ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 遠野物語 』 - 5 ( 「縁無き衆生は、度し難し」 )

2021-12-25 21:06:10 | 徒然の記

 「縁無き衆生は、度し難し」という言葉があります。

 「すべてのものに慈悲の心で接する仏様でも、仏縁のない者を救うことはむずかしい。」という意味です。仏縁のない者とは、信心する気持ちのない、不心得者とでもいうのでしょうか。

 この意味が転じて、現在では、次のような場合に使われます。

 「どの世界でも、結局縁のない者に理解させたり、納得させたりすることはできない。」「箸にも棒にもかからない。」

 前置きが長くなりましたが、初版本『遠野物語』を読み終えた感想です。

「『遠野物語』一巻百十九則、およそ地勢時令、風俗信仰、花木鳥獣、ことごとく記述あり。」「家神、山人、狼狐猿の怪等に関することは、ことに詳しく、」「出版当時において、洵に唯一無二の作であったが、」「それ以後においても、これと比肩できるものは甚だ少ない。」

 中国の作家・周作人は、私と同じ書を読み、上記のように称賛しました。「一巻百十九則」というのは、話の一つずつに振られた番号のことで、確かに、119番目で終わりです。ページ数にして、たったの52ページですが、最後まで「取り止めのない話」でしかありませんでした。

 有名作家や学者がこれほど高く評価しているのに、最後まで心を動かされることなく読みましたので、自分のことを「縁無き衆生」と言わずにおれなくなりました。

 それでも構わないのですが、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々の中に、意見に同意される人がいないものかと、二つの例を紹介します。

「 59 」

 「佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より帰しに、」「村に近き谷川の崖の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。」「横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。」

 「祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。」「この皮は欲しけれど、御犬は必ずどこか、」「この近所に隠れて、見ているに相違なければ、」「取ることができぬと言えり。」

 「59」の話はこれで終わりです。 

 「遠野物語が私に与えた印象は、甚だ深く、」「文章のほかに、それはまた私に、」「民俗学中の、豊富な趣味を指示してくれた。」

 周氏の書評には、こう書いてありました。この話のどこに「民族学中の豊富な趣味」が読み取れるのでしょうか。

「 100 」

 「船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に、吉利吉里 ( きりきり ) より帰るとて、」「夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて、一人の女に逢う。」「見ればわが妻なり。」「されどもかかる夜中に、一人この辺りに来べき道理なければ、」「必定化け物ならんと思い定め、やにわに魚切り包丁をもちて、」「後ろの方より刺し通したれば、」「悲しき声を立てて、死にたり。」

 いくらこんなところで会うはずがないと言っても、確かめもせず、包丁で刺し殺すとは、ひどい話です。

 「しばらくの間は、正体を現さざれば、さすがに心にかかり、」「後のことを連れの者に頼み、」「おのれは馳せて家に帰しに、妻はこともなく家に待ちており。」

 次が、妻の話です。

 「今恐ろしき夢を見たり。」「あまりに帰りの遅ければ、夢で途中まで見に出でたるに、」「山道にてなんともしれぬ者に脅かされて、命を取らるると思いて、」「目覚めたりと言う。」

 そこで男が元の道へ戻り、連れの者に確かめると、女は一匹の狐になっていたと言います。「100」の話も、これで終わりです。と言うことで、自分のことを「縁無き衆生」と言わずにおれなくなりました。

 「縁無き衆生」であっても、学徒ですから、探究心は無くなりません。次回は、続編『遠野物語拾遺』です。

コメント (2)
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