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変節した学者 たち - 8 ( 朝日新聞が捏造した、家永氏像 )

2017-02-25 19:02:03 | 徒然の記

 もう一日だけ、家永氏について語ろうと思います。

 昭和24年に東京教育大学の文学部教授となった後、氏は次第に反権力的自由主義者として有名になっていきます。

 昭和29年には教育基本法と学校教育法、いわゆる「教育二法」が「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、反対運動に参加しました。同じ年に「東大ポポロ事件」の第一審判決があり、この判決を支持しました。

 ポポロ事件とは、昭和27年に東大の学生たちが、「松川事件」を題材にした演劇の発表会をしていた会場に、監視のため私服警官が混じっていたのを発見し暴行を加えたというものです。

 裁判所の一審判決は学生に対し、大学の自治を理由に無罪を言い渡しました。事件は朝日新聞等で連日大きく報道され、世間を賑わせました。昭和34年に、氏は東京都教組の勤務評価反対裁判に証人として出廷し、東京教育大学への不法捜査に対して、警察庁に抗議をおこないました。

  氏を有名にしたのは、東京教育大学 ( 現筑波大学 ) の移転問題です。経過の記録がありますので紹介します。

  •  昭和34年 キャンパスの敷地の狭隘さを理由として、三輪学長により提案された東京教育大学のつくば移転計画を巡り、教育学部、理学部、農学部、体育学部が賛成するが、家永をはじめとする文学部は人文科学の研究・教育にとって、史料が豊富にある東京に残ることが必須であると主張し強く反対した。
  •  昭和42年 長期にわたる議論を経ても合意に至らず、東京教育大学評議会は筑波における土地取得を開始した。
  •  昭和43年  移転に反対する文学部自治会の学生が、大学本部のある本館を占拠するなどし紛争が激化した。学生たちは教授陣はすべて権力側であるとみなし、反対派の家永に対しても激しい罵声を浴びせた。
  •  昭和44年 学長事務取扱(学長代行)が機動隊の入構を許可し、学生を排除。家永はこれをクーデターであると批判した。
  •  昭和45年 大学評議会は、文学部の教授、助教授、専任講師の人事権に制限を加え、筑波移転に賛同しないものの採用を停止し、元文学部長、前文学部長、および家永の3人の文学部教授の辞職を、文学部教授会に要求した。
  • 文学部教授会はこれを拒否し、家永は筑波移転問題を「反動文教政策」の一環であると述べ、教授陣による自治的な大学の運営体制を、学長を中心とした中央集権的な運営に移管させることだと反対し、この紛争は、政府および財界が、大学への介入をもくろんだことが原因であると主張した。
  •  昭和48年 筑波大学法が制定され、筑波移転が正式に決定した。筑波移転に伴い文学部の学生募集が停止され、昭和52年の家永の定年退官時には、同学部定員がほぼゼロとなっていた。家永は、筑波大学について「きわめて非民主的な、従来の国立大学とは全く異質」の大学であると述べている。

 移転問題を詳しく転記したのは、紛争の中心人物が家永氏であったからです。学生たちの騒ぎは、権力をかざす政府や大学と戦う姿として朝日新聞を賑わし、さらに氏を有名人にしました。けれども私は、別の見方をします。未来の学園都市を作ろうとする政府に逆らった、氏の理由を思い出してみましょう。

 「人文科学の研究・教育にとって、史料が豊富にある東京に残ることが必須である。」と、こんな理由は文学部の教授には重要だとしても、他の学部や、大学の未来計画を無視するほどの理由でしょうか。私はここに、氏の学者としての狭量さを見る気がしてなりません。

 次もネットの情報ですが、戦う自由主義者として、氏の名前を高めた活動記録です。朝日新聞を筆頭に、マスコミ各社が支援の記事を書きました。

  • 昭和30年 自身が執筆した高校歴史教科書『新日本史』の再訂版の、検定合格条件を巡り文部省と対立した。
  • 昭和32年 第三版が検定不合格となり、文部省に抗議書を提出した。
  • 昭和38年 『新日本史』第五版が一旦検定不合格、翌年に条件付きで合格した。この際に300余りの修正意見が付され、家永は教科書検定制度に対する反対意見を強めた。
  • 昭和40年 教科書検定違憲訴訟を提起。
  • 昭和42年 『新日本史』が再び不合格となり、検定不合格の取り消しを求める訴訟を提起した。 
 氏が亡くなった時、朝日新聞の記者が追悼記事を書きました。朝日新聞の記事捏造は、当時から変わらなかったことが分かります。サンゴ礁の損傷記事、慰安婦の大嘘など、いずれも社長が辞任した捏造報道ですがこれも同類です。

「朝日新聞は、家永が死去した際の追悼記事(平成14年12月2日付。高橋庄太郎記者による署名記事)で、」「氏の父親を「陸軍将官」と表記していた 。」「しかし4日に出された訂正記事で、「陸軍軍人」の誤りであったとしている。」
 
 「この追悼記事では、父に先立たれた家永が、貧しい生活の中で、」「学問に打ち込んだ、と書かれていたが、」「父が死んだのは家永が35歳のときであり、既に史料編纂所に勤務して2年が経過していた。」
 
 「また、陸軍少将の恩給は、父が死ぬまで月額240円前後が支給されていた。」「小学校の校長の月給が100円前後の時代である。」「このエピソードを紹介した、元日大教授秦郁彦は、貧しいとは言いかねるのではないかと指摘し、」「この「訂正」が、家永のイメージ作りのための曲筆ではないかと見ている。」
 
 国民が気づかなければ、誤報でも嘘でも頬かむりする朝日新聞の、というより、日本のマスコミの卑しい心情が表れています。日本に巣食う「獅子身中の虫」、「駆除すべき害虫」と、これまでブログで述べてきました。岩波新書の『憲法と私たち』を再読し、執筆している学者たちがまさしくこれだと発見しました。だから、少しくらい面倒でも、虫たちの実態を明るいところへ出したいと頑張りたくなります。
 
 亡国の憲法を守り、日本の再生を妨害している彼らの実像を知れば、騙される人間が一人でも減れば良いと考えます。
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2 コメント

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曲解の、家永見解 (HAKASE(jnkt32))
2017-02-26 09:19:38
お早うございます。八限目の貴授業も、拝読しました。

家永元東京教育大教授の、決して全うとは言えない「曲解の軌跡」
が、改めて確かめられた様に思います。

旧文部省、現文科省の教科書検定制度も万能とは言えませんが、
対する家永教授の問題提起も、真に健全な立場からだったか?
と問われれば「そうだ」と即答する自信はありません。

筑波移転の反対理由も、首を傾げるものがありまして。
文学部資料などの不便かららしいと言われましても、
東京都から茨城県へ移るだけの事。合理的な反対理由とは思えず、
「他意があったのでは?」と思われても仕方がないと心得ます。
拙邪推も入りますけれど、同氏に同調して反対運動の
挙に出た学生複数と言う話もある事から、或いは、
容共系学生運動を支援する様な行為との絡みも疑われる所だったかと愚考する次第。

家永教授没後の、朝日新聞記事の扱いも杜撰ですね。
同氏の父君の軍のお立場を間違えたり、失われた時季の取り違えなど、
とても「我国を代表するクォリティ・ペーパー」の所業とは言えません。
道理で近年、目立って部数を落としているはずだと思いました。

ご存じの様に、その事は、戦後の長きに亘り、我々が
いかにその様な粗雑記事に惑わされ、踊らされ続けて来たかの裏返しでもありますね。
愚か者ながら、大きな反省点です。今回も、有意義な講釈に一礼です。
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惑いつつ、ためらいつ。 (onecat01)
2017-02-26 11:16:16
HAKASEさん。

 事実を前にして、反省しておりますのは、貴方ばかりでなく、私もそうです。こうして集中的に調べているから、分かることで、普段の私たちは、多方面の情報に接することはいたしません。

 朝日の記事は、父君の立場を間違えたのでなく、読者に中将と知れましたら、多額の年金の支給があったことがわかり、氏が貧しい生活で苦労したという、記事の嘘がバレるからです。

 吐き気を催す、捏造記事です。

 また筑波移転への反対につきましては、私も貴方と同じ推測をしております。表向きの理由はそうですが、目的は学生運動を起こすこと、そこだったのでありましょう。「逆コース」に怒る当時の学生たちには、なんであれ政府に立ち向かうキッカケが必要だったのだと思います。
 いわば氏は、枯れ草に火をつけたのでしょう。
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