今回は、著書の書き出し部分から始めます。
「第二次世界大戦は、昭和18年に入ると、いよいよその規模を大きくし、」「戦争による破壊は、世界のあらゆる地域にわたり」「悲劇的様相を、呈しはじめていた。」
「ヨーロッパ戦線においても、太平洋・東南アジア地域においても、」「次第に枢軸側の敗色は濃くなって来ていたが、この戦争の過程をひとまずおいて、」「当時日本政府が、この戦いを〈大東亜戦争〉と呼んだ、」「もう一つの太平洋戦争の側面に、スポットを当ててみよう。」
ここからは、戦後の日本を呪縛し続けた「東京裁判史観」が、どのような経緯をたどり、左翼学者の間に生まれたのかが、説明されます。
「太平洋戦争を正当化する立場からは、この戦争が、アジアの諸民族を、」「西欧帝国主義から解放したのである、と主張される。」「そしてこの戦争を、〈侵略戦争〉とする立場からは、」「逆に日本は、一層露骨な帝国主義支配を行おうとし、」「アジアの民族運動は、日本帝国主義に反抗することによって、」「初めて発展したのであると、主張されるのである。」
「では一体、〈大東亜戦争解放戦争〉の実体は、どんなものであったのだろうか。」
氏がどのような説明をするのか、学徒としての関心が湧いて来ました。私にとって、知りたいと言う気持ちがずっとあった疑問の一つです。
「昭和17年1月21日、東條英機首相は、第79議会で演説した。」
この演説は、「大東亜建設宣言」と呼ばれたものだそうです。
「香港及びマレー半島は多年イギリスの領土で、東亜侵略の拠点であったから、」「この禍根を徹底的に排除し、大東亜防衛の拠点とする。」「フィリピン、ビルマについては、民衆が帝国の真意を了解し、」「大東亜共栄圏建設に協力してくれる場合は、」「喜んで独立の栄誉を、与えよう。」
「インド、オーストラリアは、抗日を続ければ容赦なく粉砕するが、」「住民が協力すれば、その福祉と発展に力を添えよう。」
〈大東亜共栄圏の建設〉というスローガンは、昭和11年の広田内閣で決定した「共存共栄主義」からの、一貫した指導精神だったと氏が説明します。その後昭和15年の「第二次近衛内閣」の時、「八紘一宇の精神」に基づき、「大東亜の新秩序を建設する」と言う方針が出されました。
「これらのことから分かるように、大東亜戦争という呼称は、」「特殊のイデオロギーを基礎とした、呼び方であった。」
この辺りから、少しずつ氏の論調が変化し始めます。
「イギリス、オランダ、フランスなどの植民地として、圧政に苦しんでいた南方諸民族の間には、」「兼ねてから民族自立を求める風潮が強く、特にロシア革命後は、」「共産主義的思想を拠り所とした、民族解放運動も、根強く続けられていた。」
「これに対する〈東亜新秩序〉の観念は、日本を指導者とする〈大東亜共栄圏〉構想に発展した。」
ここまでくると、左翼学者としての氏の姿が明確になります。氏は読者に対し、二つの思想を並べて見せます。
1. ロシア革命後に広まった、共産主義的思想を拠り所とした〈民族解放運動〉
2. 天皇を中心とし、世界を一家とする〈大東亜共栄圏〉構想
説明するまでもありませんが、氏は「共産主義的思想を拠り所とした、〈民族解放運動〉を素晴らしいものとし、日本の〈大東亜共栄圏構想〉を否定します。
「しかし、〈大東亜共栄圏構想〉の実態は、スローガンだけが打ち出されたものの、」「具体的な南方統治策が、何一つ用意されていなかったので、」「全て泥縄式の、不手際な結果に終わっている。」
「軍政実施も、陸海軍が別々に担当し、」「海軍は、担当地域の永久確保の方針さえ決定した。」「そのうちに、軍政の行き過ぎから、民心を失うところも出てきて、」「〈占領地帰属副案〉なるものができた。」「大東亜共栄圏が仮面に過ぎなかったことが、ここにも現れている。」
氏の著書が出版された昭和41年は、反日左翼学者が学界、政界、マスコミ界を席巻していた時です。彼らはソ連を「人類のユートピア」を実現した国と憧れ、中国の文化大革命も、素晴らしい国づくりのための、「産みの苦しみ」と賞賛していました。文化大革命での推定死者数が、数十万人から2,000万人に及ぶと言われている現在、氏はなんと言い繕うのでしょう。
氏は大東亜共栄圏が仮面に過ぎなかったと切り捨て、昭和17年の東條首相の演説の一部を紹介しています。全文が公開情報なので、氏が省略した部分を息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々に紹介します。