『遠野物語拾遺』を、32ページまで読みました。振られた番号は、69です。柳田氏の叙述にもだいぶ慣れ、違和感が薄れてきました。相変わらず、少しずつしか読み進めませんが、ここまでで発見できたことが三つあります。
1. 信心深い人は、神様が助けてくださる
2. 人を騙すような悪いことをする者は、神様が罰を下される
3. 権現様、地蔵さま、龍神、明神様、狼様など、八百万( やおよろず )の神様が扱われている
4. 氏の文章は簡潔で、推敲された名文である
似たような話が沢山あり、村人や若者や娘、町人や漁師など、登場人物は様々ですが、どの話にも 1. 2. の戒めが含まれています。土地の言い伝えとして、「勧善懲悪」の教えが代々受け継がれていたのでしょうか。
3. 番目になりますと、間違いなく日本の民話です。キリスト教やイスラム教など一神教の国では、おそらく一つの神様しか語られないのでしょうが、日本では様々な神様が現れます。八百万( やおよろず )の神様がおられる、日本ならではの民話です。
氏の本を読み進むと、助けてくださる神様を信じ、人を騙すような悪いことはやめよう、という気持ちになってきます。そうすると、「度し難き、縁無き衆生」でない私となります。この心境の変化をもたらしたものは、おそらく「不思議な氏の文章」です。
何でもない叙述ですが、他の人が書けば、場面の説明、人物の説明、事件の顛末など、沢山の言葉が費やされたはずです。しかし氏は、無駄のない表現で、簡潔に核心を伝えます。
「 43 」
「青笹村の御前の池は今でもあって、やや白い色を帯びた水が湧くという。」「先年この水を風呂に沸かして、多くの病人を入湯せしめた者がある。」「たいへんによく効くというので、毎日参詣人が引きも切らなかった。」
「この評判があまりに高くなったので、遠野から巡査が行って咎め、」「傍にある小さな祠まで足蹴にし、さんざんに踏みにじって帰った。」
「するとその男は帰る途中で、手足の自由が効かなくなり、」「家に帰るとそのまま死んだ。」「またその家内の者たちも病にかかり、死んだ者もあったということである。」「これは、明治の初め頃の話らしく思われる。」
実在の巡査がいたのでなく、kiyasumeさんが助言してくれたように、一つの比喩だと思います。善良な庶民の信仰を、力づくで破壊してはならないという、戒めなのかもしれません。左翼の人々は、弱い庶民を苦しめる国家権力への怒り・・と、読むのかもしれません。
「 74 」
「土淵村山口の南沢三吉氏のオクナイサマは、阿弥陀仏様かと思う仏画の掛け軸くであるが、」「見れば目が潰れるから、見ることができぬと言っている。」「大同の家のオクナイサマは木像で、これに同じ掛け軸がついているのであるが、」「南沢の家は、こればかりである。」
「他に南無阿弥陀仏と、書いた一軸の添えられていることは、」「両家共に同様であった。」
「この南沢の家では、ある夜盗人が座敷に入って、」「大きな箱を負うて逃げ出そうとして、手足動かず、」「そのまま箱と共に、夜明けまでそこにすくんでいた。」「朝になって家人が見つけびっくりしたが、近所の者だから、」「早く行けとののしって帰らせようとしたが、どうしても動くことができない。」
「ふと気がつくと、仏壇の戸が空いているので、」「すぐオクナイサマに燈明を上げて、専念にその盗賊にお詫びをさせると、」「ようやくのことで五体の自由を得た。」「今から、八十年ばかりも前の話である。」
悪いことはでなきないものだと教えられると同時に、真心からお詫びをすると、神様が許してくださるということも学びます。泉鏡花に言われる如く、再読三読しますと、文章の巧みが分かり、推敲を凝らした名文だから、読む者の心を変えるのだと教えられます。
柳田国男氏を少し理解したところで、スペースがなくなりました。続きは次回といたします。