介護していると、いろいろなことで葛藤が生まれます。
綾戸智絵さんが、以前倒れられ、ちょっと話を聞きながら、そうかぁと思う部分がありました。
わたしも、正直聖人でもなくごくごく普通の人間なので介護しながら常に自分自身の中の葛藤の中で揺れています。
いつもというわけではないのですが、最近何かの拍子で5分間隔で母に呼ばれることがあります。呼ばれるといっても、声をだせない母は、わたしが作った牛乳パックの中に鈴を入れたものをベッドにくくりつけてあるので、それを叩いてわたしや、家族を呼ぶのですが…。
5分間隔…とにかく用事が済んだかと思うとまたすぐに音が聞こえてくるのです。
いい加減に怒れてくるので、無視するように他の用事をして鈴の音が聞こえないようにするわけですが、その反面何か困っているのではないか、母にとっては辛いことなんだろう、それに対して無視していることがいいんだろうか…そんな葛藤が生まれてくれるのです。
ですが娘と母をみながら、“ちょっと呼び過ぎだよね”、そんなたわいのないひとことが、ある意味自分の中で変かもしれませんが、心の中で同じようなことを思ってくれる、そんな安心感があるものなのです。そんな娘、子どもたちが身近にいることがどんなに心強いことなのかと思います。
以前ですが、施設に親を預けている方が、わたしが在宅看護をしていることに対して、とてもうらやましいと言われました。そして親を施設に預けていること自体にとても罪悪感を感じているとも。
誰だって、できることなら、在宅で親をみてあげれたら…そんな気持ちの方は多くいることでしょう。ですが、現実それを受入れていくことはかなり難しく、条件が揃わなければ共倒れとなることが多いでしょう。葛藤の中で施設にお願いする方も多くいるのだと思うのです。
そう考えるとわたしと母はたまたま運がよかった…としかいいようがありません。
綾戸智絵さんが、若いときに母にかけた苦労を考えると自分が全てを受け入れなければならない…、そんな気持ちを考えたときに、自虐的だと思いつつ、なんて思いの深いひとなんだろう、と思うのと同時に愛情の深さをきちんと受けとめ、それに気づき必死で応えようとしていたことに対してなんともいいようがない頭の下がるような思いがしました。
だれでもこうしたいと思うけど…そんなジレンマの中で介護をしている、とそう思うのです。
将来介護する側からされる側になるのでしょうが、自分の思うようにはいかないのでしょうから、せめてどんなときにでも受け止めていける自分自身であれたらということを願っています。
綾戸智絵さんが、以前倒れられ、ちょっと話を聞きながら、そうかぁと思う部分がありました。
わたしも、正直聖人でもなくごくごく普通の人間なので介護しながら常に自分自身の中の葛藤の中で揺れています。
いつもというわけではないのですが、最近何かの拍子で5分間隔で母に呼ばれることがあります。呼ばれるといっても、声をだせない母は、わたしが作った牛乳パックの中に鈴を入れたものをベッドにくくりつけてあるので、それを叩いてわたしや、家族を呼ぶのですが…。
5分間隔…とにかく用事が済んだかと思うとまたすぐに音が聞こえてくるのです。
いい加減に怒れてくるので、無視するように他の用事をして鈴の音が聞こえないようにするわけですが、その反面何か困っているのではないか、母にとっては辛いことなんだろう、それに対して無視していることがいいんだろうか…そんな葛藤が生まれてくれるのです。
ですが娘と母をみながら、“ちょっと呼び過ぎだよね”、そんなたわいのないひとことが、ある意味自分の中で変かもしれませんが、心の中で同じようなことを思ってくれる、そんな安心感があるものなのです。そんな娘、子どもたちが身近にいることがどんなに心強いことなのかと思います。
以前ですが、施設に親を預けている方が、わたしが在宅看護をしていることに対して、とてもうらやましいと言われました。そして親を施設に預けていること自体にとても罪悪感を感じているとも。
誰だって、できることなら、在宅で親をみてあげれたら…そんな気持ちの方は多くいることでしょう。ですが、現実それを受入れていくことはかなり難しく、条件が揃わなければ共倒れとなることが多いでしょう。葛藤の中で施設にお願いする方も多くいるのだと思うのです。
そう考えるとわたしと母はたまたま運がよかった…としかいいようがありません。
綾戸智絵さんが、若いときに母にかけた苦労を考えると自分が全てを受け入れなければならない…、そんな気持ちを考えたときに、自虐的だと思いつつ、なんて思いの深いひとなんだろう、と思うのと同時に愛情の深さをきちんと受けとめ、それに気づき必死で応えようとしていたことに対してなんともいいようがない頭の下がるような思いがしました。
だれでもこうしたいと思うけど…そんなジレンマの中で介護をしている、とそう思うのです。
将来介護する側からされる側になるのでしょうが、自分の思うようにはいかないのでしょうから、せめてどんなときにでも受け止めていける自分自身であれたらということを願っています。