家永三郎氏は、『歴史の教訓』という題で講演しています。内容に入る前に、氏の略歴を紹介します。
「大正2年、愛知県生まれ、平成14年に89才で没。」「日本の思想家として著名。」「東京教育大学の教授を長く務め、東京大学や東京女子大学でも、日本思想史の講義を担当。」「父君は、陸軍少将・家永直太朗氏。」
氏の講演を紹介します。
「私の掲げました題目は、ごらんになっただけでは、なんのことか分からないだろうと思います。」「歴史を勉強していますので、歴史家の立場より、過去の歴史の中から、我々が学ぶべきものを汲み取り、憲法との関連で考えてみたいと名づけた次第です。」
「今から80年ほども遡る、明治10年代のことでありますが、われわれ日本人が、かってまだ近代的な憲法を持たなかった時代です。国内において、二つの意見が激しく対立していました。」
「民間では、極めて民主主義的な憲法を作ろうとする、強い動きがありました。明治10年前後まで、非常に高まっておりました民主的な憲法を作ろうとする国民の意識が、切り崩されまして、結局前近代的な、天皇制イデオロギーを中核とする明治憲法が、国家権力の一方的なイニシアチィブで作られてしまいました。」
明治の初期に元勲たちが、西欧文明と日本との国力の差にいかに驚嘆したか。一日も早い日本の近代化のため、どこに力を注いだか。西欧列強の植民地支配の恐ろしさを知っているだけに、どれほどの危機感を抱き政治の舵取りをしていたか。
氏は歴史家と自らを紹介しているのに、元勲たちの政府を糾弾するだけで、当時の状況を少しも語りません。前回のブログで戒能氏が語っていたように、日本には全体として個人の意識がなく、人権の概念さえありませんでした。家長氏の話を聞きますと、当時の日本で、民主主義と国家主義の二大勢力の対立があったように聞こえます。
「政府は、権力をもって自由民権運動を弾圧すると同時に、教育を強く統制することによって、国民意識を根本的に切り替えようとするに至ったのであります。」「学校では、基本的人権を教えるより、むしろ権力者に対する、国民の従順な気持ちを養成しようと、こういうことになってしまったのであります。」
「当時の教科書で、愛国という言葉が使われておりますが、もとより広い意味での愛国ではなく、軍国主義的な、あるいは民主主義と切り離された、国家主義という意味での、愛国というものを意味するものであります。」
「明治初年からその後期にかけて、日本の教育政策が大きく転換していった経過を、あらまし申し上げました。」「教育を通して与えられる影響が、どんなに大きなものであるかということは、われわれが自分の過去を振り返ってみれば、よく分かることです。」
「最近読んだ本のことは忘れても、小学校時代に教わった教科書の内容は、挿絵とか文章の配列に至るまで、ありありと思い浮かべることができるくらいです。」「そういう大きな影響力を持つ教育が、政府の権力によって切り替えられましたことを、明治の歴史で学びました。」
「私は、単にこういう事実が昔あったことを申したいのでなく、実はそれとまったく同じことが、私たちの目の前で繰り返されていると、申し上げたいのです。せっかく日本国憲法の精神が、国民に浸透してきた時だというのに、政府が教育を通じてこれをなし崩しにしようとしているのです。」
占領軍の対日本政策が、民主化より再軍備へと変わったため、政府の主張も再軍備へ向かい、憲法改正へ動いていると氏が説明します。この意見について私は、半分当たっているが、半分は間違っていると考えます。
日本の保守政治家なら、アメリカの政策がどうであっても、憲法改正が頭にあるはずです。アメリカに魂を売り渡した宮沢教授でさえ、マッカーサーの憲法押しつけは「国際法違反」と知っていたのですから、保守政治家たちがいつまでも黙っているはずがありません。
立派な言葉が使ってあるからといって、国情に合わない憲法を有り難がっているというのは、私のような庶民でも屈辱と思えいます。
ネットの世界では、先日の宮沢氏と同様、家永氏についても多くの批判意見があります、真偽は確認できませんが、その一つを参考情報として紹介します。
「家永は当初から反権力志向だというわけではなく、青年期には、陸軍士官学校の教官を志望していた。試験に合格しても、胃腸に慢性的な持病があり、身体検査で落とされるという経歴を持っている。」
「戦後は昭和天皇にご進講したり、学習院初等科の学生だった皇太子殿下に、歴史をご進講するなど、皇室との関わりを持っていた。」「昭和22年出版の『史学雑誌 』に、〈教育勅語成立の思想史的考察〉という論文を出し、昭和23年には、斎藤書店から出版した本に、〈日本思想史の諸問題〉という論文を掲載し、この中で家永は、明治天皇と教育勅語を高く評価している。」
「また、昭和22年に冨山房から出版した『新日本史』でも、明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も数年間は、穏健かつ保守的な史観に依拠する立場を取っていた。」
論文や文章が掲載されていないため、紹介できないのが残念ですが、それらがあれば、氏の変節ぶりが一目瞭然になったはずです。
氏を批判した人物とっても、氏の変節に疑問であるらしく、あまり要領を得ない文章ですが紹介します。
「家永の思想が、反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる、昭和25年代の社会状況に対する反発が背景にあり、そのころに、憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。」
所謂教科書裁判で名を馳せた、家永三郎教授も、戦前と
戦後で思考や見解を大きく変えた学者の一人でした。
教科書検定のあり方に、常に公正を求めて監視するのは
良いですが、だからと言って、明らかに自虐的な文言の
濫用を許すのは、趣旨が違うと心得ます。
家永教授も、朝日新聞との繋がりが指摘されますね。
まあ方向性は似たり寄ったりですから、成行き上そう
なったとの見方もできましょうが。
今回も、有難うございます。
著名人になるほど、変節を告白するのが難しいのだと思います。しかし、少なくとも日本の指導的インテリとして、責任感は持ってほしいですね。
敗戦後に、世捨て人となった人や、神仏に祈る生活をした人もいるのですから、そういう潔さが、リーダーとなる人には求められています。
我欲の捨てられない学者や思想家は、日頃高尚なことを言っているのですから、変節を責められ、軽蔑されても致し方なしです。