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春日宮曼荼羅を詳しく見てみると、
右から
文殊=若宮
釈迦=武甕槌命
薬師=経津主命
地蔵=天児屋根命
十一面観音=比売神
の配置になっている。
中の門の外側にお参りに来ている人達の姿も描かれていて、
よく見ると手に数珠をはめているらしい。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/207210
春日社の景観を俯瞰(ふかん)的に捉えて描く春日宮曼荼羅(かすがみやまんだら)は、春日の神と、その本地仏(ほんじぶつ)に対する礼拝(らいはい)のための画像として用いられた。画面最下部の一の鳥居より参道が伸び、緑深き神域が広がる。左手に東塔・西塔をみながら進むと二の鳥居、さらに進めば左手に廻廊(かいろう)に囲まれた本社、右手には若宮がある。他に描きこまれる摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)を含め、これらの位置関係は基本的には実景に則して描かれるが、二次元の制約ある画面に表現するための省略や整理はなされている。社殿の向こうには御蓋山(みかさやま)、その背後に春日山、空には丸い金色の日輪(にちりん)(あるいは月輪)(がちりん)が浮かぶ。以上のような構図は多くの春日宮曼荼羅に共通する、定型化した表現である。
http://www.narahaku.go.jp/collection/496-0.html



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春日曼荼羅(春日宮曼荼羅)
南市町自治会 鎌倉時代 13世紀
この曼荼羅は浄土~春日社を描いている。
神社なのに“曼荼羅”?と思う人もいるかもしれないが、昔は神仏が融合していた時期もある。
明治の廃仏毀釈により、多くの仏閣が消滅してしまったが、所々には残っている。
近くでは、お酉さまで有名な鷲神社のお隣(同じ敷地)には鷲在山長國寺があるし、清水寺には地主神社がある。
この曼荼羅ては、春日の神様は=御釈迦様という訳?だ。
ちなみに、この曼荼羅の裏側には御釈迦様の涅槃(ねはん)図が描かれている。
ところで、
春日大社の参道は朝夕に金色になる。
それは、今でもだそうです。
見てみたいなぁ…。
http://www.narahaku.go.jp/collection/496-0.html
春日社の景観を俯瞰(ふかん)的に捉えて描く春日宮曼荼羅(かすがみやまんだら)は、春日の神と、その本地仏(ほんじぶつ)に対する礼拝(らいはい)のための画像として用いられた。画面最下部の一の鳥居より参道が伸び、緑深き神域が広がる。左手に東塔・西塔をみながら進むと二の鳥居、さらに進めば左手に廻廊(かいろう)に囲まれた本社、右手には若宮がある。他に描きこまれる摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)を含め、これらの位置関係は基本的には実景に則して描かれるが、二次元の制約ある画面に表現するための省略や整理はなされている。社殿の向こうには御蓋山(みかさやま)、その背後に春日山、空には丸い金色の日輪(にちりん)(あるいは月輪)(がちりん)が浮かぶ。以上のような構図は多くの春日宮曼荼羅に共通する、定型化した表現である。 本図では、画面上部に讃文を記すための色紙形が設けられており、右から「未得真覚恒所/夢中故仏説為/生死長夜由斯/未了色境唯識」「本体盧舎那/久遠成正覚/為度衆生故/示現大明神」とある。一つ目は興福寺が奉じる法相宗(ほっそうしゅう)の所依経典(しょえきょうてん)である『成唯識論(じょうゆいしきろん)』中の語句、二つ目は春日大明神の本体を盧舎那仏(るしゃなぶつ)とする、春日の講式(こうしき)等にみられる本地垂迹を表す定型語句である。また画面左下には「岩清水神宮/大□□□常住」との朱印が確認され、本図は岩清水神宮に置かれた時期のあったことがわかる。


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若宮神社のおん祭では
神様が喜ぶ祭りをする。
つまり、芸能が奉納される。
松の下式
田楽、舞楽など
23時を過ぎると帰り仕度をし、24時までに若宮様はお帰りになる還幸の儀がおこなわれる。
春日大社の巫女さんは「御巫(みかんこ)」と呼ばれ、1年に100回もの儀式をおこなう。
春日大社の神紋でもある下り藤と同じ、藤の花の簪(かんざし)をつけているのが特徴。
榎本神社(春日大社の摂社)
3月15日田植え

水谷神社(春日大社の摂社)
4月5日 鎮花祭
正応元年(1288年)に創始。夏期に多い疫病の流行を鎮める祭り。
桜の花よそんなに早く散らないで→早く散ると病気が流行るため
松の下式
http://www.kasugataisha.or.jp/onmatsuri/1217.html#kankou
一の鳥居の内、南側の壇上に「影向の松(ようごうのまつ)」がある。この松は能舞台の鏡板に描かれている松といわれ、春日大明神が翁の姿で万歳楽を舞われたという由緒ある場所である。 ここを通過する陪従(べいじゅう)・細男(せいのお)・猿楽(さるがく)・田楽(でんがく)は各々芸能の一節や、所定の舞を演じてからでないと、お旅所へは参入できない事になっている。 松の下を通ってお旅所へ参入した十列児(とおつらのちご)は馬より降りて、装束の長い裾を曳きながら馬を曳かせて、芝舞台を三度廻り、馬長児(ばちょうのちご)は馬上のまま三度舞台を廻って退出の時、ひで笠に付けた小さな五色の紙垂を、大童子(だいどうじ)が神前へ投ずるという、珍らしい所作などがある。
それにもう一つ有名であるのは「金春の埒(ちち)あけ」と言われるもので柴の垣に結びつけた白紙を金春太夫がお旅所前で解いてから祭場へ入るというもので「埒があく」という言葉もこれからおこったと伝えられている。 尚午後2時30分過から松の下において興福寺ゆかりの宝蔵院流槍術の型奉納が家元により行われる。
還幸の儀
遷幸の儀と還幸の儀の間は二十四時間以内でなければならない事になっている。つまり二日間に亘ってはならないのである。だから遷幸の儀は17日午前零時過であり還幸の儀は17日午後11時頃から開始され、18日午前零時にならぬうちに若宮神社へお還りになるのである。
お旅所行宮において神秘の行事ののちご出発となる。遷幸の儀にくらべ、お還りになる還幸の儀の道楽(みちがく)(還城楽(けんじょうらく))、つまり旅情をお慰めする音楽は、テンポもやや早く軽やかなものとなる。
遷幸の儀と同じく大松明が道を清め、沈香の香りが漂う中を警蹕の声と共にお還りになる様子は江戸時代の郷土史家村井古道が、正に神代の昔にかえったような感動を覚えると書き残しているとおり、荘厳かつ神秘なもので他に例を見ないものである。
若宮紳社では、お還りを待ち受けている神人等によって待太鼓が打ち鳴らされ、その太鼓の音と微妙に溶け合った道楽のしらべにのって、若宮神は無事に元の本殿へとお鎮りになる。
その後、神楽殿で社伝の神楽が奏せられ、華麗な祭りの幕が閉じられるのである。
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こちらの資料は若宮神社のおん祭
遷幸の儀(せんこうのぎ)
12月17日午前0時
若宮様が社殿を出て別の所へ移動する。
・お香のかおり
・燃えてるかおり
・火が見えてくる
・松明の火が車の轍のように残る
神様はお榊にくっついている。
(神様はくっつくのが好き)
「お~お~」と言いながら通ってくる。
御旅所(おたびしょ)へ行く
仮の建物が作られる
普段はない
若宮神社とおん祭
http://www.kasugataisha.or.jp/onmatsuri/wakamiya.html
春日大社の摂社である若宮の御祭神は、大宮(本社)の第三殿天児屋根命と第四殿比売神の御子神であり、その御名を天押雲根命と申し上げます。平安時代の中頃、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になり、当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と仰がれていました。
長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢饉が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり、保延元年(1135年)旧暦二月二十七日、現在地に大宮(本社)と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。若宮の御神助を願い、翌年(1136年)旧暦九月十七日、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりです。
御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天の続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われ、八百七十有余年にわたり途切れることなく、今日に至ります。
遷幸の儀
http://www.kasugataisha.or.jp/onmatsuri/1217.html#kankou
若宮神を本殿よりお旅所の行宮(あんぐう)へと深夜お遷しする行事であり、古来より神秘とされている。現在も参道は皆灯火を滅して謹慎し、参列する者も写真はもちろん、懐中電灯を点すことすら許されない。これらはすべて浄闇の中で執り行われることとなっている。神霊をお遷しするには、当祭においては大変古式の作法が伝えられ、榊の枝を以て神霊を十重二十重にお囲みして、お遷しするという他に例を見ないものである。全員が口々に間断なく「ヲー、ヲー」という警蹕(みさき)の声を発する。又、楽人たちが道楽(みちがく)の慶雲楽(きょううんらく)を奏で、お供をする。
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