35:57 | 郷土料理

 「干しいも」

 主な伝承地域 県内全域

 主な使用食材 さつまいも

 歴史・由来・関連行事
 老若男女から親しまれているさつまいもの加工品である「干しいも」。茨城県は、全国の「干しいも」の生産量のトップを誇る。そのうちの大部分を生産しているのが、ひたちなか市、東海村、那珂市である。
 「干しいも」の発祥の地は静岡県で、遭難した薩摩(現・鹿児島県)の船を大澤権右衛門(おおさわごんえもん)が助けたことをきっかけに、静岡県にさつまいもがもたらされたのがきっかけだといわれる。静岡県でさつまいも栽培が広がる中で、栗林庄蔵という者が、さつまいもを煮て包丁で薄く切ったものを干す煮切り干し法という手法を考えつき、これが「干しいも」のはじまりとなったといわれている。いつでも食べれられる、保存がきくといった利便の良さから、一気に関東まで広まっていったといわれる。
 その後、静岡県沖で遭難した照沼勘太郎が、静岡県で目にした「干しいも」を茨城県でつくりはじめた。そして、那珂湊市(現ひたちなか市)でせんべい屋を営んでいた湯浅藤七や小池吉兵衛が「干しいも」の製造・販売をはじめたことによって、一気に生産量が増えたといわれている。阿字ヶ浦(あじがうら)の堀出神社には、「干しいも」を広めた人物として、吉兵衛の胸像がある。
 戦争をきっかけにさつまいもが主食にとってかわったことで、一時期「干しいも」の生産は実質ストップしたが、戦後、県の推奨もあり「干しいも」生産が復活した。

 食習の機会や時季
 海から吹く強い風を利用して干す作業がおこなわれるため、主な出荷時期は11月から3月中旬までが一般的。ただし、保存食であるため、1年を通じて食べられている。工程がシンプルなことから、家庭でもよくつくられ、軒先にさつまいもを干している様は、冬の風物詩であった。
 いまでは小腹が空いたときの間食や子どものおやつなどに親しまれている。

 飲食方法
 さつまいもを蒸して、薄く切ったら、外に干して乾燥させる。水分が抜けて干からびてきたら食べどきである。素朴な甘さとほっくりとした食感は子どもたちからも好まれる。そのまま食べても満足感を得られるが、かき揚げにしたり、パウンドケーキやシフォンケーキの生地の中に入れたりするなど、アレンジも豊富である。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 蒸して、切って、干すだけなので、いまでも家庭でつくられている。また学校の給食でも「干しいも」を使った料理が用意されたり、「干しいも」の作業体験などもおこなわれている。
 また現在では、干しいものいもの品種や商品もバラエティ豊富であり、日常用から高級な贈答用まで、選択肢が広がっているのも継承の後押しになっていると考えられる。
 「干しいも」の生産農家などによる「ひたちなか・東海・那珂ほしいも協議会」も発足され、「干しいも」の普及に努めている。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/hoshiimo_ibaraki.html より

 

 干しいも(ほしいも)は、蒸したサツマイモを薄く切って乾燥させた食品で、乾燥いも、甘藷切干(かんしょきりぼし)などとも呼ばれる。薄切りの他に、丸干しや棒状に切ったものもある[3]。干しいもは静岡県が発祥とされ、日本での生産量は茨城県がもっとも多い[2]。他に三重県や長崎県、中国などで生産されている。

 概要
 サツマイモを蒸して乾燥させた加工食品である。日本では全国各地でさまざまな乾燥芋が作られており、静岡県の切り干し芋、茨城県の干しいも、三重県のきんこ、高知県や愛媛県のひがしやま[9]といった郷土料理が知られている。

 類似する食品は日本全国で作られてはいるが、総生産量の約9割が茨城県で生産されている。これらの正式名は「甘藷蒸切干」だが、ほかに「乾燥芋(かんそういも、かんそいも)」「きっぽし」「いもかち」などと呼ばれることもある。これらはもともと煮切干という製法で製造されていたが、後に蒸切干という製法が一般化した。

 干しいもの発祥は、静岡県御前崎の栗林庄蔵が1824年に製造に成功した煮切干である。1892年頃には静岡県の大庭林蔵と稲垣甚七が蒸切干の製法を実用化した。1908年頃には干しいもの製法が茨城県那珂湊に伝わり、1955年には干しいも生産量で静岡県を抜いて茨城県が首位となり、2016年時点では干しいも生産の約9割を占める。

 特徴
 適度な水分を含むため、粘度のある噛み応えとサツマイモらしい甘味が特徴的である。そのまま生で食べてもよいが、火であぶる(焼き方で後述する)と柔らかくなり甘味も増し、また表面を軽く焦がすことにより香ばしさが生まれる。

 栄養面でも優れている。コレステロールは含まれず、整腸作用のある食物繊維を多く含む。ビタミンB1やビタミンC、カリウムにも富んでいる。アルカリ性食品に分類されることも、健康に良い根拠として挙がる場合がある。

 大きさは原料のサツマイモによって様々。形状は3種類ほどある。店頭で販売されているありふれた形状は「平干し(ひらぼし)」であり、一片が長さ10 - 15cmで幅5cm程度の細長い薄板状のものであり、芋を薄切り(スライス)してから干したものである。「丸干し(まるぼし)」は長さ10cm、直径2 - 3cm程度で、紡錘形とも棒状とも言えるもので、芋を薄切りにしないで芋の形のまま干したものである。近年は食べやすさを考慮し「角棒状の細切り」の商品も出回っている。

 なお表面が白い粉で覆われている場合があるが、これは芋の自己分解で生まれた糖分が表面に出て結晶化したもので、カビではない。

 後述するように複雑な製法ではないが、時間と手間がかかるため、価格は1袋500gで1000円程度するものもある。また製造時の端切れを集めたものを「切甲(せっこう)」「しろた」と言い、通常品の半値程度で販売されている。形が整っていないために二級品扱いで安価ではあるが、味は変わらない。家庭でも作ることができるが、美味しく仕上げるには蒸し方にある程度のコツが必要となる。

 歴史
 静岡へのサツマイモ栽培の伝来

 静岡県とサツマイモとの出会いは、江戸時代にまで遡る。1766年(旧暦明和3年)、薩摩藩の御用船であった豊徳丸が遠州灘で難破し、御前崎沖で座礁するという海難事故が発生した。遠江国榛原郡地頭方村の飛び地である御前崎で二ツ家の組頭を務めていた大沢権右衛門は、住民たちを率いて、乗員24名を救助し、衣服や食事を与えて介抱した。これに対し、薩摩藩側は権右衛門に金20両を謝礼として渡そうとしたが、権右衛門は「難破船を助けるのは村の習わし」と述べ、金20両を受け取らなかった。権右衛門の廉直な言動に感銘を受けた薩摩藩は、謝礼金の代わりとして豊徳丸の積み荷であったサツマイモ3本を贈ることにした。当時、サツマイモは薩摩藩の重要な特産品であり、その栽培方法は門外不出とされていた。しかし、薩摩藩は権右衛門に対して栽培方法を伝授してくれた。こうして御前崎の地にサツマイモの栽培方法が伝わった。

 煮切り干し法の誕生

 大沢権右衛門がもらった3本のサツマイモをきっかけに、遠江国の海岸部ではサツマイモ栽培が大いに広まった。そんな状況の中で、遠江国榛原郡白羽村の農家である栗林庄蔵が、サツマイモの生産や加工に革新を齎した。まず、庄蔵は、生のサツマイモを薄く切って乾燥させる加工法を考案した。こうして生み出された乾物は「白切り干し」と呼ばれ、生のままのサツマイモに比べ保存性が向上した。さらに、白切り干しを粉末状にしたうえで、それを水で捏ねて蒸かし、餅の代用品として「お日和もち」と名付けて江戸で販売した。

さらに庄蔵はサツマイモの加工に試行錯誤を重ねた結果、1824年(旧暦文政7年)、サツマイモを煮てから包丁で薄く切り、それを干して乾燥させる加工法を考案した。この手法は「煮切り干し法」と呼ばれており、こうして生み出された乾物が切り干し芋の原型となった。サツマイモを煮切り干し法で加工すると、保存性が向上するとともに甘みも増大することから、切り干し芋は好評を博した。

 もともと遠江国の東部は降水量が少なく、農地を灌水するのも困難なほどであり、農業には困難が付きまとっていた。一方で、遠江国は日照時間が長く、冬になると「遠州のからっ風」と呼ばれる強風が吹くことから、切り干し芋の製造に適した気候であった。その結果、遠江国において切り干し芋の生産は爆発的に普及した。

 蒸切り干し法の誕生

 静岡県磐田市藤上原、大久保の航空写真(2020年6月16日)。蒸切り干し法が誕生した豊田郡大藤村に該当する
明治時代になると、静岡県豊田郡大藤村の大庭林蔵と稲垣甚七が、それぞれ切り干し芋の加工法の改善に取り組んだ。その結果、1892年(明治25年)頃、林蔵と甚七とが、サツマイモを煮るのではなく蒸かすという加工法をそれぞれ考案した。この手法は「蒸切り干し法」と呼ばれており、切り干し芋の大量生産が可能となった。

 その結果、冬の保存食として活用されたり、子供向けの間食としても喜ばれたりと、用途が拡大していった。日露戦争で野戦食としても活用され、「軍人いも」と呼ばれた。北海道や東北地方などにも出荷されるようになり、全国的に広まることになった。

 茨城での干しいも生産

 静岡県の切り干し芋が茨城県に伝わったのは、那珂郡前渡村の照沼勘太郎がきっかけである。明治時代に茨城県から来た船が静岡県沖で難破し、乗員らが救助された。救助された一人であった照沼勘太郎は、静岡県で切り干し芋の存在を知った。茨城県那珂郡前渡村に帰郷した勘太郎は、静岡県の切り干し芋を参考にしてサツマイモの加工に取り組んだ。その結果、勘太郎は、1895年(明治28年)にサツマイモの乾物の製造に成功した。

 さらに1908年になると、静岡県から茨城県那珂湊(現在のひたちなか市)に製法が伝わり生産が本格化した。導入経過は2説あり、一説には煎餅屋の湯浅藤七という人物が導入し、宮崎利七が静岡からの技術支援を受けて、那珂湊の水産干物加工設備を流用して企業化した。異説としては、小池誠司(吉兵衛)・大内地山兄弟が、茨城県知事の森正隆に献策して、静岡からの技術者2名の派遣を受けて製造を始めたとする。ただし、後者の小池らの事業はごく小規模に個人レベルで行っただけと見られる。その後、原料のサツマイモに適した土壌だったことや、冬の乾燥した気候が生産に適していたことから茨城県での生産量が増加。1955年には茨城県が総生産量で首位となった。

 茨城県の官民も地元の名産としてアピールしている。照沼勘太郎らが暮らしていたひたちなか市阿字ヶ浦町は干しいもの生産がさかんであるが、その地に鎮座する堀出神社は、2019年に干しいも生産者やサツマイモ農家など地元経済界の協力を得て「ほしいも神社」を境内末社として創建した。境内には顕彰碑が建立され、宮崎利七翁、湯浅藤七翁、小池吉兵衛翁、大和田熊太郎翁、白土松吉翁の5柱を「ほしいもの神様」と位置づけて、その功績を称えている。

 ひたちなか商工会議所は、干しいもを使ったパイ菓子開発や歴史を紹介する書籍『ほしいも学校』出版など「ほしいも魅力発信プロジェクト」で、日本商工会議所から2019年度「全国商工会議所きらり輝き観光振興大賞」に選ばれた。

 作り方

 水でよく洗った皮付きのサツマイモを1時間以上かけて蒸し上げ、まだ熱いうちに皮をむき、その後冷えたものを薄く切りすだれに広げ、天日で1週間程度干す。

 製品の形状には主流の平干しのほか、丸干し、角干し、焼き干しいもなどがある。平干しはピアノ線などを使って1cm程度の厚さに切ってから干される。切らずにそのまま干した「丸干しいも」の場合、20日間ほどのより長期の乾燥が必要になる。良く乾燥させた方が保存性は高くなるが、食感は固くなる。

 サツマイモの甘味を増やすため、サツマイモを収穫後に寒気にあて糖化させるなどの工夫もしている。

 近年は、衛生確保のためビニールハウスや網を張って乾燥させていることが多い。また近年は雨量が増えて天日乾燥が難しくなったため、機械乾燥で生産されるものもある。蒸すのではなく、茹でたものを干す場合もあるが、この場合デンプンが糊化しないので蒸したものより固くなる。

 原料となるサツマイモの品種は玉豊種(タマユタカ、農林22号)が主で、いずみ種(泉13号)も使用される。2005年頃からは、新品種の玉乙女種も使用されている。ベニマサリや紅はるかを使ったものもある。主力の玉豊種は今では干しいもの専用品種に近いサツマイモで、1961年から使用されるようになった。他の品種と比べて大型で、外皮、肉色とも白く、食感はホクホクではなくネットリしている。生では白いのに、干すと飴色に変わる。

 サツマイモの収穫後に製造されるため、必然的に干しいもの製造は冬季から初春に行われるが、冷凍保存されたものが一年を通じて流通している。

 製法としては、サツマイモを煮てから乾燥させる「煮切り干し法」と、蒸かしてから乾燥させる「蒸切り干し法」に大別される。

 静岡県での干しいもは当初は煮切り干し法を採用していたが、その後、蒸切り干し法が考案され、サツマイモを蒸かして乾燥させるようになった。なお、茨城県の干し芋は、静岡県の切り干し芋を参考にして開発されたため、当初より蒸切り干し法で製造されている。

 一方、三重県のきんこは、煮切り干し法を採用している。皮を剥いてから煮るのか、剥かずに煮るのかといった差異によりやり方はあるものの、いずれもサツマイモを煮て乾燥させる製法となっている。

 食べ方
 そのまま食べることが多いが、トースターや炭火で軽く炙って食べてもよい。干し芋の焼き方についてはオーブンや電子レンジ、ストーブの直熱などで温める方法がある。

 保存方法
 室温保存も可能であるが、保存料等は使われておらず、さらに最近のものは食感を良くするため乾燥しすぎないようにしているのでカビが発生しやすい。このため冷蔵庫での保存が好ましい。冷凍にすれば長期保存が可能である。なお、適切な保存がされずにカビが生えてしまい、クレームを招くことの多い商品の一つであるが、前述の結晶化した糖分がカビと見間違えられただけのケースもある。

 店頭販売用の干しいもは、密封性の高いフィルムで作られた包装袋に脱酸素剤と同封することで、日持ちを向上させている。

 産地および名称
 県別の生産高では茨城県(ひたちなか市、東海村)が全国第1位となっているほか、冬のからっ風が強い群馬県、明治時代に産業化が始められた静岡県、長崎県などで生産が多い。最近では茨城県の業者による技術指導の下、中国産も出回っているが、国産に比べ甘味や食感に差異がある。

 三重県のきんこについては、誰が開発したのか伝わっておらず、開発された時期や場所も不明である。高知県や愛媛県のひがしやまも、開発者の氏名や開発時期、開発場所は不明であり、その名称の由来すら伝わっていない。

 三重県のきんこ
 統計用語としては、農林水産省の生産農業所得統計では「かんしょ切干」、日本への輸入品について記載した日本貿易月報では「調整したかんしょ」、静岡市中央卸売市場の統計書では「 かんそういも」と記載されている。日本貿易月報の資料の説明によれば「調整したかんしょ」とは、“いわゆる干しいも(蒸し切り干し・乾燥いも)で、一般的に冷凍して輸入される。”とある。

*Wikipedia より

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<伝統野菜> 鹿児島 有良だいこん -追記あり-

2024-05-29 08:31:15 | 伝統野菜

 「有良だいこん」

 有良だいこん(あっただいこん)
 由来など
 古くから奄美大島の有良集落で各家庭菜園や山手の畑で広く栽培されており,「有良だいこん」または「あったどこね」と呼ばれている。
 有良集落で栽培されている方によると,戦前から作っており,煮物や切り干しだいこん等にして正月料理にも利用している。
 作物の特徴・特性
 地上部は大きく地面を這うように葉を広げる。
 根身部は紡錘形で,根茎は15~20cm程度,長さは60cm程度,重さ5kg程度になる。

 味や料理法
 生食や煮物の他,切り干し大根としても利用されている。
 奄美市内では正月のお歳暮だいこんとして人気がある。
 種子の入手方法など
 自家採種が中心で,種子が市場に出回ることはない。
 栽培カレンダー ○:は種,■:収穫

 品目名    1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月  10月  11月 12月
 有良だいこん ■ ■ ■                    ○○○ ○○○      ■■■

*http://www.pref.kagoshima.jp/ag06/sangyo-rodo/nogyo/nosanbutu/dentou/attadaikonn.html より

 

 「有良だいこん-あっただいこん」

 【生産地】大島本島北部有良地区

 【特徴】晩生種。地上部は大きく地面を這うように葉を広げる。普通サイズが根径10~15㎝、根長45~60㎝の中太り。葉の大きさは葉長55㎝、葉幅15~16㎝、葉数35枚。根身部は白色で紡錘形。根重2~4㎏程度である。過去最大の大きさは根重15㎏の記録があったといわれている。粗剛で耐暑性が強い。草姿、根形とも南薩地方に栽培されている地大根に似ていて、肉質に優れ、ス入りの遅い品種である。

 【食味】

 【料理】煮物や切り干しだいこん等。主にお正月に食べる塩豚と野菜の煮物料理「ウワンフネ」用に栽培されている。

 【来歴】古くから奄美大島本島北部の有良集落にて、各家庭菜園や山手の畑で広く栽培されている。「あったどこね」とも呼ばれている。戦前から作られており、有良集落の地形や土などの特徴もあり、他の集落で栽培しても同じおいしさにはならないという。他の種と交雑しないように代々大切に受け継がれている貴重な大根で、自家採種が中心のため種子が市場に出回ることはない。奄美市内では正月のお歳暮だいこんとして人気がある。

 【時期】12月~1月

*https://tradveggie.or.jp/vegetableposts/46-kagoshima#index_j_CrQ_fW より

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<B級ご当地グルメ> 山形 芋煮カレーうどん

2024-05-29 08:26:53 | B級ご当地グルメ

 「芋煮カレーうどん」

 山形のご当地グルメ
 山形の食で地域の活性化を目指す「山形けぇくぅで元気な街委員会」が選定。

 現在、「山形芋煮カレーうどん寄合」というチームによって、様々なイベントなどに出店し、PRされている。

*http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=132192945083293&c=10 より

 「山形芋煮カレーうどん寄合」とは、芋煮カレーうどんで街おこし!山形市の有志団体です。

*https://www.facebook.com/p/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E8%8A%8B%E7%85%AE%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E5%AF%84%E5%90%88-100064520448968/?paipv=0&eav=AfZWq9mPaWkJKZ607s7F4xnWpN7a4FVYHXjNu-5j8E5hYx3TZmrBbvejxRayPo7B1Pw&_rdr より

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うまいッ! NHK「プチプチぴりり!からしめんたいこ~福岡・福岡市~」

2024-05-29 08:16:24 | うまいッ!NHK

 うまいッ! 「プチプチぴりり!からしめんたいこ~福岡・福岡市~」 2016年02月14日

 番組内容
 福岡名物としてあまりにも有名なからしめんたいこ。プチプチとした食感とピリッとした辛みの利いたうまみが特長です。昭和24年に韓国・釜山のたらこのキムチ漬けをまねて、福岡で開発されたといわれています。福岡県内には300を超える製造会社があり、自慢の味を競っています。北九州市のメーカーを訪ね、そのおいしさの秘密に迫ります。さらにめんたいこの加工品として知られる「いわしめんたいこ」の開発秘話も紹介します。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201602140615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「からしめんたいこ」

 辛子明太子(からしめんたいこ)は、スケトウダラの卵巣(たらこ)を塩漬け熟成し、塩抜き後に唐辛子・昆布・砂糖・醤油などの調味液に漬け込んで発酵させた惣菜である。

 概要
 朝鮮半島の「唐辛子やニンニクをまぶした塩漬けタラコ」である「明卵漬(ミョンランジョ)」を元に、ふくやの川原俊夫が日本人向けの志向に合うように鰹節や砂糖を加えるなど工夫を加えて生み出された。ふくやが製造法を独占せずに他企業へ教えたことから日本全国へ普及した。明卵漬は強いニンニク・塩辛さで韓国人にも好みが分かれやすいものであったため、日本式の明太子が明卵漬の韓国国内流通量・知名度を大きく上回り、2018年時点では日本式の明太子が普及している。

 語源
 スケトウダラのことを朝鮮語で明太(명태、myeongtae、ミョンテ) と呼ぶことに由来するという。朝鮮王朝時代の日記である『承政院日記』の孝宗三年(1652年)の条に「明太卵」と記載されているのが「明太」の語の初出である。朝鮮王朝時代末期の学者である李裕元が記した『林下筆記』によると、「明太」の語の由来は、明太を釣り上げた明川郡の「太」を氏とした漁師に由来するという。なお、朝鮮半島東南部の方言では、「明太」を「メンテ」と発音する。ただし、現代朝鮮語においてはタラコのことを「明卵」(명란、myeongnan、ミョンナン)と呼ぶため、明太子という表現は日本独自のものである。

 なお、日本で「鱈」の字が文書に現れるのは1670年であり、そもそもは「スケト」という呼び名だった。中国では普通話(標準語)ではスケトウダラのことを「黄線狭鱈」(繁体字: 黃線狹鱈、簡体字: 黄线狭鳕、拼音: huángxiànxiáxuě)と呼ぶが、東北官話(中国東北部の方言)ではスケトウダラを「明太魚(明太鱼、míngtàiyú、ミンタイユィ)」と呼ぶことがあり、ロシア語でも「минтай(mintaj / mintay、ミンタイ)」と呼ぶことがある事からロシア起源と言う主張もある。

 韓国での明太は日本のたらこと違い辛み付けされており、その為意味としてはたらこ=明太子=スケトウダラの子であるが食品としての味は異なる。 下関や博多をはじめとする西日本の一部地域では、唐辛子を使わないいわゆる「たらこ」を示す言葉として辛子明太子と使い分けられている。

 ロッテホテルによると、川原俊夫が明卵漬(鱈子のキムチ漬け)は塩辛く、そのままでは日本人受けしなかったため、唐辛子粉、鰹節、酒の調理液に漬け込む方式を開発した。これを「十日恵比須神社大祭」で商売繁盛の日である昭和24年1月10日に「味の明太子」として販売した。

 今日では「明太子」は辛子明太子を指す言葉として用いる人が多く、さらには「めんたい」と略されて「めんたいスパゲティー」や「めんたいロック」など九州博多の代名詞としても用いられることもある。これは元々たらこを示す言葉としての「明太子」が使われない地域に、お土産や特産品として「辛子明太子」がもたらされ、やがてその略称としての「明太子」が全国的に広がったためと考えられる。

 歴史

 明卵漬(「メンタイ」「まぶし型」)
 昔の朝鮮半島の文献によると、明卵漬の製造は発酵させることをベースとしていた。塩漬けして発酵させた後、トウガラシ粉とニンニクを加えてまぶした。塩漬けさせて発酵させるため、水分が抜けて、タラコの身が引き締まるが、塩辛い味である。ロッテホテルマガジンは低塩で日本人向けの甘めの調味液で漬けた明太子とは異なり、濃度の高い塩で発酵させた「明卵漬」は日本人には塩辛い味と解説している。

 戦前の朝鮮半島においては、日本人が明太子の製造卸問屋を経営していたことを示す資料と記録がある。明治40年頃に樋口伊都羽(ひぐちいづは)が創業したもので、朝鮮半島の代表的な明太子製造問屋であった。樋口は漁業に携わっていたが、漁民の自家用以外は捨てられるだけのスケトウダラの卵巣を日本向けに商品化することを考えつき、「明太子製造元祖ヒ(マルヒ)、創業明治40年、樋口伊都羽商店」という看板を掲げて釜山で商売を始めた。商売は繁盛し日本への輸出のほか、台湾、中国にその需要を増やした。樋口は終戦までの38年間経営していた。

 日露戦争直後から太平洋戦争中にかけて、鉄道省(後の日本国有鉄道→現・JRグループ)は下関と当時日本領であった朝鮮の釜山との間に関釜連絡船を運航していた。また、中国との定期連絡船も存在し、スケトウダラ(明太魚)の辛子漬け(明太卵漬け)を運んでいた。朝鮮側の連絡船では釜山を経由して、明太の卵巣の辛子漬け(「明卵漬(明卵젓 / 명란젓、myeongnanjeot、ミョンナンジョッ)」)が下関へ輸入された。

 朝鮮半島に住んでいた日本人は明卵漬を「メンタイ」と呼んだ。当時「メンタイ」と呼ばれた明卵漬は、塩漬けにした卵巣に唐辛子を振りかけて作る「まぶし型」で製造されていた。ふくや創業者川原俊夫の孫である川原武浩社長は明卵漬と明太子の差異について、明卵漬は塩漬けにした卵巣に、タレと唐辛子に漬け込まれており、唐辛子やニンニクで漬け込んだ現代の「タラコのキムチ」「タラコのチャンジャ」に近い味であり、日本人には舌が千切れるくらいの辛さであると述べている。

 辛子明太子(ふくや開発「漬け込み型」)
 ふくやの川原俊夫が若いころに釜山で食べた明卵漬の記憶を基に、そのままでは日本人受けしない味なため、新たに塩で漬け込む製造法で辛子明太子を開発した。ふくやは「明卵漬」「まぶし形」戦後にそのまま売ろうとしたが、日本人には辛すぎて売れず、新製造法である「漬け込み型辛子明太子」を開発した。それでも辛さで朝鮮半島引き上げ日本人以外には敬遠されたため、調味液を白砂糖や黒砂糖、角砂糖、ザラメ、蜂蜜など出来る限りの甘味を加えたり、酒やかつおぶしや昆布の出汁でうま味やコクも加える試行錯誤をし、「辛子明太子」を開発した。辛子明太子は「明卵漬」のように発酵させる程塩漬けするのではなく、低い塩度で漬けるのが基本である。これにかつおだしや酒、トウガラシ粉、みりんなどを使い、トウガラシ粉以外は日本式の熟成調味料のため、辛さはやや控えめとなった。ふくやは約10年かけて生み出した製造法を独占せずに他企業へ教えた。そのため、日本全国へ明太子が普及した。後に塩漬けにしたタラコへ唐辛子をまぶして作る伝統的「明卵漬」は徐々に減っていき、調味液漬けの辛子明太子形がほとんどとなった。韓国でさえもまぶして作る、伝統的な製造法の明卵漬はほとんどなくなってしまって、逆輸入された日本風の明太子がその位置を占めるほどとなっている。この漬け込みでは「乳酸発酵」を伴う。漬け込みに際しては、各社工夫をして異なる方法や副材料を使用する事もある。

 国内外普及と「漬け込み型明卵漬」の登場・伝統的まぶし型明卵漬の衰退

 ふくやが製造法を教えたため、その後を追って、1960年代には多くの同業者が設立された。1962年頃にふくやの斜め前と隣の2軒の店が、教えられた製造法で明太子を販売するようになった。1967~68年ごろには製造法を俊夫から教えられた大手の明太子メーカーが次々と開業した。ふくやの社員たちが「商標登録や製法特許を取るべきだ」と訴えると、俊夫は漬物を引き合いに、「漬物にはさまざまな味がある。同じ大根でも白菜でも、漬け方ひとつで味は変わる。家庭ごとでも味が違う。そんな漬物に商標はあるか? 製法特許はあるか? 明太子だって誰が作ってもいいではないか」と説得している。1975年に山陽新幹線が博多駅まで繋がり、東京博多間全通後に設立された福さ屋が新幹線駅や東京の三越百貨店等へ販路を築き、全国的に知れ渡るようになった。近年では料亭や老舗醤油メーカーなども明太子を扱うようになり、良質の原材料を贅沢に使用した高級品の研究も進んでいる。1980年代には土産物の販売ルート以外にも、百貨店・量販店で広く販売されるようになり、全国でおにぎり・パスタの具として広く利用・販売されている。2007年には、おにぎりなどの加工用辛子明太子の出荷量が、ついに土産用の辛子明太子の出荷量を逆転した。

 新幹線開通後に明太子は全国区となったが、2016年にふくやの川原正孝社長は、「ふくやだけが明太子を独占販売していれば、恐らく(日本全国へ)広がらなかったと思います」とし、製造法を他社へ教え続けた俊夫を支持している。

 2018年11月辛子明太子(めんたいこ)製造販売「蔵出しめんたい本舗」が、ニシンの卵数の子を辛い調味液に漬け込んだ「数太子(すうたいこ)」を開発。数の子ならではの食感、うまみ、辛さが特長で、おせち料理や歳暮向け高級食品として販売。

 ふくや創業者川原俊夫の孫である川原武浩社長も由来である「明卵漬」は、スケトウダラの卵巣を塩と唐辛子、ニンニクや胡麻などと発酵させたものであり、スケトウダラの卵巣版チャンジャと解説している。

 彼は2018年時点で発想の由来となった明卵漬をふくや開発の「明太子」が韓国国内でさえも流通量・知名度で飲み込んでしまったと語っている。川原武浩社長はややこしいことに伝統的な明卵漬(まぶし型)が韓国からほとんど無くなってしまって、日本風の明太子ばかりなってしまっている。そのため、明卵漬を明太子が韓国内流通量上回った以降に育った若い韓国人を中心に明太子そのものが韓国の「明卵漬」であると勘違いされていることを明かしている。

 販売形態と産地
 辛子明太子は、その形状によって販売価格・流通経路が大きく異なる。

 卵巣の形を保ったままのものは「真子(まこ)」といい、比較的高値で取引される。主に贈答や接待に用いられる。皮が切れたものを「切れ子(きれこ)」と称し、比較的安価で家庭用として好まれる。さらにまったく形がなく粒のみのものを「ばら子(ばらこ)」という。ばら子はパック詰めにして業務用に使用されたり、チューブに入れたりして販売されている。切れ子には少し切れただけのものから、ほとんどばら子に近いようなものまで多種が存在する。なお、真子・切れ子・ばら子の品質には特に違いはない。さらに、明太子の原料は戦前の頃に比べはるかに細く痩せてしまったといわれるが、細い明太子に別のばらこを注入する技法も生み出された。

 明太子の産地について、原料となるスケトウダラの卵は日本近海、アメリカ・アラスカ、ロシアなどで獲れたものが中心であり、スーパーで見かけるものの多くがアメリカ産・ロシア産となっている。 1970年代から日本のODA援助により大型船を手にした韓国の財閥各社が北海道沿岸の定置網から横取りしたスケトウダラの卵を博多の各業者に輸出することで安価な辛子明太子が流通するようになった。 近年比較的安価で売り出されている「原産地 中国」と表記されたものを見かけるが、これは上述の卵を中国で加工した中国加工製品であり、中国産の原料卵を日本で加工しているわけではない。なお2009年頃、不況や中国をめぐる食品問題のあおりを受け、中国に工場を構える業者の多くが撤退を開始していたが、近年再び中国加工のものが増え始めてきた。

 食べ方
 副菜としてそのまま、もしくは好みにより軽く焼いて食卓に供する。また、酒肴やおにぎり、お茶漬けの具材としても好まれる。NTTドコモ「みんなの声」における「好きなごはんのお供ランキング」では、「辛子明太子」が一位であった。

 洋食に取り入れられることも多く、ほぐした辛子明太子をマヨネーズと和えて「めんたいマヨネーズ」としたり、バターライスに混ぜたりスパゲッティに用いることもある。

 また、パン屋では明太子をバターやマーガリン、マヨネーズ等と合わせてペースト状にし、フランスパンに塗った「明太子フランス」がよく売られている。

*Wikipedia より

 「いわしめんたいこ」

 博多土産いわし明太とは?そのこだわりとお客さまの声 2022.02.28

 博多土産の定番「いわし明太」とは
 「いわし明太」とは、いわしに辛子明太子を詰めた博多土産です。
 グリルで香ばしく焼き上げると、ジューシーないわしの身に、「プチプチ」と粒感よく焼き上がった明太子のコクのある辛さがよく合います。
 こんがりと香ばしい香りと脂ののったいわしの身の食感が、あつあつのごはんに合うのはもちろん、明太子の辛さがお酒のおつまみにもピッタリです。

 「いわし明太」の食べ方
 ご自宅で調理する場合は魚焼きグリルがオススメ!直火で焼く魚焼きグリルは素早く焼けて、旨みを逃さず美味しく仕上がります。
 グリルの後片付けが面倒という方は、アルミホイルを引いて焼くとお手入れが簡単です。
 

 原料へのこだわり!やまやの「いわし明太」は国産マイワシ使用
 やまやの「いわし明太」の原料は、国産のマイワシを使用しています。
 いわしは、ウルメイワシ、カタクチイワシ、マイワシの3種類がよく知られています。一般に「いわし」というとマイワシをさし、ふだん魚屋さんで見かけるのもこのいわしです。
 サイズが20cm以上の大きめのマイワシを仕入れ担当が厳選し、自ら焼いて味を吟味し、仕入を行います。見た目だけではなく脂のりにもこだわったいわしです。

 丁寧な下処理でいわしの美味しさをキープ
 仕入れた原料は劣化しないよう専用シートをかけて保管し、塩水へつけて臭みがでないように丁寧に処理を行っています。
 いわし自体に調味は行わず、ピリ辛に調味した明太子をいわしの腹にたっぷり詰めます。味付けはシンプルですが、いわし本来の味わいと明太子の旨みを堪能していただけます。

 「いわし明太」はどこで買える?
 今回は、やまやの「いわし明太」をご紹介いたしました。
 原料にこだわった「いわし明太」をお買い求めの際はやまや直営店のほか、福岡県内の駅・空港・サービスエリア・お土産売場にてお求めいただけます。
 お取り寄せはぜひ、オンラインショップをご利用ください。LINEお友だち特典として新商品情報やお得なLINE限定のスペシャルクーポン、シークレットセール情報、やまやの商品を使用した絶品レシピなどの最新情報をお届けいたします!

*お客さまの声は割愛しました。

*https://www.yamaya.com/research/categories/detail/153 より

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<料理用語-和食> 鯉濃

2024-05-29 07:38:45 | 料理用語

 「鯉濃-こいこく」

 正確には鯉濃漿(こいこくしょう)と言う。

 「こいこく」の料理作法は種類があるが、一例を。
 ・苦玉(胆嚢)を避けて(鰓下から指三本目にある)胆汁が身に付いたら洗っても渋みは落ちないから注意。
 胴体を輪切りにし、金串を打ち焼く。
 それを水から4時間ほど中火で茹でる。
 味噌を溶きいれ、薬味を散らして饗する。

 ※鯉料理は必ず生きた鯉を使う

 ※筒切りにして使うが、内臓はつけたままでも、抜いてから煮てもよい(普通は苦玉以外の内蔵はつけておく)

 ※簡単で食べやすい作り方は水にたっぷりの酒を加えて茹でたあと、味噌を溶き入れる方法(内蔵をとっておいたほうが臭みがなく食べやすくなる)

※汁に合わせる「つま」には、ゴボウや大根などの根菜類がよい。青みはネギや三つ葉、吸い口には粉山椒など

*https://temaeita.net/top/t2/kj/9_G/04.html より

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<異名-食べ物> 海の牛肉

2024-05-29 07:36:03 | 異名

 「海の牛肉 海苔」

 海の牛肉といわれるほどたんぱく質が豊富な海苔。

 若さを保つのに欠かせないビタミンA・C・Eを全て含んでいるうえ、特に女性に不足しやすい鉄分やカルシウムも豊富に含まれています。

 さらに、海藻類にはあまり知られていませんが、タンパク質が多く含まれています。
 そのため、「海の牛肉」と呼ばれるようになりました。

 大切な栄養素が多く詰め込まれているのに、カロリーはほとんどないため、ダイエットなどにも使えるいいことずくめの食品です。

*https://www.alias-food.com/seafood/sea-of-beef より

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<難読漢字-鳥類> 鵜

2024-05-29 07:32:53 | 難読漢字

 「鵜 う」

 ウ科(鵜科、ウか、Phalacrocoracidae)は、カツオドリ目に分類される科。

 名称
 漢字の「鵜」(テイ)は元々中国ではペリカンを意味し、「う」は国訓である。ウを意味する本来の漢字は「鸕」(ロ)である。

*Wikipedia より

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<慣用句・諺> 亭主の好きな赤烏帽子 など

2024-05-29 07:24:45 | 慣用句・諺

 「亭主の好きな赤烏帽子-ていしゅのすきなあかえぼし」

 烏帽子は黒塗りが普通であるが、亭主が赤い烏帽子を好めば家族はそれに同調しなければならない意から、どんなことでも、一家の主人の言うことには従わなければならないということのたとえ。亭主の好きな赤鰯 (あかいわし) 。

 

 「亭主八盃、客三盃-ていしゅはっぱいきゃくさんばい」

 酒席で、主人が客よりも多く酒を飲むこと。客をだしにして主人が酒を飲むこと。

 

 「亭主を尻に敷く」

 妻が夫をないがしろにして、勝手気ままに振る舞うことのたとえ。

 

 「貞女は両夫に見えず-ていじょはりょうふにまみえず」 

 貞節な女性は、亡夫に操を立てて、再び別の夫をもつことをしない。貞女は二夫 (じふ・にふ) に見えず。貞女は二夫を更 (か) えず。

 

 「鄭白の衣食に飽く-ていはくのいしょくにあく」

 《中国で、韓の鄭国と趙の白公の灌漑 (かんがい) 工事により、人々の生活が豊かになったという故事から》生活に不自由がないたとえ。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 山形 月山酒造

2024-05-29 07:17:47 | 日本酒

 「月山酒造」

 月山酒造株式会社(がっさんしゅぞう)は、山形県の清酒製造業を行う酒蔵である。

 沿革
 月山酒造は(株)設樂酒造店(1896年創業、西村山郡西川町)、鈴木酒造(資)(1700年創業、西村山郡朝日町)、(株)八幡屋酒造店(1780年創業、寒河江市)の3社が1972年に設立した会社である。代表銘柄「銀嶺月山」を中心に、それぞれの蔵元で醸される地元銘柄「一声」「豊龍」「白菊」を販売している。

 2018年9月に西村山郡朝日町の鈴木酒造(資)を合併し、月山酒造(株)豊龍蔵となる。

*Wikipedia より

 地元の杜氏、蔵人が丹精こめて丁寧に醸し、雪国山形ならではの味を育んでいます。
 雪と緑と名水の酒蔵-四季おりおりの豊かな大自然の景観が美しい月山。その麓に私共の酒蔵があります。月山の万年雪の雪解け水は地下にしみ込む400年の旅を経て湧き出るロマンの水です。この名水百選の月山の伏流水と高精白した米から『銀嶺月山』は造られます。雪がしんしんと降り積もる厳寒期、地元の杜氏、蔵人が丹精こめて丁寧に醸した雪国山形ならではのスッキリした香り、ふくよかな味わいのお酒です。

 月山酒造株式会社 山形県寒河江市大字谷沢769-1

*https://yamagata-sake.or.jp/pages/33/ より

 代表銘柄

銀嶺月山 純米大吟醸 斗瓶囲い

酒 別 純米大吟醸 斗瓶囲い
アルコール度 16
原料米 山田錦100%
精米歩合 35%
日本酒度 +3.0
酸 度 1.4

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<四国八十八箇所> 第59番札所 伊予国分寺

2024-05-29 07:11:25 | 巡礼

 「伊予国分寺」

 伊予国分寺(いよこくぶんじ)は、愛媛県今治市国分に位置する真言律宗の寺院。金光山(こんごうざん)、最勝院(さいしょういん)と号す。本尊は薬師瑠璃光如来(薬師如来)。四国八十八箇所第五十九番札所。伊予府中十三石仏霊場の第7番霊場。札所寺院としては、単に「国分寺」と称するのが通例である。

 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌:守護のため建ててあがむる国分寺 いよいよめぐむ薬師なりけり
 歴史
 天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。国分寺は『金光明最勝王経』による国家鎮護の寺であり、当寺もそれから山号・院号がつけられている。寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開創し、第三世・智法律師のとき、空海(弘法大師)が逗留し五大明王の画像を、その後、真如は法華経を奉納したとされる。

 史実としては、具体的な創建年は定かでないが、『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)、伊予国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、この頃には完成していたものと思われる。

 興亡を繰り返し、天慶2年(939年)の藤原住友の乱、元暦元年(1184年)の源平合戦、貞治3年(1364年)の細川頼之による兵火などで焼失、また、天正12年(1584年)長宗我部元親の侵攻の際に焼き討ちにあって荒廃したが、そのたびに再興される。焼失を免れた多くの古文書によって律令制衰退後に国分寺の多くが荒廃していく中で同寺が伊予における仏教信仰の中心地として曲がりなりにも維持されてきたことが明らかになっている。

 現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。寺の東方100メートルほどのところに塔の礎石が残されており、かつての国分寺東塔跡と認められている。

 境内

 本堂:寛政元年(1789年)に再建されたもの。
 大師堂
 金毘羅堂:本堂と大師堂の間に棟つづきである
 弁財天祠
 握手修行大師像
 七福神石仏
 薬師如来の薬壺
 書院:奈良時代から平安時代初期にかけての寺宝や文化財、旧国分寺からの出土品を保存している。
 鐘楼
 石槌蔵王大権現遥拝所の石碑:昭和2年仲秋の建立
 数段の石段を上ると右に鐘楼があり、正面の石柱門(両脇に1本づつ桜の木があったが向かって右側が老木にて伐採された)を入ると境内である。すぐ左に手水場(薬壺から水が出る)があり、右には薬師如来の薬壺、握手修行大師像があり、正面に本堂が建つ。本堂の右側に大師堂があり、左に書院、納経所がある。

 宿坊:なし
 駐車場:20台。大型3台。普通車で200円。
 春日神社:1050年(永承5年)当寺鎮守として勧請された。1611年(慶長16年)城主により再建されるが、明治初年神仏分離により167坪が当寺から分離独立。

 文化財

 県指定有形文化財
 紙本金地著色柳橋図:1双、昭和40年3月29日指定
 国分寺文書:3巻、昭和32年12月14日指定
 今治市指定天然記念物
 とうつばき(唐椿):昭和45年3月30日指定
 今治市指定有形文化財
 十二天画像 12幅:昭和40年12月22日指定
 随求菩薩画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 弘法大師画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 不動明王画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 両界曼荼羅図 2幅:昭和40年12月22日指定
 普賢菩薩画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 十六羅漢画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 十三仏画像 1幅:昭和40年12月22日指定
 後西天皇宸筆 1巻:昭和39年2月29日指定
 大般若経 402巻:昭和40年12月22日指定
 綸旨院宣奉書等通直判物 1巻:昭和39年2月29日指定
 霊乗上人言上状附綸旨庁宣等案 1巻:昭和39年2月29日指定
 坪付 1巻:昭和61年4月2日指定

 伊予国分寺 愛媛県今治市国分4-1-33

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