この震災で何よりも、生き甲斐を感じたのは帰宅難民となった知人のためになれたことである。
いろいろなところでいわれているが、人間最も生き甲斐を感じるのは、誰かのためになれたときであると思う。
そのとき、福島県のある寺に1泊させてもらったことがある。
夕方、たまたま、寺の前を通りかかったら、住職から声をかけられた。
「今晩泊まるところはあるのか?」
「ありません」
と答えると、
「うちへ泊まって行きなさいと」
一晩お世話になった。
布団はふかふかだったし、夕食にはビールまで出してもらい、ほんとうに恐縮した。
前日の夜は、毛布一枚で自分一人、渓谷に野宿であったから余計ありがたかった。
真夏とはいうものの、周りには野猿の鳴き声はするし、朝方には夜露でびしょびしょになるから余計だった。
(一人での野宿は、当時だからできたと思う。今は絶対おすすめできない)
翌日の朝、
「今日はどうするのか?」
と聞かれ、
「うちに帰ります」
と答えた。
この先のことまで心配してくれた。
帰りの電車賃ぎりぎりしかお金がなかったので、ただ頭を下げて、お礼を申し上げることしかできなかった。
一宿一飯の恩義というけれど、このことは今でも忘れていない。
そして、ずうっと心にひっかかっていた。
何かお礼をしなければならないと。
しかし、ちょっと前、それは別の形で返せばいいことを、テレビのある旅行番組を見て知った。
お寺が旅人に無料で宿泊させることを、一言で言い表す言葉があるのだけれど、何というかは忘れた。
宿泊する人に何の見返りも求めないで、助けるのである。
そのおかげ(寺に泊まらせてもらった恩義とこの大震災のおかげ)で、私はこのありがたい住職の「恩義」をたまたま知人に返すことができた。
私にとっては、恩義はかえすこができたし、知人の力になることができた。
知人からは、気を遣ってもらいお礼をいただいたが、それは、私の気持ちと合わせて義援金として被災地に送りたいと考えている。
私にとって、住職はお釈迦様だった。
お釈迦様は、危難の時、誰から救うかというと「近くにいる人」からと教えたそうである。
キリストは同じことを「汝の隣人を愛せよ」と教えた。
私は、この震災で、約40年ほど前の住職の恩義を別の形でお返しすることができた。
今の私にできることは、自分の近くにいる人のためになることである。
それが、あのありがたい住職から私が教えられたことである。
今、自分の身近にいる人のためになることをして、それが回り回って被災地の力になればいいと考えている。
知人の力になれたということだけで、私は、十分すぎるほどの「見返り:知人の力になれてよかったという生き甲斐」を受けている。
住職が私に教えたかったことは、このことだったのだろう。