嵯峨久「生産者が価格を設定ができる」 昭和13年9月 釧路魚卸売市場の開設
水産水揚げ量の漁港で、消費者市場に加えて生産者市場を開設することは困難を極めた。
しかしさらに難儀であったのは、「生産者が価格を設定ができる」流通構造に変える点であった。
なぜか。
答え。それは。辺境の地で労働力移転型の従事者が、直面した「前貸商人」とされる問屋の支配下にあった点。
漁業者ながら生産手段も、着業期から収穫期までの生活手段も、漁獲物の販路も、その「前貸商人」とされる問屋に握られていた。
その枠組みを組み替えるには、問屋層の既得権を克服し、近代的な流通システムの元に組み替える取引関係が存在し、その移行こそ、実に<難解>であったのだ。
そこのところを理解しやすく解説すると、今日、「日払い雇用」なるシステムがあるではないか。
「わが身ひとつ」。つまり、懐にゼニをもたず、一夜の宿も身の置き場もない人が、朝に就業して、夕べに日銭の支払いをうけて退勤。その足でネットカフェに向かい、朝、そこからまた「日払い雇用」に就業する・
当時は、「日払い雇用」のシステムなど未成熟。かわって「食事つき、住み込み生活で、漁場で働き、精算期に成果品を買い取らせて、報酬と利子および元金を差し引きする」経済下にあった。
そこのところを理解しやすく解説すると、今日、「日払い雇用」なるシステムがあるではないか。
「わが身ひとつ」。つまり、懐にゼニをもたず、一夜の宿も身の置き場もない人が、朝に就業して、夕べに日銭の支払いをうけて退勤。その足でネットカフェに向かい、朝、そこからまた「日払い雇用」に就業する・
当時は、「日払い雇用」のシステムなど未成熟。かわって「食事つき、住み込み生活で、漁場で働き、精算期に成果品を買い取らせて、報酬と利子および元金を差し引きする」経済下にあった。