告別式の折、知人の高校教諭と「コロナの及ぼした教育界への影響」についての話になりました。
人間教育に熱心であった故人が与えてくれた機会と捉え、色々考えました。
<カリキュラムの消化に無理がある>
例年カリキュラムを前倒しして学習する一部の進学校を除いて、高三生にとっては大学受験を控えて戸惑うことが多いと思われる。
昨年の「大学入試英語成績提供システム」や「記述式」の見送りでの混乱も記憶に新しい中、更なる混乱が無いとも限らない。
義務教育現場においても、春休みを除く10週間(3/2~5/31)に及ぶ一斉休校期間を、長期休業の短縮と諸行事を授業に振り返る方法で取り戻そうとしますが、どう考えても4~5週間は不足しそう。
それを、授業方法で取り戻そうとするから「講義形式」になっていく。
文科省が推し進めてきた「自ら考える力」は養う機会を奪われたと言わざるを得ない。
<オンライン授業には限界がある>
特に学習習慣の無い初等教育では、自習の出来ない児童に対しいきなり手探りのオンライン授業はハードルが高すぎる。
先生が黒板に向かって授業をする大学の講義のような一方通行の内容で、「授業をした」という形だけのものになっていないか。
地域差・学校間差も大きいのではないか。
ハードにしても不十分なこの方法を現役世代でテストしたような形になっている。
結果、自習という名の宿題で消化せざるを得なくなっているのではないか。
<初等教育では授業は人間教育の手段である>
初等教育の大きな柱である「対人間関係(社会性)」を学ぶ機会が奪われた。
特に、小学一年生にとって『学校となどんなところか』すらわからないまま、長期間自宅で拘束され続けた。
<部活動をはじめとして学校諸行事の持つ意味>
数字で表れる部分は改善の努力をし易いが、テストで計れない学校活動について、機会を失った影響は大きいのではないか。
これら諸問題を考えるに、コロナ禍による『目に見えない影響を予測した対策』が求められているのではないでしょうか。
今現場で行われていることを否定する訳ではありません。
むしろ先生方には医療従事者の方々同様最善の努力をされていると頭の下がる思いです。
しかし、その努力によりカリキュラムが消化できたと云うことで、水面下で起こる影響について社会が無関心ではいけないと思うのです。
運が悪かった子達・・・だけで済ませないで「目に見えない不足部分」について、社会の先輩方が丁寧に彼らと接することで補うことが求められていると思うのです。
未履修となるのは、数週間の「学習」ではなく、今年学校という集団で学ぶはずだった「日本文化に近いもの」と感じているからです。