松母の墓地を通るのは、スビタレにはとても怖かった話は何度も投稿したような気がします。今度はもう一つ怖い所のお話です。
このプレートは、松母橋の欄干に掲げられています。橋の改築時期が分かります。昭和56年の12月に改築されたようです。この時期は私も畑沢を離れていましたので、改築をしていた様子がまるで分かりません。畑沢へ帰るときは、主に背炙り峠を通っていましたので、峠が通れなくなる冬以外は、あまり渡らない橋でした。
改築される前の橋は、常盤小学校と常盤中学校への登下校の際には毎日、渡りました。当時の橋は一応、コンクリート製で、路面は砂利が敷かれていました。欄干は、コンクリートの縦の柱に横に鉄管が通っている構造ですが、通っているはずの横の鉄管が、コンクリートの柱からはみ出たところで、全部切られていました。つまり、柱と柱の間には何もないのです。今の時代ではとても考えられないことがあったのです。伝えられている話によると、「戦争中、金属が不足して、橋の欄干の鉄も供出させられた」ということでした。そんなことまでやらないと戦えない戦争を、戦争の専門家はやっていたことが分かります。私は科学技術が好きですから、戦中の飛行機、戦車などに関する本を見ていましたが、実に日本の技術が低水準であったかが非専門家の私でも分かります。特に一番大切なエンジンの技術が欧米に及びません。例えば、イギリスのロールスロイス、ドイツのデイムラーベンツとBMW、アメリカのプラット&ホイットニーなどに対抗できるエンジンはありませんでした。日本で高馬力エンジンを作っても、不具合の続出でした。決して、資源不足と労働力不足だけの問題ではありません。戦争の結末については、皆さん御存知のとおりとなってしまいました。
久しぶりに道草してしまいました。そのような危ない橋ですから、実際に事故も起きました。小学生が春の雪解け水の中に落ちて流されたことがあります。幸いにも助けられて無事でした。この危ない橋がそのままだったかと言うと、そうではなかったような気がします。記憶は不確かですが、その後に欄干だけを修復した様な気がします。いくらなんでも、昭和56年まで「危ない欄干」のままではなかったはずです。