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沖縄戦の真実と歪曲

2007年11月10日 | 読書
沖縄戦の真実と歪曲」(高文研 2007年9月10日発刊)を読んだ。
著者の大城将保氏は1939年沖縄県玉城村(現南城市)生まれ、沖縄史料編集所主任専門員として沖縄県史の編纂にたずさわった方だ。
2007年3月30日文科省は教科書検定結果を公表し、「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある表現」という理由で、日本軍による命令、強制、誘導等の表現を削除・修正させた。文科省は記者会見で「自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が2005年、名誉棄損を訴えて訴訟を起こしている」ことを理由のひとつに挙げた。この訴訟とは2005年8月大阪地裁に提訴された大江・岩波裁判のことである。

大城氏は「ある特定の時と場所で隊長が自決命令を出したかどうかは些末な論議だ。木を見て森を見ずになる。軍民混在の島に共通した構造的な問題に着目する必要がある」という。そこで本書から沖縄戦のアウトラインと構造を紹介する。

1937年日中戦争勃発を契機に、日本は戦時総動員体制一色に染め上げられる。日本中で国民精神総動員運動が展開されたが、沖縄の特色は標準語励行と風俗改良運動の皇民化政策だった。
沖縄では1939年標準語励行県民運動3カ年計画を策定し、各市町村に十数名の標準語励行委員を配置するよう通達した。具体策として「一億一心言葉は一つ」「一億の心を結ぶ標準語」などの標語をつくり、ポスター、冊子の配布、紙芝居やレコードで「正しい日本語」の指導を徹底した。学校では方言札という罰札を持たせ罰金を課したので生徒の恐怖の対象になったという。
風俗改良では、ユタ(巫女)の取締りや亀甲墓の廃止を行い、御嶽(ウタキ 拝所)に鳥居を建てて神社とし、冠婚葬祭をヤマト風に改めさせた。島袋を島・島田・島副、仲村渠(ナカンダカリ)を仲村・中村、小橋川を小川に改姓する運動まであった。
このあたり植民地・台湾の皇民化政策とウリ二つである。運動を担う地域のリーダーは在郷軍人と教師と役場職員だった。台湾で警官と教師がその役を担ったことを想起させる。

1944年7月サイパン陥落のあと、沖縄は、本土決戦までの時間を少しでも稼ぐため「不沈空母」の役割を担わされる。44年3月急ごしらえで編成された32軍は軍官民一体で、国民学校上級生まで動員し陣地の構築を行う。しかし軍民一体の共同作業の中で住民はいやおうなく部隊の軍事機密にふれることになる。そこで軍は「防諜ニ注意スベシ」を強調した。
1944年11月軍は「報道宣伝・防諜に関する県民指導要綱」を作成し、隣組制度による積極防諜、行動不審者の発見と連絡通報、防諜違反者の取締りの強化などを行った。そのなかには「捕虜になれば、男は股裂きにされ、女は強姦されて海に捨てられる」といううわさを組織的に流し、住民に恐怖感を植え付けることも含まれていた。兵隊たち自身が中国大陸や南方でやってきた体験の裏返しなので説得力があったという。
一方、44年から防衛隊の召集が始まる。10月の召集規則改正で17,18歳から45歳までの男子が召集された。45年2月の召集では人数合わせのため年齢制限に反する15歳の少年や75歳の老人まで集められた。16歳の女性も女子義勇隊として救護班の任務についた。

そして45年3月慶良間、4月読谷への米軍上陸が始まる。ここから悲劇が始まる。防衛隊の民間人もシャーマン戦車を迎え撃てと命令され、爆雷、手榴弾、竹槍をもってタコツボに潜み、多数の死傷者を出した。5月末首里が陥落し32軍は南部へ撤退する。それにともない救護班の女性も担架に負傷者をのせて移動する。
この過程で住民虐殺や集団自決が発生した。
敵に捕まってはならないのだ。捕虜にならないよう「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す勿れ」という『戦陣訓』の規律が民間人にも強要された。捕虜にならないためには「玉砕」という名の「集団自決」に逃げ道を求めるしかなかった。
スパイ容疑で虐殺された民間人も多い。軍が駐屯していたところで次々に「集団自決」と「住民虐殺」が起こった。「集団自決」と「住民虐殺」はコインの両面なのである。
いま問題になっている座間味島、渡嘉敷島だけでなく、伊江島、読谷村、北谷村、糸満などで事例が報告されている。伊江島では、守備隊から「いざとなったら潔く自決するように」と指示され、防衛隊隊員に手榴弾2個が支給された。
しかしこうした記憶は、当事者にとってけして思いだしたくない凄惨な記憶なので、読谷村のチビチリガマや伊江島の自決壕、ひめゆり学徒隊、渡嘉敷、座間味の「集団自決」の体験者の手記が出版されたのは戦後40年(1985年)以降のことである。

さて、初の米軍上陸地である座間味・渡嘉敷での軍命の有無が大江・岩波裁判で争われている。
原告梅澤裕・元少佐の手記「戦斗記録」(紀要11号 1986年)では、「25日夜22時頃村の幹部が来訪し「老幼婦女子は足手纏いにならぬよう、又食糧を残す為自決します。就きましては爆薬を破裂させてください。それが駄目なら手榴弾を下さい」と申し出たが、梅沢氏は「決して自決するでない。弾薬は渡せない」と述べたことになっている。
一方「母・宮城初枝の手記」(高文研 2000年『母の遺したもの』に所収)では、助役が「老人と子どもたちは玉砕させようと思いますので、弾薬を下さい」と申し出、「私はこれを聞いた時、ほとんど息もつまらんばかりに驚きました。重苦しい沈黙がしばらく続きました。(略)隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』とわたしたちの申し出を断ったのです」とある。もし「自決するでない」と発言していたら、最も肝心なこのキーワードを宮城さんが聞かないはずはないし、忘れるはずもないので、書かないはずがない、と大城氏は主張する。また軍命があった証拠として「母・宮城初枝の手記」の「木崎軍曹から『途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさい』と手渡された」という部分が引用されている。

この訴訟の2006年3月24日付け原告準備書面に大城氏の名前が5回出てくる。驚くべきことに、すべて「自決命令不在説」を立証する証拠資料として使われていた。そのうえ原告側の徳永信一弁護士が「沖縄集団自決冤罪訴訟が光をあてた日本人の真実」(『正論』2006年9月号)を発表し「昭和61年、沖縄県教育委員会は、梅澤氏がまとめた手記「戦闘記録」を『沖縄県史料編集所紀要第11号』に掲載し、これをもって「梅澤命令説」を記載していた『沖縄県史10巻』の訂正に代えることとし、大城主任専門員は『現在宮城初枝氏は真相は梅澤氏の手記の通りであると言明して居る』と書き添えた」と書いた。
大城氏は、手記「戦闘記録」が紀要に掲載された経緯、県史の訂正など考えたこともないこと、宮城さんからそんな話を聞いたことはないこと、など、徳永論文はでたらめだと憤る。その他、原告側証拠として提出された神戸新聞の談話記事(1986年6月6日)はデッチアゲで、著書『沖縄戦を考える』(ひるぎ社1983年)の引用は都合のいい部分だけを断片的に切り取って、筆者の論旨や真意を無視する歪曲に充ちたものだと断罪している。

☆徳永信一弁護士は1958年生まれ・司法修習40期大阪弁護士会所属。大阪靖国訴訟や百人斬り訴訟を担当した弁護士である。増田都子さんの三都議訴訟の被告側主任弁護士を務めていることを知った。
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