広報邂逅記

広報宣伝に携わる私が、世の中の面白いこと、美味しいものや温泉鉄道旅を紹介します。(⌒∇⌒。)三(。⌒∇⌒)。

ブログ160227 直島へ~本村港到着

2016-03-02 18:53:24 | 食べ物
17:10
1本早い船に乗れたので、予定より1時間く直島に到着。

島の港は小型船専用だからか、桟橋があるだけの寂しいものだった。。。
当然、チケット売場もなく、往復で買っておいて良かった。

全て前倒しで慌てての移動だったので、宿までの地図を出しておらず、たまたまいた人に声をかけたら、分からないと言われてしまい、さてどおしようか?

しばらくすると、首からIDをぶら下げたおばさんが自転車で現れ声をかけてくれた。

何となくの場所を教えてくれた。
せっかくなので島の逆側のILOVE湯へ自転車で行ったらどのくらいか?と訊ねてみた。
10~15分とのことだが、アップダウンもあるし、今日は天気も悪いからバスで行くことを勧められた。

自転車はどうするのか?と聞かれたので宿で借りる予定と答えると、民宿の自転車はボロボロなので、湾の横にあるTVCサービスというレンタサイクルで電チャリを借りることを勧められた。

おお、電チャリがあるのか。
ならばその方がいいが、宿に予約しちゃったしたなぁ。

その後、宿まではスマホのマップで検索したら出てきたので、無事にたどり着けた。

やはり、ネットとはちょっと違う感じの民宿だった。
ただ、入口には立派な松があった。

入口には男性用のスニーカーが沢山雑然としてあり、一体どんな人達が泊まっているのだろうって感じだった。

宿の人がおらず、居間で待っていると、おばちゃんがやって来て説明をしてくれた。
ちょっとぶっきらぼうな感じだが、民宿だから致し方ない。

宿泊客は島の工場で日勤、夜勤で働く男性のようで、どうやら観光客は筆者だけみたいだ。

なので、宿というよりは寮みたいな感じで、少しがっかり。
宿で気を使ってくれたのかリホームした綺麗なお部屋だった。
島らしい民宿を期待していたので、安いヤンママ風の設えの部屋に微妙感が否めない。

1時間早目に着いたことと、天気もくだりさなので、18:10のバスで行くことに。

帰りのバスも20:45なのでゆっくりできそうだ。

しかも、宿のおばちゃんが明日も天気悪そうよと言ってくれたので、それなら自転車は辞めると丁重にお断りできた。
よかった。

バス停はすぐ近くのJA農協前にあり、利便性はよかった。

1時間に1本のせいか、それなりに乗っていた。

1回100円なので、採算は取れていないだろうけど。

5~10分ほどバスに揺られ宮浦港へ。

TVCサービスがこちらにもあった。
どうやらレンタサイクルは乗り捨て出来そうだ。

ILOVE湯への場所を聞き路地を入って行く。


バス停
http://guesthouse-hostel.com/naoshima-choei-bus/
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ブログ160227 直島へ~豊かさと引き換えにした自然とアートの島への展望

2016-03-02 07:22:35 | 食べ物




16:55

宇野港を出て5分。

赤茶けた山肌が見える島が現れた。
石油コンビナート風だが、工業に特化した島なのか?
それとも採石場として、山が切り崩されて、こんな姿になってしまったのか?

アートの島、直島とは別の島だろうと思っていたら、船は工業地帯と逆側の港に着いた。
直島にこんな場所があったとは…。


アートの島としか知らなかったので調べてみると、直島にはこのように発展を遂げた深い歴史があった。

人口の流出や漁業の低迷を受けて、大正時代に銅製錬所の受け入れ 、三菱金属鉱業の企業城下町として急速に発展する。
それにより、瀬戸内の離島においてだけでなく香川県内でも有数の裕福な自治体となる一方で、島の北半分および周囲の島々の木々がほとんど枯れるという煙害に悩むこととなった。


筆者が見た赤茶けた山肌は、その爪跡なのだろうか?

戦後、銅の国際価格の低迷から製錬事業そのものが低迷し、直島製錬所はリサイクル事業など、金属製錬以外の新規事業開拓を迫られていた。

そこへ、隣の豊島にて発生した産業廃棄物の不法投棄が問題となり、
1998年から三菱マテリアル直島製錬所敷地内に、豊島廃棄物中間処理施設から産出される飛灰を処理し金属などの資源として再生する産廃処理施設を総合的に整備する「直島エコタウン事業」構想(エコアイランドなおしまプラン)が始まった。

豊島産廃を受け入れるに当たり、直島も産廃で汚染されるというような誤解が広がる中、香川県は漁業や観光への風評被害の対策を行った。

島の南端の風光明媚な地区を観光地にしようと藤田観光を誘致したり、高度経済成長の辺りから努力はされていたが報われず。

その後に島を文化的な場所にしたいという意向で町長・三宅親連と福武書店の創業者・福武哲彦との間で意見が一致。
1989年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープン。
後を継いだ福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992年にホテル・美術館の「ベネッセハウス」建設などへと拡大する

最初は関心のなかった町民も家プロジェクトで共同作業をするようになり、積極的に観光斡旋に参加するようになったようだ。

今では町全体がアートと観光の町となって、多くの方が訪れるわけだが、本当に公害から見事に文化的変貌を遂げた珍しい例かもしれない。

欲を言えば、16:30で閉めずに17:30くらいまでやっていて欲しいものだが、まあ、島ののんびりにはちょうどいいのかもしれない(笑)

小さな町だからこそ出来る変化なのかもしれないが、中途半端な変化で尻つぼみになるなら、これくらいガラッとやってしまえば、後は自ずと皆んなついて来るのかもしれない。

やはり、求心力とリーダーシップが肝要だ。

浅草もスカイツリーを機に復活の兆しがあるが、やはり、町全体が何かに一直線に向かわないとダメなんだろうなぁ。




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