改造で 熱中症死 台風禍
ka i zo u de ne tyu u syo u shi ta i hu u ka
自宅行き 熱中症死 台風禍
ji ta ku i ki ne tyu u sho u shi ta i hu u ka
死人に口なしという。
そうだろうか?
違う。
千葉県では、台風15号の長期停電により、熱中症で死亡した方がおられた。
その方の、「怨念」はなくなってはいない。
テレビ報道でされていたように、多くの方々が県や国は何もしてくれない。
初動が遅すぎると口々におっしゃっていたからだ。
怨念は、その方が亡なれば消失するものではない。
ますます、強まるだろう。
なぜなら、熱中症で亡くなった方を多くの方が見たり、報道で知ったりしているからだ。
つまり、怨念が千葉県中に広がる。
この国中に広がるからだ。
怨念の対象は誰か?
冒頭の句の通り、首相と千葉県知事である。
どうして、怨念の対象になるのか?
二人とも「権力」をもち適切な手段を使って、被害者を救出する手段をたくさん持っていたにもかかわらず、内閣改造や、自宅へ行き「私(わたくし)」を優先させて「権力」を正しく行使しなかったからだ。
部下にヘリコプターを使って現地の情報を集めさせたり、気象衛星等の画像を使って現地情報を集めさせたり、テレビの報道をじっと見ているだけでもかなり詳細に、被災地の情報はつかめたはずである。
しかるに、首相は内閣改造に追われ、皇居での認証等で台風禍対策を十分出来なかった。
閣僚が交代するのだから、当然縦割り行政の我が国では、対策や救援策がおくれるのは当然である。
こうした状況を、主権者である国民はみんな見ている。
熱中症死した方の「怨念」は、いかほどだったかということをみんな知っている。
怨念が共有されてしまったのだ。
だから、怨念はなくならない。
だから、死人に口なしではないのだ。
共有された「怨念」により、改造された安倍内閣は閣僚が2人も次々と辞任する。
そして、桜を見る会への野党の厳しい追及。
これらは、一部始終を見ていた台風15号による被災地の熱中症で亡くなられた方の「怨念」、屋根を飛ばされてもブルーシートすら支援されない方々の「怨念」、そしてそれをテレビで見ていたそうした方々の実情をつぶさに見ていて「怨念」を共有した国民の「怨念」が、安倍内閣を襲っているのだ。
千葉県知事も同じである。
繰り返し、定例記者会見の都度、記者から追求される。
千葉県民の「怨念」それを共有した主権者である国民の「怨念」がそうさせるのだ。
歴史は繰り返す。
菅原道真は、京の都を思ってこう歌った。
東風ふかば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
菅原道真が京を追われた後、今の京都の都は天変地異に見舞われた。
天変地異を鎮めるため建立されて、道真の「怨念」を収めようとしたのが太宰府天満宮である。
しかし、「怨念」は菅原道真だけのものではなかった。
東風ふかば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
の句によって、主権者である国民に共有されてしまったのだ。
「怨念」は道真だけのものではなくなってしまったのだ。
だから、今でも多くの人々が太宰府天満宮をお参りする。
道真の「怨念」を鎮めるためとその力、「知の力」を授かるために。
首相と千葉県知事がこの「怨念」を鎮めるためには、現地へ赴き直接、亡くなった方の墓参ないしはお見舞いをしなければ「怨念」は鎮まらないだろう。
毎年「主権者である国民への気持ち」と「政治姿勢」のある閣僚や国会議員が終戦の日、春・夏、靖国神社へ赴き、戦争で亡くなった英霊の「怨霊」を鎮めているように。
「怨念」を甘く見てはいけない。
例えば、いじめ。
いじめた方は忘れているかも知れないが、いじめられた本人とその家族は生きている間ずっといじめた人間に対して、「怨念」を持っているのだ。
しかも、それはテレビ報道等で「共有」されてしまう。
何より、いじめた張本人が忘れていない。
天知る地知る己知る
なのだ。
だから、誰も知らないと思っているかも知れないが、その「怨霊」に、必ず後から襲われることになるのだ。
その時は、何も起こらないから大丈夫と思っても。
今回の冒頭にあげた2つの句が、何よりもその明らかな証拠である。
そして、その怨念を鎮めようとしない全ての人々に「怨霊」は襲いかかるのである。
嘘ではない。
いくつもその例が「物語」や「逸話」や「昔話」にされて、本にされて出版されている。
この国では。
そして、多くの主権者である国民はそのことをよく学んでいる。
そのことを知っている多くの和の国の人々は、謙虚で親切な国民と世界中から信頼されています。
でもそれは、和の国の主権者である国民は、「怨霊」の恐ろしさを昔からよく知っているからでもあります。
補足
「主権者である」という言葉を繰り返し使用して、一部本ブログを訂正しました。
本ブログは海外の方からもよくアクセスがあるので、この言葉の意味を説明します。
アメリカでもそうですが、「主権者である国民」が大統領を選びます。
わが国では、国会議員の中から首相が選ばれます。
つまり、国民は間接的ではありますが、「主権を委任するトップ」を決めることができます。
具体的には国会議員は、国民が「主権」を行使して「選挙」によって選びます。
「主権を委任してもいいという方」を。
それが、総理大臣なのです。
なので、「主権を委任した総理大臣」をいつも見ていなくてはいけません。
国民の主権を正しく行使しているかどうかを。
そして、もしそうでないのなら「選挙」で、選びなおすしかありません。
選挙が「終わり」なのではなく、「始まり」なのです。
あなたの国では、「選挙」して「国民の主権」を委託できる人を「正しく」選ぶことが出来ていますか?
(^J^)
ちなみに、わが国は戦前は「主権」は天皇にありました。
つまり、敗戦によってやっとヨーロッパ並みの「主権」を国民は手に入れることができたのです。
わが国のみならず、多くの大戦国の多大な血の犠牲によって。
あなたは、その大切な「主権」を正しく「行使」していますか?
あなたの国では、そうした大事な「主権」が国民にありますか?
ちなみに、なぜ主権がヨーロッパでは、早く国民の手に入ることになった言えば、絶対君主の「人権」などまったくない「粛清」が日常茶飯事だったからです。
そこで、フランス革命などによって「主権」を絶対君主から奪ったのです。
そして、選挙で選ばれた代表に「一定期間」委任する制度に改めたのです。
アメリカが日本以上に労働組合が強い理由がここにあります。
GAFA等グローバル企業はそれを逃れようと、中国など規制が及ばない地域や国境を越えて進出して、巨大な利益を上げています。
我々は、それをどう判断するかが今問われているのです。
GAFA等グローバル企業に対して、アメリカやヨーロッパ、日本の政治家がどう対応していくかを。
繰り返します。
問題は、我々国民の主権が、国境の壁を超えた、GAFA等グローバル企業に対して十分及ばなくなってしまっていることにあるのです。
それが、大きな格差と不平等を生んでいるのです。
国家が対立している場合ではないのです。
対立していることによって、最も利益を受けているのは、一部の政治家なのです。
敵を海外や国内に作って、「国民の主権を奪い自分の利益」とする。
実に巧妙ですが、政治家にはこうした方が後を絶ちません。
単純で一見分かりやすいからです。
さあ、あなたはどうしますか?