○で、前売券があったので、中洲大洋でまたもや映画を見る。キイロイトリの歩く、(なんか土曜ワイドの天知茂の明智先生が水玉ネクタイの三つ揃えで下りてきそうな勢いの)木製階段に続くロビーも、昭和の香りが濃く漂っているのである。
本日のBGM:
「J・エドガー」(2011、米)
たれぱんだとパンフを見ています(ほら、前回の仏映画と全然違って、米映画だとパンフのスタッフ記事のリキ入って充実してること・怒)
クリント・イーストウッド監督映画で劇場公開時にちゃんと見る、というのは初めてだ。
自分は小学校5~6年の頃、学校の図書館でドン・ホワイトヘッド/白木茂の『FBI物語』(あかね書房)を読んでいるので(ほか、その頃の愛読書はホームズ物か『宝島』か少年少女世界のノンフィクション『世界をゆるがした十日間』とか、カチン族の首かご、とかですな←かたよってんなあ^^)、デリンジャーとの戦いとかリンドバーク事件の「英雄化されたエピソード」の方はなんとなく知ってて、むしろ後に知られたというフーバーの裏ゴシップの方は細かくは知らなかった。そこであまり下準備なしに映画予告編を見て、最初、現代史劇ドキュメンタリー的かな?と思って来たら、なんとも恋愛劇というか性格劇だったという初見の感想。アメリカでも賛否両論らしいというが、これは確かにハリウッド的勧善懲悪カタルシスを単純に求めるタイプには困るんだろうし、かといって「わかる人にはわかる」んだろうけど「すっきりする」のとも違う。
「何か○○しなければいけないと思って生きている人のこと」を表現するのに、(パンフにあった)オブセッション、強迫的な何か、という言葉があるという。この切実さがわかる人ならわかる映画じゃないかと思う。(なんかこの監督って、そういう映画が多いんだそうだね。遅ればせながら、そういう観点でなら今度ちゃんと見直してみようかと思った。)主人公がアスペルガーかどうかまではあまり思わなかったが。
で、個人的には、わかると感じる。自分はタルコフスキーの「惑星ソラリス」を見たときもそういう「どうしても責めてしまって」「やりきれないんだけど、わかる」気持ちになりがちな性格だから、こういうテーマだと弱い、というより、逆にドラマに移入してしまう(※これが普通の恋愛映画と称されるものだと、こういう感情移入が全然起こらない。それで10~20代の頃は本当に同級生なんかと全く話も趣味も会わず困ったんだよな。「人と一緒に映画を見に行けない」のもそのへんの感覚が理由なんだけど)。ヘテロかゲイかどうかとかそういう問題を超えて、自己卑下が強すぎてその前でたじろぎながら非常に「孤独」であっても、理解されないし知られることを拒絶する(知られたくない)のに心許した人には分かってほしいという、傍から聞きゃひどくひねた優等生の大人になりきれん奴というか自分勝手でその結果人も傷つけるような奴とはどういう人間か、というような、心の問題としてだ。「とっくみあい」はわかんない人にはギャグシーンのように思われたかもしれないが、自分はあまりギャグには思えなくて、ちとせつなかったけど。
そして「わかる」んだけど、そこが「嫌」なんだよね(笑)自分にもある嫌なところに気づかされる(それでまた自分を卑下する、のくりかえし)、ようなものでしょう。「いやでしょ?こんな僕に関わりたくないでしょ?」ああ、これはわかる(泣笑)。これがわからない人には、理解できないんだろうなあ。こういうところが、同じ「吃音克服自己実現もの」的流れの「英国王のスピーチ」みたいな「わかりやすい感動」タッチのとは全然違って、主人公の自己実現が単純に観客のカタルシスに結びつきにくいってことはあるかもな(興行的にも日本ではじわじわ、知る人ぞ知る、なのかな?地味そうだし)。
でも、老年期のラストに近づくにつれて、ちょっと気づいてきた。(「市民ケーン」に喩えているコラムも読んだが)確かに「どこまでほんとか」っていうのがメタフィジカルに投げかけられてくるあたりから「…ああ、そうか」と思ったし、何より(なんかうまく表現できないのだが)そういう人間であっても、それを「ダメだ」と否定して描いていないし、かといって「ダメなあなたでもいいのよ」と安易に認めも癒しも慰めもしないところがいい(そのへんで終盤がちょっと泣ける、というのもなんとなくわかる)。そういう人間ならそうあり続ける「尊厳」のようなものがある。監督が高齢だからとも限らないが、もしかするとこの監督の映画のファンってのはそういう「老若の人間の描き方」にはまるのかもしれない、と(ちゃんと見たのは初めてな初心者だが)ふと感じた。結束信二監督の時代劇みたいなじんわりした感動にもなりえるのに、と思ったその瞬間、エドガーの傍に一見普通のようで普通でないトルソンやギャンディのような人がいたおかげで…ということの世界史的意味の恐ろしさが反転して迫ってくるような微妙な感覚に襲われる、というのも乙な味だ。そう安く感動はやってこない。
ディカプリオの映画は「太陽と月に背いて」以来だ(タイタニックもインセプションもまだ見てない><)。ディカプリオの勢いがエドガーの「野心的な感じのする一生懸命さ」とかぶっている感じがするのも面白かった。あと、細かいところにいろいろ仕掛けがある(フーバーが大統領に会う前の、秘書室で待ってるシーンとか、フーバーの机の下に置いた何か?みたいなのとか)のも。ニクソンよかロバート・ケネディが似てる気がしたかも。なお、BGMにBachのゴールドベルグNo.2などが。
そして帰りの脳内BGM: Casting a Shadow / Pet Shop Boys (「Format」)
うん。まさにこういう感覚というか。 (20120211)