「三川内焼-みかわちやき」
Description / 特徴・産地
三川内焼とは?
三川内焼(みかわちやき)は、長崎県佐世保市周辺で作られている陶磁器です。呉須(ごす)という顔料を使った、白磁(はくじ)への青い染付け(そめつけ)が特徴的で、シンプルながらも目を惹く鮮やかな青を使った三川内焼きは、長い間高級品として位置づけられてきました。
三川内焼でよく用いられる絵柄が唐子絵(からこえ)です。柔らかく丸みを帯びた筆さばきが、どこか温かみを感じさせます。もともと中国の明から派生したもので、唐子絵は男児を表現していることから、繁栄や幸福の意味がこもった縁起物として描かれ始めました。明治以降においては、個性的な唐子絵もよく描かれています。
三川内焼の特徴は、「透かし彫り」や「手捻り」といった技法を用いた、繊細で躍動感のある造りです。ひとつひとつ手作業で丁寧に細工を施された焼き物は、食器などの日用品としてだけでなく、花瓶や置物など、贈り物用としても親しまれています。
History / 歴史
三川内焼 - 歴史
三川内焼は、1592年(天正20年)と1597年(慶長2年)ごろに行われた、豊臣秀吉による朝鮮出兵がルーツとの説が有力です。その一説によると、当時佐世保市周辺を治めていた平戸藩の領主であった松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が、朝鮮の陶工であった巨関(こせき)ら100名ほどを連れ帰り、窯を開かせたとされています。日本に伝わった当初は、主に陶器が作られていましたが、1640年(寛永17年)頃、巨関の子である今村三之丞(いまむらさんのじょう)の白磁鉱の発見により、徐々に現在の白磁へと姿を変えていきます。
1650年(慶安3年)ごろになると、御用窯の体制が確立していき、平戸藩自体が三川内焼の庇護を積極的に行っていきました。そして、江戸幕府への献上品としても納められるようになり、さらに17世紀後半には、中国やヨーロッパなどの海外にも輸出されるほどの、国内外から注目を集めた陶磁器だったと言います。
庶民の生活とは一線を画した三川内焼でしたが、明治以降は庶民にも行き渡り、広く愛されるようになりました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/mikawachiyaki/ より
白磁の輝き、青の濃淡
薄手の白磁(はくじ)に青一色で描かれた器は、一見地味に見えるが、手にとると繊細な輝きを放つ。三川内は平戸藩御用窯として栄え、近年は業務用食器を主流としてきたが、一般家庭むけの陶器づくりを模索している。
白磁の輝き
九州・佐賀の佐世保に近い三川内山(みかわちやま)。天満宮のすぐ手前に、平戸洸祥窯(ひらどこうしょうがま)がある。400年前に平戸藩御用窯の創設に大きくかかわった陶工のひとり、中里えい(なかざとえい、高麗媼=こうらいば)の直系で、明治より昭和16年まで、宮内省御用達を拝命してきた由緒ある窯元である。
工房の隣にあるギャラリーにでは、青の濃淡で描かれた白磁が日の光に透き通って、美しい輝きを放っていた。
17代目当主の伝統工芸士、中里一郎さんと、妻の由美子さんは、ともに伝統工芸士。一郎さんが器の形と窯の経営を担当し、由美子さんが絵付を一手に引き受ける。呉須(ごす=青い色を染める絵の具)で濃(だみ=青の濃淡で塗る)を入れながら、由美子さんは、「夫婦二人でやらないと完成しないんですよ」と微笑んだ。
三川内焼の歴史~御用窯から民窯へ、業務用から一般家庭用へ~
三川内焼は、激動の歴史の中にあって、輝きを増してきたといってもよいだろう。中世には南蛮貿易港として繁栄した長崎・平戸の港が近くにある三川内の皿山は、豊臣秀吉の朝鮮の役を契機に、二十六代平戸藩主松浦鎮信(しげのぶ)が連れ帰った李朝陶工のひとり、巨関(こせき)が、陶石に恵まれた三川内の地に窯を置いたのが始まりである。藩用作陶所が開かれ、御用窯として盛大に発展すると同時に、オランダや中国へむけた輸出用陶器の開発も盛んになった。
慶長4(1868)年、徳川幕府が倒れると、御用窯であった三川内も民窯に転じた。しかし、早くから民窯としての経営実績をもっていた近隣の有田や伊万里と競争できるはずがなく、存亡の危機に瀕した。その後、販路拡張や意匠伝習所の創設などの甲斐あって盛り返し、料亭などで使われる業務用食器の生産が主流となり、近年は一般家庭用の食器生産にも力を入れるようになった。
三川内焼の伝統を背負う
平戸洸祥窯は、高級品から日用食器まで、幅広く手がけている。最近は、介護用食器にも力を入れている。中里さん夫妻が作る介護用食器は、三川内焼独特の白磁の美しさと温かみに加え、持ちやすさに工夫が凝らされていて、使いやすいと評判だ。
一郎さんは、生家が窯元であったため、幼い頃から窯を見ながら育った。中学生になれば、窯焚きや土を踏む手伝いをさせられた。「窯と一緒に育ったようなものです」と一郎さん。
400年続く窯元といえども、産業として三川内の窯元の看板を背負うのは並大抵ではない。先祖から受け継いできた伝統を守りぬきながらも、時代の求める新しいものを生み出そうと切磋琢磨する。ひとつの形が完成したら、消費者に飽きられないよう、常に新しいものを生み出す。その繰り返しなのだそうだ。『これがいいね』と言われるようになるまで、ひたすら探求の毎日です」と、一郎さんは語る。
新しい時代を担う後継者
中里さん夫妻の長男、太陽(たいよう)さんは、昨年、若手工芸家国外派遣の研修生に選ばれ、2000年10月から2001年2月までの半年間、オランダ随一の陶器産地デルフトで染付と色出しを学んだ。「これから自分がやっていくうえで、とても良い時間を過ごすことができました」と太陽さん。オランダ王立製陶所ロイヤル・ポーセリン・フレス社で2週間の実地製作を経験する機会にも恵まれた。伝統工芸の職人は、一人前になるために長い時間を必要とする。 「三川内の伝統的な染付絵を大切にしながら、父にはない自分らしいものを見つけていきたい」と抱負を語る太陽さんが、とても頼もしく感じられた。
結婚の記念にもどうぞ!
平戸洸祥窯では、お客さん一人ひとりの希望にもっとこたえていこうと、注文陶器を作り始めた。絵や柄もお客さんの好みを聞いて描く。問屋を通さず窯元に直接注文してもらえば、ふだん使いの和食器をひととおり揃えても、同じ値段で市販されている食器より1グレード良いものができる。奥さんの由美子さんが絵付した小鉢のセットは、娘さんの結婚式の引き出物として大好評だったそうだ。「希望されるお値段の範囲で、世界にひとつしかない和食器セットが作れます。食卓を揃えたい方はぜひご相談ください」と一郎さん。
伝統工芸士が絵付をほどこす、自分だけの器。新婚の食卓が白磁の輝きに彩られるなんて、素敵ではないか!自分が気に入ったものにはお金をかける今の時代、ちょっと贅沢な、こんな楽しみ方が増えてくるかもしれない。
こぼれ話
唐子の献上品、平戸藩御用窯
三川内焼のモチーフである唐子(からこ)模様は、愛らしい中国の子どもが扇を持って蝶を追い、松と牡丹のそばで戯れている様子を描いています。唐子絵は、平戸藩の御用窯・三川内の他では焼くことが許されない「お止め焼き」とされました。描かれる唐子の人数により、七人唐子は「献上品」として諸国大名へ献上され、五人唐子は藩の公用品、三人唐子は一般品と区別され、明治までは庶民が使うことを許されませんでした。
その薄手白磁の美しさは国内にとどまらず、国外にも販路を広げました。17世紀の大航海時代には、南蛮貿易で栄えた平戸の港からは、オランダや中国へむけて、薄手のコーヒーカップなどが輸出され、王侯貴族たちに愛されました。
*https://kougeihin.jp/craft/0426/ より
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます