多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

岡山時代の劇作家・脚本家 内田栄一

2022年04月15日 | 

劇作家・脚本家の内田栄一の故郷を訪ね、岡山市を旅した。
内田栄一といっても知らない方もおられるはずなので、まず内田のプロフィールとわたしがなぜ関心を抱くのかを紹介する。
内田栄一は1930年7月31日、岡山市西大寺町(現・表町)の古書店に生まれた。

「シナリオ」1992.12のコピー(日本シナリオ作家協会 p5)
藤田敏八監督の「(1974)、「バージンブルース(74)、「炎の肖像(74)、「スローなブギにしてくれ(81)、「海燕ジョーの奇跡(84)若松孝二監督の「水のないプール(82)などのシナリオライターとして14本の公開映画の脚本を書いた(共同執筆含む)。一方、1964年瓜生良介らと発見の会を結成し「ゴキブリの作りかた(1966)、「でたらめバカのくそったれ(67)、演劇集団「変身」に「ハマナス少女戦争」(70)などの戯曲を提供、70年には俳優座の若手の依頼で「吠え王オホーツク」を書いたが、上層部の反対で菅孝行「はんらん狂騒曲」とともに上演拒否され、若手が脱退したいわゆる俳優座事件の関係者となった。その後、クスボリ共同体、東京ザットマン(その後ザットマン7に改称)を主宰、公演活動を続けた。「竜二(川島透監督 東映セントラル 1983)をつくった金子正次が主演俳優だった。

自らプロデュース、監督をして映画「きらい・じゃないよ」(91)、「きらい・じゃないよ2」(92)も撮った。93年肺がん罹患が発覚、94年「きらい・じゃないよ――百年まちのビートニクス(洋泉社 94.3.1)を発刊、94年3月27日、国立東京病院で死去、63歳
わたしは、75年ごろ映画「」をみた。「赤ちょうちん(藤田敏八監督 日活 74)との2本立てだったと思う。もちろん武田鉄矢の海援隊のヒット曲をテーマにした作品で、兄・秋夫(林隆三)、妹・ねり(秋吉久美子)が主人公だ。だが、内容はかなり異なる。新郎(予定)・耕三は秋夫の友人ではないし、そもそも登場しない。夜の鎌倉の崖からねりに突き落とされ、結婚する前に死亡しているからだ。行方不明の兄を心配した義妹・いづみ(吉田由貴子)を、秋夫は鎌倉の海岸のトイレでレイプし「きっと親譲りのイントウな悪い血が流れているんだな、俺たち。オヤジは朝帰りのたびに恨みがましく小言を言うオフクロをバットで追い回していたよ。子供心にもとても怖かった・・・」(年鑑代表シナリオ集 1974年版 ダヴィッド社p374)と嘯く。また行方不明の耕三と正式に結婚させようと、耕三の長兄・一夫(伊丹十三)を訪問した秋夫は、あやうく一夫に男色で犯されそうになる。ストーリーの一部を書いていてもかなり変な脚本だ。映画をみたときは、義妹をレイプする前に、まるで義眼のようにみえる木製のメガネを秋夫がはめたりはずしたりするシーン、妻に男色の現場を目撃されたデザイナーの一夫の自殺発見現場で、床に座り空色の壁に鼻を押しあてて死んでいるシーン、自宅の風呂で秋夫が何を思ったかいきなり口ヒゲの片方をバサリとそり落とすシーンなど、シュールなカットが強く印象に残った。ちょっとダリとブニュエルの「アンダルシアの犬」を見たときに似た印象を受けた。ただそのときは監督・藤田敏八の「技」かとも思っていた。
一方、74年ごろ東京ザットマンの芝居を見始めた。はじめに観たのは池袋の劇場で、金子正次と菊池健二が舞台や観客席を走り回り、食べ物を投げ合う芝居だった記憶がある。手元に残っているチラシでは「天皇の作りかた1975」(75.9.30-10.6プルチネラ)、「至急至急UFOから地球星!」(4.28-5.8自由劇場・年は不明)、「宇宙人少女とUFO少年の謎」(2.22-28プルチネラ)がある。舞台を駆けまわったり、全裸になるいわゆるアングラ劇だった。ストーリーらしいストーリーはない。天皇制を茶化す芝居が多かった。だがなぜか、つかこうへい事務所観劇とともに「病みつき」になった
内田さんは当然上演中は毎日舞台に来ていたので、長髪のお顔はわかった。当時わたしが住んでいた牛込原町に近い柳町のマンションに住んでおられることをたまたま知った。たまに四谷三丁目の駅から歩いているとき内田さんの姿をみかけることがあった。
わたしは81年暮れに地方転勤になり、以降ザットマンの芝居はみられなくなった。

内田さんが岡山出身で、実家は古書店ということは知っていた。岡山に旅に行くので、この機会に岡山時代の内田さんの足跡を調べようと思った。観光協会や図書館に問合せをした。すると吉備路文学館の方からいくつかの情報を教えていただき、さらに県立図書館のレファレンスの方から貴重な情報をいくつも教えていただいた。東京の国会図書館にも雑誌掲載のいくつかの資料があることを知り、閲覧に行った。とくに役立ったのは「シナリオ(日本シナリオ作家協会1992.12)桂千穂作家訪問インタビュー、「映画芸術(1994.7)の追悼・内田栄一の年譜、上の妹・滝本順子さんの「赤いチンチン電車」(私家本 2001.6)だった。
「シナリオ」と後述の「日本主体派」は吉備路文学館から、その他は1950年代の地図も含めすべて県図書館からからの情報で、深く感謝している

 
真ん中の4階建て建物がメガネのアイ 手前の黒いフェンスは電停 右・『岡山市街精密地図』(日本精密地図出版社/編 日本精密地図出版社 1954)  内田の下に「内田興文堂」の書込みが見える
内田の実家は、明治末期に祖父母が創業(滝本p62)した古書店・内田興文堂で、表町3丁目・西大寺電停の北西角から3軒目にあった。祖父母の子は娘1人で、愛媛県内子町五十崎の小さな宿屋の息子を入り婿に迎えた(滝本p63)岡山電気軌道西大寺町停留所はいまも同じ場所にある。角は西大寺町のアーケードと弁当屋、隣は1階が駐車場のビル、メガネのアイ、貸ホールのユートピアと並んでいたので、跡地はメガネのアイあたりかと考えられる。朝ドラ「カムカムエブリバディ」の商店街ロケ場所まで50-60mほどの場所だ。

内山下小学校跡地 この写真より左手に重要文化財・西丸西手櫓がある
内田は自宅から800mほど北にある内山下(うちさんげ)国民学校を1943年に卒業した。この小学校は1887(明治20)年開校の歴史ある学校で、1933-37年に鉄筋校舎に建替えられた。45年6月29日未明の岡山大空襲で大きな被害を受けた地域だったが、幸いこの鉄筋建築は焼け残った現存の校舎に内田は通ったはずだ。なおこの場所は藩主・池田光政が隠居所とした場所で、いまも岡山城西丸西手櫓(重要文化財)がある。学校としては2001年に閉校になったが、いまも社会福祉法人の就労支援施設(作業所)として利用されている。
校門を入ってすぐのところに「日露戦争記念樹」の石碑が残っていた。
旧制中学3年の栄一は、1945年6月29日未明の岡山大空襲当日、高射砲弾をつくる軍需工場で徹夜の作業中だったが無事だった。内田の担当は、不良品の弾頭部分を旋盤で切り落とし廃棄する作業だった(桂p4)。妹2人も含め家族は全員無事だったが、自宅は全焼し、2日後に下津井(児島の南のほうの海岸の村)の借家に避難、その後岡山の北西13キロほどの吉備線足守に転居した(滝本p34、40)。また父の故郷・愛媛県内子町五十崎にいた時期もある。

関西高校正門 ほかはすっかり建て替わっているが門だけは内田が在籍中と同じだと思われる
戦時中に入学した旧制中学はわからないが(一番近いのは岡山一中)、戦後学制変更で卒業した新制高校は岡山から西に1駅の備前三門駅北西にある私立関西(かんぜい)高校である。関西高校は1887(明治20)年私立岡山薬学校として設立、94年私立関西尋常中学校となり1900年現在地に移転した。1949年当時、岡山県高校新聞が発行され、栄一が関西高校代表だった(宅野健次「岡山古本屋巡礼」2010 p206)。なおこの本には戦後バラック建てと新築後の内田興文堂の店舗外観と栄一の父・美満(よしみつ)が電話応対している写真が掲載されている。
内田は、10人前後の同人で前衛文学会というグループをつくり、雑誌「日本主体派」第1号(1949年11月)、第2集(50年2月)を発刊し編集・校正を一人で行い、発行所も西大寺町97の自宅に置いていた。

第1号巻末「宣言・横につながれ」で、「年取ったボスふうな」詩人たちを批判したあと内田は「ぼくたちがそれらを破壊し、新しい藝術を創造する“宣言”なのである。そのため、ぼくたち若い世代の集りであり、ぼくたちと同じ生き方をする人々の協力を求める集りである日本主体派は(略)横につながって猛進しなければならない」と宣言する。世代間対立の問題はどの時代にもあるが、敗戦後4年の時期なのでいっそう瑞々しい。「をかやま現代風俗」という詩で「をかやま銀座は高級喫茶と洒落た化粧品店洋裁店 千日前は四つの映画館と南京豆の食ひかす横丁マーケット(略)大都会の植民地ふうな風景でごつた返してゐるをかやまの街よ(略)東京より半年も遅れアメリカではカビの生え初めたニュールックが舞ひ歩くをかやまの街よ(略)」の一節には、「なんとか家を出て学校へ行きたいから、まず東京にいきたかったんだけど」(桂p5)という志向が表れている。
11月26日に旭東小学校講堂で「第1回岡山秋の詩祭」を開催するとの告知がp6に掲載されている。主催は前衛文学会だが、協賛が野間宏、小野十三郎、安部公房、関根弘らの「世紀の会」と「岡山詩話会」、小野十三郎が「現代詩の諸問題をめぐりて」のタイトルで講演予定とある。
桂のインタビューで「どういうきっかけで物書きになろうと思ったのか」という質問に「『綜合文化』っていう雑誌が出てて(略)安部公房さんと関根弘と勅使河原宏さんも入ってたかな。“世紀の会”とかいう芸術運動やるからと、会員募集みたいなのがあって応募したんです(略)安部公房から「内田栄一を岡山県支部長に任命する」っていう手書きの葉書が来てね(笑)」(p7)と答えているがこういういきさつだったのだろう。
ただ2集の後記に「近く同君(内田のこと)も上京することとなり」とあり、これが鎌倉アカデミア行きのことと解釈される。内田が19歳のときである。
鎌倉アカデミアは1946年5月鎌倉の材木座光明寺を仮校舎とし、三枝博音(哲学者)が学長、教授に高見順、林達夫、中村光夫などがいた。劇作家・村山知義も一時期、演劇科長を務めた。出身者に作家・山口瞳、作曲家・いずみたく、タレント・前田武彦、女優・左幸子がいる。内田は面接と国語・作文だけで入れるという理由で選んだが、すでに経営難に陥った時代で、4月にあると思った入学式が49年5月か6月、すぐ夏休みになったが、通知で緊急招集され、8月末に閉校式ということになった。だから上級生も知らず授業もほとんどなかった。しかし東京にいたいので、横須賀基地の警備員のアルバイトをしていた(桂p5-6)。また「世紀の会」が法政大学の教室で研究会をしていたので参加し、野間宏、花田清輝らの話を聞いた。ただだんだん食えなくなり、岡山の実家に戻り古本屋の手伝いをした。
河出書房の雑誌「文藝 」の同人誌推薦小説コンクールに「浮浪」で応募し、1955年1月号に掲載された。安部から「文学をやろうと思うんだったら田舎に居てはダメだ、東京に出てきなさい」との手紙をもらい2年くらい準備期間をおいて再度上京した。当時安部はNHKの子ども番組の台本を書いていて、その下書きを内田が書いたり、安部の紹介で日本テレビの人形劇の台本やラジオの連続ドラマの台本、NHK大阪放送局の和田勉のドラマを書いた。これが映像ものの始まりだった(桂p7)。その後、TBS「七人の刑事(内田のシナリオ執筆は65-66年)、日本テレビ「ダイヤル110番」の脚本も手掛ける。
以降、岡山との縁は切れる。内田の母は1973年、父は77年に死去したが(滝本p56)、多忙を理由に葬式にも戻らなかった。翌78年内田興文堂は閉店した。妹・順子が「20年近く音沙汰がなかった」と書いている(滝本p157)

小川洋子さん、坂手洋二さんらの色紙
☆3月12日(土)夜、NHKの「有吉のお金発見 突撃!カネオくん」の「ここまで進化!“図書館” お金のヒミツ」を偶然見た。「来館者数&本の個人貸し出し数が全国1位」が岡山県立図書館とのことだった。現在の建物になったのが2004年、わたしがお世話になったのは郷土資料分野だが、司書の担当は6分野に分かれているそうだ。企画展示も豊富で、たとえば4月の人文科学は「春のおでかけ」「手帳活用術」、郷土資料では「西東三鬼」、ティーンズコーナーは「中高生による企画展示」ということで就実中高と第一学院、自然科学は「SDGs」など18ものテーマで開催していた。その他、福袋や企業が特定雑誌のスポンサーとなる制度などアイディアあふれる図書館だ。番組でいちばん驚いたのは、バックヤードの書庫から窓口まで担当者が走って届けるシーンだった。3分以内と言っていたように思う。
入口に作家の小川洋子さん、昼田弥子(みつこ) さん、劇作家の坂手洋二さんなど岡山県出身の方の色紙が展示されていた。イベントや会議で来館されたときにお願いしたものだそうだ。ふつう図書館内の撮影は禁止だが、窓口でお願いすると、腕章を貸していただき撮影OKになった。こんなことも、ふつうの図書館ではすぐには許可されないと思う。すばらしい。
たまたまいい図書館の経験豊富で勘が鋭い優秀なレファランスの方に巡り合うことができ、充実した旅にすることができた。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 首都圏9音大選抜オケの「ブル... | トップ | 寅さん映画の高梁、津山への旅 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

」カテゴリの最新記事