「ピアノを弾くことが、<お稽古事>から<演奏(パフォーマンス)>へシフトするのは何歳くらいなんだろうか?」
・・・・ときどきこういうことを考えます。
私のことではないです。私の場合、<お稽古事>のまま第1期が終わり、長いブランクを経て次に始めたときは、<ストレス解消行動>としてのスタートでしたので(汗)。
世の中には一見同系列のことでも、中身というか精神(?)が違うものが存在します。
たとえば、学校で習う「国語」という教科と、<文学>
計算を中心とした「算数」という教科と、<数学>
もちろんそれぞれ基礎となる教科でありますから、「国語」や「算数」を学ばずして<文学>や<数学>はないわけですけど、
私の経験からいっても、現代国語を中心とした「学校国語」はそこまで好きでなかったらしいけれど、<古典文学>には驚異的なセンスを示していた友人や、
計算は嫌いだけど、定理なんかをじっと考えるのは好き・・・という後輩はいました。
ピアノを弾く行為を強引に単純化すると、「楽譜が読めて」「指(や足)が動いて」「楽曲として表現する」ことができればいいわけですけど、
子供のころに好きなことは、運動性のこと、つまり、「指が速くよく動いて、できればペダルも上手に踏めること」が多いのではないでしょうか?
たしかにこれは、子供のころでないとなかなか身につかないことなので、できれば小さいうちにできるようになったほうがいいんだと思います。
このあたりでやめてしまうと、おそらくこれは「ピアノという楽器を演奏するための下準備としての<運動性>をそこそこ身に着けた」ということ止まり。
これだけでも大変なことです。とても大変なことなんですが、実はそこから先の方がさらに大変だということはよく知られたことでもあります。
「知・徳・体」ならぬ、「知・情・体」みたいなもんでしょうけど、これがそろわない(バランスはともかく)と、多くの人の鑑賞に堪え得る演奏とはならないからです。
それらが、天性のものとして備わっている場合は別として、そうでない場合は本人のなみなみならぬ自覚というか覚悟がいると思うんですよね。
技術的なものを身に着けることは当然のこととして、ほかにもいろいろなことを吸収していかねばならないというのは過酷なことです。
もし天から選ばれた人間でないならば、天を振り向かせるくらいの気合がいる・・・・・
さて、「9月号 ぶらあぼ」に見つけた記事です。
~~~~ブッフビンダー、円熟の響き「ピアニストに終わりはない」~~~~~~
古典を深く掘り下げるほどに、自由に弾けるようになってゆく。そんな境地を語るのがウィーンのピアニスト、ルドルフ・ブッフビンダーだ。現在65歳。
ピアノに向かうのは、1日30分ということも。本を読んだり、彫刻や絵画を手掛けたりする時間を持ちたいからだ。「何時間もひたすらピアノに集中できるもんじゃない。それより内面を育てる時間を持ったほうがいい。とりわけ若い人は」(7.23朝日 夕)
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