高度成長期に輩出 女流作家にとっての第四学校、実家、祖父宅221008。
少々、図版が大きめのキライはあるも、赤で「原田留五郎家」、青で第四学校。
そして図面には読み取れないが『大正五年 釧路電話番号簿』で「西幣舞四四番地」の位置に黄色で「原田宗二郎家」。
うち、赤で「原田留五郎家」は女流作家 原田康子女史の実家にあたる。彼女は昭和5年夏に東京から同伴されてこの家に落ち着いた。
15歳で城山にあった高等女学校に入学、地元新聞社で初の女性記者を経て嫁ぐまで、この実家でフランス文学を読み続けた。
実家の東には「第4高等小学校」「運動場」の記載を読むことができる。雑穀取扱商としてその名をとどろかせた原田家が、「教育施設のために」と学校建設用地を提供したことがわかっている。
康子女史が小学校高等科にすすむころには、市立の女子高等小学校がすでに開校していたから、彼女は13歳から16歳までの4年間を「久寿里 くすり 橋」をわたり城山の校舎に通学した。
その道すがら、必ずしも通学路とは申しがたいが現在の栄 さかえ 町三丁目に「原田宗二郎家」があって祖父母の家ということになる。
初代・惣吉-二代・宗二郎ー三代・留五郎、そして惣吉以来四代、ひ孫にあたる長女が原田康子女史ということ。
「原田留五郎家」。昭和5年発効と目される『釧路市街図』にこの記載を見たとき、「原田留五郎宅こそ康子女史の実家」。かく、確信をしていた。だが、確証はなかった。
2022年10月8日午後、マチなかで開かれた講演会を聞かせてもらった。
演者は見覚えのある「私のなかの歴史 愛のかたち、文学に」と題する『北海道新聞 夕刊』(平成19年4月10日号)が配布された。
企画記事は康子女史の回顧録を掲載したもの。演者の注目点とは別に「原田一族」のなかに次の記載を読んだ。
「本物の私は1928年(昭和3年)、母と父留五郎の間に六人きょうだいの長女して東京で生まれました」。
当初から抱いていた憶測は、合致していた。
学校の校舎と運動場を一括寄付した敷地を目前に、そこを見守るように配置されていた原田康子女史の実家。
市街図から作業仮説として憶測していたポイントが、ここに紹介の紙面記載で裏付けられた。
実はこの記事の末尾を一度、授業で紹介してことがある。
そうではあるがそのとき、冒頭の記載の「母と父留五郎の間に六人きょうだいの長女」を、ほぼ記憶していなかった。
この7月14日にこの地を訪問し、憶測を裏杖づけるためには、「私のなかの歴史 愛のかたち、文学に」を探しあてねば。
その思いが、はからずも叶ったということになる。
少々、図版が大きめのキライはあるも、赤で「原田留五郎家」、青で第四学校。
そして図面には読み取れないが『大正五年 釧路電話番号簿』で「西幣舞四四番地」の位置に黄色で「原田宗二郎家」。
うち、赤で「原田留五郎家」は女流作家 原田康子女史の実家にあたる。彼女は昭和5年夏に東京から同伴されてこの家に落ち着いた。
15歳で城山にあった高等女学校に入学、地元新聞社で初の女性記者を経て嫁ぐまで、この実家でフランス文学を読み続けた。
実家の東には「第4高等小学校」「運動場」の記載を読むことができる。雑穀取扱商としてその名をとどろかせた原田家が、「教育施設のために」と学校建設用地を提供したことがわかっている。
康子女史が小学校高等科にすすむころには、市立の女子高等小学校がすでに開校していたから、彼女は13歳から16歳までの4年間を「久寿里 くすり 橋」をわたり城山の校舎に通学した。
その道すがら、必ずしも通学路とは申しがたいが現在の栄 さかえ 町三丁目に「原田宗二郎家」があって祖父母の家ということになる。
初代・惣吉-二代・宗二郎ー三代・留五郎、そして惣吉以来四代、ひ孫にあたる長女が原田康子女史ということ。
「原田留五郎家」。昭和5年発効と目される『釧路市街図』にこの記載を見たとき、「原田留五郎宅こそ康子女史の実家」。かく、確信をしていた。だが、確証はなかった。
2022年10月8日午後、マチなかで開かれた講演会を聞かせてもらった。
演者は見覚えのある「私のなかの歴史 愛のかたち、文学に」と題する『北海道新聞 夕刊』(平成19年4月10日号)が配布された。
企画記事は康子女史の回顧録を掲載したもの。演者の注目点とは別に「原田一族」のなかに次の記載を読んだ。
「本物の私は1928年(昭和3年)、母と父留五郎の間に六人きょうだいの長女して東京で生まれました」。
当初から抱いていた憶測は、合致していた。
学校の校舎と運動場を一括寄付した敷地を目前に、そこを見守るように配置されていた原田康子女史の実家。
市街図から作業仮説として憶測していたポイントが、ここに紹介の紙面記載で裏付けられた。
実はこの記事の末尾を一度、授業で紹介してことがある。
そうではあるがそのとき、冒頭の記載の「母と父留五郎の間に六人きょうだいの長女」を、ほぼ記憶していなかった。
この7月14日にこの地を訪問し、憶測を裏杖づけるためには、「私のなかの歴史 愛のかたち、文学に」を探しあてねば。
その思いが、はからずも叶ったということになる。